第79話「悲報」
東海の決戦から時間を少し遡り、スザク国奥地の龍の郷。
慌しく動き始める龍の一族を目にして、ただ事ならぬ状況を理解する魔女シャーロットたち。特に龍の長ハーシルの態度は尋常ではなかった。今までの悠然とした態度とは打って変わり、矢継ぎ早に怒声混じりの指示を飛ばしていた。
《違う! 早くアマニに伝えろ! インギアを南大陸から呼び戻し、すぐに秋津へ向かわせるのだ! 郷の全兵も残らず向かわせろ! 事は一刻を争う!》
《し、しかし、そうなると郷の警備は……》
《くどい! 奴への対処は全てに優先する! 龍族の未来がかかっているのだ》
そんな様子を見ながら、疾風の闘士レイは銀色の短髪をぼりぼりと掻きながら、困ったように首を竦めた。金蛇屋藤兵衛も戸惑いの色を隠すことなく、不審そうにキセルに火を付けた。
「まいったねこりゃ。俺らの用事どころじゃなさそうだぜ。日あらためて出直すしかねえな」
「そうじゃの。何やら剣呑な雰囲気じゃが、口を挟んでは藪蛇になるやもしれぬ。万が一機嫌でも悪くされたら大損じゃからのう。どれ、庵に戻るとするか。ところで……シャルはどうしたのじゃ?」
辺りからは、いつの間にか彼女の気配がなくなっていた。慌てて2人はキョロキョロと周囲を見渡すが、何処にも彼女の姿は見当たらなかった。
「ったく、どこほっつき歩いてんだか。だいたいよ、てめえが目え離すからこんなことになんだぞ!」
「何じゃと! そもそもシャルの世話役は貴様ではないか! 普段偉そうにしておいて、困った時だけ儂に責任を押し付けるでない!」
「ああ?! てめえこそエラそうに、お嬢様を守るとか貰うとかホザいてたじゃねえか! ホレた女1人守れねえで、よくも大商人だのなんだのぬかしてやがんな!」
「ふん! 貴様のような人格破綻者の狂人に言われたくないわ!」
「うるせえ!! ……ん?」
「グェ……ん? 何じゃ? 何故止まる?」
振り上げられたまま動かないレイの拳。それだけではなく急に身体全体も止まり、彼女は立ち尽くしたままぐるんと目が回転した。みるみる亜麻色に変わる髪の色を目にし、藤兵衛は構えかけた銃を下ろしてほっと胸を撫で下ろした。
「何じゃ、セロか。心配させおって。久し振りじゃのう。具合はどうじゃ?」
「悪くないよ。てかさ……ボクらってそんな気軽に話せる仲だったっけ? もともと敵同士じゃなかった?」
そう言って可笑しそうにくすくすと笑うセロ。だが藤兵衛はまるで意にも介さず、悠然と煙を鼻から噴き出した。
「ふん。この儂につまらぬ価値観を当て嵌めるでないわ。して、お主は何をしておったのじゃ? 暫く気配すら出ておらぬようじゃったが」
「うーんと……いろいろ。自分の中でいろんなことを整理してたんだ。で、やっと結論が出てさ。それをレイに伝えようと思って」
「丁度良かったではないか。お主らの尻には火がついておる訳じゃしの。遂に虫もその身体から出て行くという訳か。いやあ、実に目出度い。虫が取り憑いておっては折角の美貌が台無しじゃからのう」
セロはその言葉に対し気まずそうな、何とも言えない寂しげな表情を浮かべたが、すぐに振り切るように笑顔に戻った。
「……ま、そのことは後で。そうそう、シャーロットは力車に戻ってくのが見えたよ。迎えに行ってあげたら?」
「おお! そうか! 虫とは違って使えるのう。恩にきるぞ」
「いいえ。それじゃ、いったんレイに代わるね。……またね」
「うむ、うむ。達者でのう。……!? ち、ちと待てい! 虫に代わるということは、それはつまり……」
髪がみるみる銀一色に変わるにつれ、彼女の和かな笑顔は燃え滾る忿怒に変化していった。全身の筋肉は怒張し、鋼の如き握り拳に太い血管が脈打っていった。
「言い残すことは……あるか?」
「ヒ、ヒィィィィイイイ!!」
暗闇の郷中に藤兵衛の悲鳴が響き渡った。秋更ける夜、鈴虫の音が季節の終わりを告げる中、藤兵衛たちの夜も深い漆黒の峡谷にあった。
暫しして。
質素な庵の中で一人佇むレイ。少しだけ隙間の空いた家の扉からは、深い夜の闇がほと見えた。レイは土間にごろりと横たわり、床に転がっていた果実に躊躇いなくかぶり付くと、すぐに渋い顔をしてぺっと吐き出した。
「にがっ! なんだこれ?! 腐ってんじゃねえのか?」
[ああ、もう! なんでそんな無茶するのさ! お腹壊しても知らないよ」
頭の中でもう1人の彼女、セロの声がした。レイはふっと小さく笑ってぼりぼりと頭をかくと、ごろりと天井を向いた。
「んだな。じきにてめえの身体になるわけだしな。俺がテキトーにやれる筋合いじゃねえか。悪かったよ」
[あの……そのことなんだけどさ。実は……]
「ああ? いまさら文句あんのか? てめえが望んだ話だろうが!」
[ヒィィ! な、なんでいつもそんなに攻撃的なのさ! ほんと嫌になるよ]
側から見れば独り言でしかない、頭の中の2人の掛け合いは続いていた。空にかかる雲がゆっくりと流れていき、レイは何度も態勢を変えながら怒鳴り声を張っていた。
「で、なんだよ? はっきり言いやがれ。こっちも急いでんだ」
[実はさ……ずっと迷ってたんだけど、この身体は……レイに使ってもらえないかな?」
「あ? なんでだよ。意味わかんねえ。もともとてめえのモンだろが。まさかルシフェルの与太話を間に受けたんじゃねえだろうな?」
[……それもあるよ。正直言ってね。実際ボクの記憶なんてすごくあやふやでさ、本当にボクがここにいていいのか正直信じられないんだ。それに……ガンジのこともそう。ボクのために彼は死んだ。ずっとずっとボクを守ってくれてた人を……救うことが出来なかった。だからもうボクなんて……]
「うるせえ!!」
[グェポ!! な、何するのさ!]
自分の頭を思い切り殴り付けながら、レイは更に大きな声で叫んだ。
「ガタガタ言ってねえで、もらえるもんは黙ってもらっとけや。自殺なんざ1銭にもならねえぞ!」
[へへ。その言い方……まるで藤兵衛みたいだね]
「え!? あ、あああ!! お、俺としたことがなんつうことを! 今のはナシだ! 忘れろ!!」
珍しく顔を真っ赤にして狼狽えるレイに、セロは楽しそうに笑い続けていた。
[ふうん。レイも変わったね。あのオジサン……やっぱ普通じゃないよ]
「うるせえ! もうこの話はしめえだ! ともかく、死ぬのだきゃあ許さねえ! ぜってえだ!!」
[レイの言いたいことはわかるよ。でもボクはもう……]
「でももへったくれもあるか! どんな運命だか因果だかは知らねえが、俺とてめえは一連托生で生きてきたんだ。ある意味じゃ……姉妹みてえなモンだろが! だから死ぬんじゃねえ。他の連中はいざ知らず、てめえが死んだら……少なくとも俺は……マジで悲しい」
はっきりと言い切られた強い言葉。思いもよらぬ感情の発露を受けたセロは、自らの言葉を途切らせただ俯くのみだった。
[やっぱ……変わったね、レイ]
「知らねえよ。俺は俺のままだ。わけわかんねえ生きモンなりに、ちったあ考えもするさ」
[……レイ。ボクに1つ提案があるんだけど、聞いてくれる?]
セロはゆっくりと、言い聞かせるように口を開いた。レイは彼女の言葉に耳を傾け、幾つかの会話をした。時間がゆっくりと過ぎていった。夜は等しく誰の上にも訪れていた。
同時刻、郷の入り口付近。
道の端に止められた力車から、呻き声とも叫び声ともつかぬ苦しげな女の声が漏れていた。声の主はシャーロット=ハイドウォーク。彼女は全身から汗を流し、苦痛に耐えながら車内に横たわっていた。美しい顔を苦痛で歪め、長い髪をかき乱しながらただ耐えるのみ。
そんな彼女が乗る力車の横に、1人の紫龍がふわりと舞い降りた。とても優雅に、とても静かに。シャーロットは周囲の変化に気づくと、乱れた髪を直してにこやかな表情で外に歩き出た。
「何か御用ですか? ここには私しか居りませんが。……おや、貴女は?」
何処か見覚えのある影を確認し、驚きの表情を浮かべるシャーロット。中型の紫龍は優しく微笑むと、その手から彼女に光を差し向けた。
《初めまして、シャーロットさん。私はウペンド。この郷の医療担当で、あなたたちが助けてくれた蒼龍インギアの実の妹よ》
「まあ。インギア様の妹さんですか。初めましてウペンド様。私はシャーロットと申します。気軽にシャルちゃんと呼んでください」
ふらふらとした足取りで近付き頭を下げるシャーロットを、美しき紫龍は静かに手で制した。
《そのままでいいわ。大分無理をしているみたいね》
「そんなことありません! 私はへっちゃらなのです! ほら、見て下さ……!?」
言い終わるや否や、その場で足を纏らせてよろけるシャーロット。しかし、はだけた足元からちらりと見えたのは、どす黒く浮き出た痣のような跡。それを見たウペンドの顔色は、俄に厳しい色に変わっていった。
《この症状……まさか!!》
「……ご存知でしたか。御察しの通り、私は『黒炎症』に罹患しております。残された時間は少ないでしょう」
《何てことでしょう! そんな所までアガナ様と一緒だなんて!》
「誰にも言わないで下さい。私は残された命を、使命のために費やしたいのです。そして、愛する人と同じ時間を過ごせれば……それだけで私は満足なのです」
にこりと、本当に美しくシャーロットは笑った。インギアは目を伏せて微かに涙を溜めながら、歯を食いしばりとても小さく呟いた。
《あの方も……同じことを仰っていたわ。限りある時間を全て、愛する相手の為に使おうとして。それでも……上手くいかなくて……。けどアガナ様は懸命に生きて、愛する人と同じ時間を、少しでも共有しようとしていらっしゃった。でも……》
「ふふ。でもね、インギア様。私はとても幸せなのです。ずっと一人ぼっちで生きてきた私に、沢山の仲間ができましたから。しかも心から愛する殿方が、ずっと側にいてくれるのです。聞いてくれますか? あの方は私を……こんな闇に塗れた穢らわしき私を……妻にと。そう仰ってくれたのですよ。私はそれだけで、それだけで十分なのです」
《シャーロット……》
インギアは震える両手で、覆い被さるようにシャーロットを抱きしめた。涙が止まらなかった。かつての光景を、誇り高き美しい女性を思い出したから。それに負けぬくらい素晴らしい子孫に出会えたから。そして、そんな彼女を救うことが出来ない無力さから。彼女は泣いた。今まで経験したことがないほど激しく、強く。シャーロットはその間じゅうずっと、美しくも儚い笑顔を絶やさなかった。
そして、少し離れた山中から、全てを聞く男あり。こんな話を耳にするつもりなどなかった。郷の外に出て収集したある重大な報告を、一刻も早く仲間たちに伝えようとしただけに過ぎなかった。
男は吸いかけのキセルの残りを深く深く肺の中に入れると、声を出さないように静かに一気に吐き出した。その男、金蛇屋藤兵衛は、顔も見えぬ闇夜の帳の中で、誰ともなく一人呟いた。
「……ふん。例え何が起ころうとも、儂のやるべき事は何も変わらぬ。受けた恩を万倍にして返し、恨みを億倍にして返すだけよ。その為に、今やれることを全力でやり切るのみじゃて。さて……果たして金が足りるものかのう」
そして、運命の夜が開けた。
ある者にとっては閃光のように短く、またある者にとっては泥土のようにぬかるんだ夜だった。
シャーロットが目を覚ますと、庵の中には誰の姿もなかった。常に短時間しか眠らず朝から行動する藤兵衛はさておき、いつも彼女が起きるまで側に侍るレイすらも居なかった。龍の郷の安全性を差し引いても、これは本来有り得ない事態だった。
「藤兵衛、レイ! 何処へ行ったのですか? 私はとても寂しいです!」
返事は返って来なかった。シャーロットは眠い目を擦りながら、布団から顔だけ出して傍の書物を開いた。昨晩から彼女が読みふけっていた一冊の本、そこにはハイドウォーク家に代々伝わる家系図が記されていた。彼女が引っかかっていたのは、とある部分。アガナ=ハイドウォークの傍に刻まれた、不自然な空白。周囲の記載と脈絡のない形と大きさに、かつては特に気にも留めなかったが、今の彼女には不信感と同時に、ある種の確信を抱かせた。
彼女は右手だけ布団から出し、とある術式を構築し始めた。すぐに多重円形の術式が発動し、彼女はその場で小さく頭を下げた。
「どうやら……やる価値はありそうですね。はしたない真似で申し訳ありませんが、祖先の秘匿、今から暴かせて頂きます。……『リベラール』!!」
術式が崩れ落ちると同時に、その場に大きな目の付いたガラス球のような造形物が召喚された。ギロリと向いた目から霧状の気体が噴射されると、本のページの空白が徐々に緋に色付いていった。
「やはりですか。上級術で秘匿しているとは……え? この内容は! ……やはり!」
そこに書かれていた文字は、彼女の予想通りのものだった。長女アガナ=ハイドウォークの横に、『長男ルシフェル=ハイドウォーク』。続く備考欄には、『神代歴640年を以て、ハイドウォーク家の歴史から削除』と。その理由までは書かれてはいなかったが、その筆跡からは強い意志と感情が感じられた。そして記述の最後には、この言葉で締められていた。
『“彼”の魂と力は、“彼女”によりゲンブの『楔』に厳封された。ハイドウォーク家の継承権は分家のウリエル=ハイドウォークに引き渡される。ロウランへの道は途切れたままだが、概ね計画は順調』
最後まで読み終わると、シャーロットは首を傾げて考え込んだ。後半の文面の意味が全く理解出来ない。誰が書いた文章なのかも、何故これを隠したのかも。この時代の文献は極めて貴重で、彼女とて知らぬ情報が多かった。暫し他の文献を当たったり、思案に暮れたりしたものの、いつしか彼女は諦めて本を閉じた。太陽は空の天辺で気前良く光を振り撒いていた。
「しかし……本当に誰も帰って来ませんね。私はとても寂しいです。こちらから探しに行きましょうか」
郷の入り口。時間と空間の歪みが不安定な境。
「……うむ。その線で進めてくれい、ムルオカよ。くれぐれも陛下には悟られぬようにの。……ふん! 最初からそう言うておろうが! 報酬は神明教への50億の寄付、これ以上ビタ一銭まからんわ! ……ほう。成る程の。それなら良かろうて。何とかして捻じ込んでくれい。ではの」
金蛇屋藤兵衛は、彼にしては珍しく苛立ちを隠すことなく、指輪に向かって声を荒げていた。朝一から数件の交渉をこなし、それでも足りぬとばかりに次から次へと連絡を取り続けていた。その目はいつも以上に鋭く真剣そのもので、激しい口調で訴えかけるその声からは鬼気迫る気配が感じられた。
「……じゃからな、左様な事は些事に過ぎん。貴様が知る限りでよいのじゃ。本国がどうだの、特秘がどうだのは聞いておらぬ。可能な限りの全ての情報を儂に寄越せい! 手段や方法は一切問わぬわ!」
「とは言え、藤兵衛様。こちらとて本国と敵対する身。アガナ様の情報は1つでも多く入手したいところですが、いかんせん先立つ物がなければ何とも……」
「下らぬ交渉など不要じゃ。儂を誰と心得るか? 金なら幾らでも用意する。着手金で10億、成功報酬は50億出そうぞ。早急に、全てに優先して事に当たれい!」
「……ほう。それはかなりの大金ですな。そこまで逼迫した事態、そう解釈して宜しいのですかな?」
「そういう下らん問答を差っ引くことも含めてのこの額じゃ! 兎も角、早急に情報を集めい! アガナの信徒たる貴様なら、かつて中枢で指揮を執っておった貴様だけが頼りなのじゃ! “黒炎症”の情報、アガナが罹患しておったという病について、どんな小さな事でも構わぬ! 全ての情報を儂に寄越せい!」
「ほほほ。了解致しました。すぐに取り掛かりましょう。少々心当たりがありましてな。……ところで、ガリアの小娘は元気にしておりますかな? 私は彼女のことが心配で心配で」
「ふん。嘘を付けい。そもそも貴様は、ガリアの件も全てを知りながら儂に黙っておったろうが。リースは……今の彼奴は元気とは決して呼べぬ。……ふん! もういいじゃろう! 儂にはやらねばならぬことがあるのじゃ!」
「おお、怖い怖い。大陸一の商人を怒らせたくはありませんな。早急に情報を集め、お伝えしますぞ」
通信は切れた。藤兵衛は足元に無数に転がった燃えかすの山を忌々しそうに蹴りつけると、心底不快そうに新しいキセルに火を付けた。
「さて、と。“黒炎”の方は今はこれが精一杯かの。やはりフリーダに渡りを付けねばならぬか。あの守銭奴に対して、金蛇屋を表立ってぶつけられんのはちと厳しいがの。しかし……亜門め! ……あの阿呆が!!」
吐き捨てた煙草が燻った煙を上げていた。鼻に付く嫌な臭いが取れることはなく、藤兵衛は天を見遣り1人目を細めた。
「あ! 見つけましたよ! こんな所に居たのですか!」
背後から気配。藤兵衛が勢いよく振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべたシャーロットが立っていた。藤兵衛は無理矢理に笑顔を返そうとするが、今の彼にはどうしても不可能だった。世界の状況はそんなことを彼に許しはしなかった。目の前の美しい女性を、彼が心底愛した女性を目の当たりにしても、それは何一つ変わらなかった。そしてその事実が、再び彼の胸を激しく突き刺した。
「お忙しそうですね、藤兵衛。また商売のお話ですか? 起きたら誰もいないので、私はびっくりしてしまいました」
「……」
和かで、穏やかな声。彼の耳には何処か遠い響きのする音。
「ふふ。『儂は商売のことは身内にも漏らさん』ですか? でもそれは通りませんよ。私も商人の妻となる身。少しは勉強しなければいけませんから」
「………」
「しかし……レイまでいないなんて珍しいですね。大方、何処かで拾い食いでもしているのでしょう。でも安心してください! 代わりに私が料理を作りましたよ。その辺の有り合わせの食材でちゃちゃっとやってみました! 藤兵衛も一緒に食べましょう。暖かいうちに食べないと、美味しくなくなってしまいますよ」
藤兵衛は、何も言えなかった。言える訳がなかった。張り裂けんばかりの感情が彼の胸を貫き続けていたが、言葉にしてしまうと、全てが失われてしまったと認めることになるから。だが、いつまでもそんな事が出来る筈もなく、にこにこと美しく微笑む愛する女性に対し、彼は自分の思いを押し殺し、敢えて事務的な表現を脳髄の奥から絞り出した。
「虫は……暫し戻って来ん。朝一でバルアと秋津国に向かったわ」
「秋津国に? ずいぶんと急ですね。セロのことはどうなったのですか?」
「その件は片が付いたようじゃ。狂人同士上手くやったと見える。じゃが、それよりも先に……どうしても話さねばならぬことがある。落ち着いて聞けい。……昨日、神代歴1279年11月29日、儂らの大切な仲間である高堂亜門は……彼奴は………秋津の海に散った」
「!? え? そ、そんな……亜門に限ってそんな事は……」
しん、と音が消えた。シャーロットは手に持った本を落とし、わなわなと手を震わせた。藤兵衛は目を合わすことなく、下を向いたまま言葉を続けた。
「儂とて認めたくないが……事実じゃ。リースだけでなく、アマニまでもが目撃しておる。亜門はルシフェル配下のカリスなる者に敗北して……死亡した」
「そんな……そんなのって……。ううっ……すべて……私のせいです。私の旅に同行したばかりに、こんな無残な結果に……。う、ううううう!」
「……シャルのせいなどではない。彼奴は秋津国の侍、生粋の武人じゃ。戦場に散ることは想定済みであろう。ただ……そう割り切るには余りにも……儂らの絆は強く結ばれ過ぎておったわ。亜門……儂の配慮が足りなかったばかりに……」
沈黙。深い深い沈黙。微かにすすり泣く声が響くのみ。藤兵衛はきつく強くシャーロットの肩を抱き、そのまま幾ばくかの時間が流れていった。
いつしか陽は地平線の彼方へ消えそうになっていた。藤兵衛は込めた力をそっと離し、優しく彼女の肩を抱いたまま、決意の表情を向けた。
「仇は……討たねばなるまいて。儂らのやらねばならぬことは何も変わらぬ。必ず儂は『転移術』を成功させ、お主を秋津国へと送ろうぞ。儂に力を貸してくれい……シャルや!」
「……はい。もちろんです。絶対に許してはいけません。必ず亜門の無念を晴らしましょう」
涙に乱れた目を擦りながら、力強くシャーロットは言った。その顔に、吸い込まれんばかりの美しく大きな瞳に、彼は言葉を失う。喉の奥に逆流するかのように、彼はそこに置かれるべき言葉を飲み込んだ。
(……そうじゃ。それじゃ。それが答えじゃ。迷いは弱さじゃ。過去に囚われていては何も……終わったことを引き摺っていては何も……!! ええい! 冷静になれい! 絶対に泣くな! 感情の発露に逃避するでない! こんな時にこそ、この儂だけは冷静にならねばならぬ! 誰に何と謗られようとも、今出来る事を全力でやり遂げねば! そして……しかと考えよ! 儂の唯一にして、絶対の答えを! 儂は何があってもシャルを失ってはならぬ! 亜門だけでなく此奴まで損のうては……儂は………この人生が大損じゃ! 儂は損だけは大嫌いなのじゃ!!)
藤兵衛は細い目を更に細めてキセルをふかすと、目の奥に溜まり続ける澱みを払い除けるように、まるで自分に言い聞かすように呟いた。
「さて……では行くかの。ハーシルが待ちくたびれておろうて」
龍の郷、奥地。
桜の舞い散る広場の中央で、古龍ハーシルが横たわっていた。彼は全身を大地に押し付け、死んだ魚の如き目で虚空を睨み続けていた。深い絶望と諦観を浮かべたまま、彼は自らを深くまで追いやっていた。どれくらいそうしていたか彼自身分からない。だがいつしか静寂を打ち破る声が、彼の鼓膜に飛び込んできた。
「邪魔するぞ、ハーシル。待たせてすまぬ」
ずかずかと入り込んで来たのは、金蛇屋藤兵衛とシャーロット=ハイドウォークだった。彼らは決意を秘めた目で古龍を見つめると、凛と澄んだ声を上げた。彼は目を閉じたまま彼らの方を向かず、ただ大きな口を僅かに開いた。
《レイは無事に旅立った。術は成功したぞ。それで……やはり……話は誠であったか?》
「……うむ。残念じゃが、間違いない。儂の情報筋からも確認出来たわ。高堂亜門は死んだ。歴とした事実じゃ」
《何と……いうことだ。この歳になり、再びこんな思いをすることになるとは。……何ということだ》
力なく言葉を吐き出すハーシルに、藤兵衛は拳を強く血が滲むほど握り締め、必死に平静を保とうとしていた。
「アマニの話から総合するに、敵は秋津の国自体を手中に収めておる様子じゃ。最初から亜門1人でどうなる問題ではなかったわ。それに、敵将は亜門を寄せ付けぬほどの剣技の持ち主で、あろう事か秋津の帝龍ムワーナを従えておった。積まれた石の厚みがまるで異なり、端から敗北は必至じゃったという事よ。彼奴を単騎で向かわせた儂の判断が甘かったのじゃ。誠に申し訳ない」
深々と頭を下げる藤兵衛に、やっとハーシルは目を見開いた。その眼には怒りがありありと浮かんでいたが、それが目の前の2人に向けられる事はなかった。
《……貴様に非などある訳がない。アマニを向かわせたのは我だ。亜門を巻き込んだのもな。郷の龍たちにもかなりの死傷者が出た。そして碌に身動き取れぬ、作戦ですらない愚かな命を下した老骨のみが、こうしてのうのうと生き延びている。こんな……ふざけた話があるか!! 悔やんでも悔やみきれん!!》
天を割くハーシルの絶叫。びりびりと大気が揺れ、2人の髪までもが立ち上がった。猛り狂う龍の長を心配そうに見つめるシャーロットを余所に、藤兵衛は一切動じなかった。そう、この男はいつ如何なる時も動じない。
「意味の無い問答はその辺で終わりじゃ。貴様が何を申しても過去は変えられぬ。未来の為に行動するしかあるまい。それとも何か? 安寧たる場所で吠え続けるのが誇り高き龍族のやり方か? だとすれば笑止極まりないの」
《貴様……言葉に気を付けろ! これは我の誇りに関することぞ! 貴様如き人間が何を抜かすか!》
「その人間の死に掻き乱されておるのは貴様じゃろうが! いい加減目を覚ませい! 亜門は死んだ! 儂らの大切な仲間であり、龍族の同胞でもあり、何より貴様の可愛がっていた彼奴はもう居らぬのじゃ! 儂は……絶対に仇を討つ! 儂の友を惨殺した塵共を絶対に許さぬ! 貴様はどうなのじゃ、帝龍ハーシルよ!!」
《知れたことだ! 敵がルシフェルであろうがなかろうが、もうそんな事は関係ない! いや……むしろそちらの方が好都合だ。今度こそ奴を抹殺してくれる!!》
「ならば話は早いわ。儂と手を組めい! 儂だけでは奴らは倒せん! 貴様らだけでも困難な道じゃ! 故に手を組め! 儂らには龍族の助けが必要なのじゃ!」
《問答無用! 今更何を言うか! 勝率を一毫でも上げるためなら何でも使うてやるわ! 貴様らこそ我に協力しろ! 特にシャーロット様、貴女様の力は奴らの打倒に不可欠なのですから》
ぶつかり合うような言葉の応酬の中、舳先を向けられたシャーロットは、穏やかに、だが力強い言葉で答えた。
「私は必ずこの戦いを終わらせます。その為ならばどんな代償も払いましょう。私には……とうに覚悟は出来ています」
覚悟、と言う言葉が藤兵衛の頭の縁に、棘のように突き刺さった。ズキズキと鈍い痛みが広がる中、それでも彼は、いつも通り大商人金蛇屋藤兵衛として、悠然とキセルをふかしながら不遜に言い放った。
「そうじゃそうじゃ! 言うてやるがよい、シャルよ! こちらは覚悟は出来ておる。暫しこの郷を貸せい。転移術の何たるか、必ず極めてくれようぞ!」
《アガナ様の秘術を、たかが人間がか。いつもいつも大言壮語をぬかしおるわ。夢でも見ているのではあるまいな》
「いいえ、ハーシル様。この方は必ずやり遂げます。私の知る限り、藤兵衛が自分で立てた“誓い”を破ったことは、今迄一度もありません。彼はやると言ったら必ずやり遂げる方です。それに……この人の隣にはいつも私がいます。シャーロット=ハイドウォークは神々の最後の末裔にして、現在のこの世界で最強の魔女です。私がいる限り、彼の野望は必ず成し遂げられることでしょう」
凛と、真っ直ぐに大きな瞳を見開いて、シャーロットは言った。焼かれそうな程の強き視線をその身に感じて、ハーシルの中にかつての思いが蘇った。在りし日の思い、最高の仲間たちと駆け抜けた日々。そして、いつも目の前にいた聖母アガナの美しき笑顔を。
《……我の推測が正しければ、シャーロット様は絶対に秋津国に赴かねばならぬ。我は絶対に貴女を救わねばならん。体感時間として1月だけ、時間の流れを集中させてやろう。外では1週間程度の経過だが、その間自由にするといい。ウペンドも補佐に付けてやる。だが、必ず転移術を極めろ。これは貴様の好きな“約束”だ。我は忙しい。ではな》
そう言い残すと、ハーシルは翼をはためかせ、一声嘶いてそのまま天高くへ飛び立っていった。みるみる小さくなる影を見送りながら、シャーロットはにこやかに微笑んだ。
「ふふ。お互い大見得を切ってしまいましたね。でも……やるしかありませんから。頼りにしていますよ、藤兵衛」
「ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ! 全て儂に任せい! そもそもこの儂を誰と思うておる……シャルや?」
高笑いをする藤兵衛に向けて、今日初めて心底からの満面の笑顔を浮かべたシャーロットの姿があった。
「ふふ。貴方の名は金蛇屋藤兵衛。世界一の大商人にして……私が心から愛する殿方です!」




