第77話「伝説の訪れ」
秋津国近海、海上。
ハイドウォーク艦隊提督クラウザーは、完全に禿げ上がった頭に血管を浮き上がらせ、青く輝く鎧ごと全身を激しく震わせると、船の壁にさざえのような拳骨を叩きつけた。
「何故だ! 歴戦の艦隊12隻をもってして、たかが手負いの龍1匹を何故落とせん!」
彼の目の前では空中を飛び回り、我が物顔で暴れ回る真紅の龍の姿があった。自在に宙を飛び回り、巨大な爪牙は船のマストを容易く引き裂き、燃え盛る炎は歴戦の眷属達を消し炭へと変えていった。艦隊からの攻撃は鳴り止むことはなかったが、巨龍の速度、強度、龍力の前に無効化され、見るも無残な戦況となっていた。
「は! 申し訳ありません! しかし、あの龍は……強過ぎます! 我らの手には負えません」
「怯懦が!」
有無を言わせぬクラウザーの拳が部下の顔面に叩き込まれ、ザクロのように粉々に砕け散った。部下達は震え上がり、必死で目の前の脅威に立ち向かおうとした。が、結果は同じ。偉大なる赤龍の前に屍を晒すのみ。彼の苛立ちは頂点に達し、無辜の部下にまで手が及ぼうといていた。
「ホホホホホ! 随分とお怒りでごじゃりまするな」
クラウザーの振り上げた拳が、不意に宙で止まった。眼を怒らせて睨みつける彼の前で、纏わりついた霧が形となり姿を為した。それは人。秋津国の文官装束を着込んだ小柄で細身の老人。見事な紺色に染め上げた服をだらりと伸ばし、手足はおろか指や耳に至るまであらゆる部位が長く伸びており、地を引きずるように悠然と立っていた。彼は穏やかな表情を浮かべたまま、怒り心頭のクラウザーにゆらりと話しかけた。
「おっとと、いけないでおじゃるよ。部下に当たり散らすとは、クラウザー様ほどの将のやり方とは思えませぬ」
「誰かと思えば貴君か、天神道満。やれやれ。秋津国の野蛮人の手を借りるとは、誇り高きハイドウォーク家も落ちたものだ」
明確な敵意を向けてクラウザーは唾を吐いた。だが表情1つ変えることなく、道満は飄々とした態度のまま返した。
「苛つく気持ちは分かるでおじゃるが、敵は相応な者でありますぞ。大陸では龍の中の龍と呼ばれる者とのこと。このまま指を咥えていては、敗北こそはありませぬが、無駄な損害を招くのは必然かと」
「貴君に何が分かる! そもそも貴君の弟子が無様に敗北したのが全ての原因ではないか! 弱き人間の中でも劣等民族で、主流から弾かれて闇に染まった敗北者の裏切者が偉そうな口を叩きおって! なら自分でやってみたら良かろうが!」
「……それは、麻呂が手を出してよい。そういうご命令でおじゃるな?」
表情は変えず、だが微かに口調を強張らせて道満は言った。クラウザーは鼻をふんと鳴らして、忌々しそうに手払いをした。
「何とでも取れ。誰でもいいからあの爬虫類をなんとかしろ。貴君もその為にここに来たのだろう? もし無事に成敗できれば、貴君らの失態も上へは黙っておいてやる」
「忝のうごじゃる。御大将は高みの見物と洒落込んでくだされ。では御免!」
再び霧が舞った。辺りには何の痕跡も残らず、ただ独特な麝香の香りが鼻孔をついた。クラウザーは心底忌々しそうに壁を蹴り付けると、独り怒気を吐き出した。
「実にくだらん。ミカエル様は一体何を考えているのか! 陰陽師だが何だか知らんが、あんな屑どもを前線に投入するとは。一旦距離を取るぞ! あいつらなど死んでも何の痛手もないわ!」
ある船上。紫色に染め抜かれた外壁が特徴的な船、船員達は皆人間で、揃いの紺に染めた秋津の呪術装束を身に纏っていた。その中央部マスト近辺に、1人の男が座禅を組んでいた。白い文官の装束を纏った細身の男は、先程クラウザーと話をしていた天神道満その人だった。部下達が心配そうに見守る中、彼はふっと眼を開き即座に覚醒すると、周囲の者達に穏やかに声を掛けた。
「許可は下りたでごじゃる。速やかに陣を貼るとしようぞ」
「はい! 全ては作戦通りに進んでいます!」
部下達は怪しげな紙切れを船中に設置しながら、静かに、それでいて力強く拳を突き上げた。速やかに動き回る彼らの姿を見て、道満は満足そうに微笑んだ。
「うむうむ。それでこそ麻呂の弟子でおじゃる。必ずやこの戦で功績を挙げ、戦後の秋津国に食い込まねばならんぞよ」
「もちろんです! 忌まわしき高堂家の理不尽を断たねば! 偉大なる道満先生を追放するなど言語道断!」
「そうだ! 紅蓮と夢幻の仇も討たねば! あれだけ強い2人を倒すなんて、汚らわしき龍が汚い手を使ったに決まっている!」
弟子達は口々に叫びながら、力強く頷き合った。道満は目を細めて同じく頷くと、空を暴れ回る赤龍に鋭い視線を飛ばした。
「さて、もう十分でおじゃろう? 平場での戦闘ならいざ知らず、こと秋津近海で、十分に準備をした陰陽師に挑むは愚の骨頂! そろそろご退場願うでおじゃるよ! 天神流符呪術奥義……『鵺』!!」
道満の身体から闇が溢れると共に、ぐにゃりと空間が捻曲がった。そして船全体が触媒の役割を果たし、怪しい霧が空一面に溢れ出した。数分後、霧が全ての海域を埋め尽くした時、既に勝敗は決していた。
アマニが身体に違和感を感じたのは、5隻目のマストをへし折った瞬間だった。どこに龍人が潜んでいるか分からない状況下で、彼の選択は敵の航行能力を削ぐことだった。加減せざるを得ない状況下で最大限に大暴れし、可能な限り敵船に損傷を与え、次回の戦いを有利に運ぶ。幸いにして、先程の紅蓮達のような強者の存在は感じられない。ならば、今出来ることを全霊で行うのみ。そう、彼のその選択は間違いではない。だが、結果としてはそれが致命傷であった。待ち構えられた罠に嵌まっていることに気付かず、アマニは力の全てを放とうとしていた。
《潮時……か。幾ら何でも体力がもちゃしねえな。いい加減俺も若くねえってことか》
そう思った時、その瞬間、一気に体から力が抜けた。疲弊しきっていたのは確かだ。それは間違いない。が、幾ら何でもここまで急速な力の減退が有り得るはずがない。翼を動かすことも出来ず、手足は鉛塊を括り付けられたように重く、頭の奥が痺れて機能しない!
《……まじいな。何か……されちまったか》
やっとの事でそれだけが口から出た。力を失いゆっくりと落ちた先は、独自の紺色に配色を施された、怪しき敵船の中央部だった。音一つ立てることなくふわりと甲板に墜落し、体の芯から縛られるようにその場に横たわるアマニに、敵の首魁たる天神道満がにこやかに語りかけた。
「麻呂の道士船へようこそ。東大陸最強の龍と称される赤龍アマニ様。今のご気分はいかがでおじゃるか?」
《別に。何も……だな》
「ふうむ。負けず嫌いもここまでいけば大したものでごじゃる。まさか殺されはしまいと高を括っておるのでは? 残念ながら、死ぬより辛いことなど、世の中にはいくらでもあるでごじゃるよ」
《………》
全く返事をせず、表情1つ変えないアマニを見て、道満は微笑みを固めたままその喉を強く蹴り上げた。骨にまで響く鈍い音が鳴り響いたが、やはり彼は動かない。
「今のは麻呂の不肖の弟子、紅蓮と夢幻の分でごじゃる。2人の尊い犠牲のお陰で、こうして最高の戦果を遂げることができたのでおじゃるからな」
《……そうか。あの……雑魚どものことか……。弱すぎて……反吐が出たぞ………》
再び、打撃音。いつしか道満の表情からは笑みは消えていた。何度かの打撃で鱗は剥がれ、どろりと赤き血が吹き出したが、アマニの表情は微塵も変化する事はなかった。
「その涼しい顔がいつまで続くものやら。今からそちを待つ運命についてお教えしようぞ。麻呂達は龍という種族を研究し尽くしているでおじゃる。龍の力の源は、龍玉という霊的な存在に裏付けられている。それを人に埋め込めば、龍の霊子を持った龍人へと変化する。そちほど強大な龍の力があれば、眷属を超え神に近付く事も容易いでごじゃろう」
《………》
「ただ、麻呂とて鬼ではない。そちが取り引きに応じるというのであれば、この場で即座に殺して差し上げましょうぞ。そちも自分の力が原因で仲間に迷惑をかけるなど御免でごじゃろう?」
《単刀直入に……言え。貴様は何を……望む?》
遂に引き出した譲歩の端とも取れる言葉に、道満は目を興奮で見開いて手を振り上げた。
「簡単でおじゃる。帝龍ジュアの居場所。麻呂が知りたいのはただそれだけよ」
《聞いて……どうする? あの女は既に……この世にはいないぞ》
「そんな事は承知の上でごじゃる。麻呂が知りたいのは、彼女が遺した“龍玉”のみ。アレにら全てが隠されておるのじゃ。この世界を統べる鍵とも呼べるものが! そして、秋津国の何処かに眠る“至宝”と組み合わせれば、世界全ては麻呂の手に落ちたも同然!!」
興奮して声を上ずらせる道満を見て、アマニは動かぬ体を口だけ全力で動かし、牙を剥いて心から愉快そうに笑った。
《フッハッハ! 大した道化だ。よりによって世界とは笑わせてくれる。大方……“連中”の裏をかいた気でいるのだろうが、そんなに甘くはないぞ。眷属も……俺たち龍もな》
「死ぬ他に道のないそちに、一体何が分かるでごじゃるか? ……もういい。おい、これを研究所に運ぶでおじゃる。麻呂が直々に解剖するのでな」
吐き捨てる言葉には悪意。群がる弟子達をぎろりと鋭く見つめ、アマニは再度大きく笑った。完全に馬鹿にし切った、嘲笑の声をもって。
《……だ、そうだ。この無知蒙昧な阿呆は、人間の方で責任を取れ。俺は休むぞ》
「了解でござる。後は己にお任せ下され」
その言葉と共に、アマニの身体は粉々に砕け散った。唖然とする道満達の前に、突如として海面から沸き立つ光の渦。天に煌めく符の数々と共に、強烈な光術が船の周りを覆い、彼の仕掛けた術はピシリと乾いた音を立てて破壊された。
「な、何でおじゃるか! あれは幻身?! 脱皮の如く本体から分離して……ええい! それよりこの光は……」
「如何にも。さて、己の出番にござるな。リース殿は結界に注力して下され!」
「はぁい。んじゃま、やりますか!」
海中から出現したのは煌めく刀を構えた高堂亜門と、光を携えたリース=シャガール。船員達が構える間も無く、凶刃が唸りを上げて彼らをまとめて切り裂いた。その剣閃は悪鬼の如く凶悪で、抱擁のように滑らかに舞い、紺一色の船を真紅に染めた。あまりの惨状に、残る船員の闘志が音を立ててへし折られる中、周囲に展開したリースの符術が次々に彼らの自由を奪っていった。
「貴様……憎き高堂の小倅か! こんなに早く到達するとは聞いてないでおじゃるぞ!」
「そうでござるな。言っておりませんゆえ。誰かと思えば……天神家の陰陽師か。これ程の力を持ちながら、野心の果てにキョウを追われ、畜生に身を窶すとは失笑の極みにて」
道満は怒りと驚きで震える手を亜門に指差した。だが当の彼は血飛沫に染まりながらも、実に涼しい顔で平然としたままだった。その背後には、海中に佇むアマニを光術で癒すリースの姿があった。
「だあれ? この胡散臭い人。亜門くんの知り合い?」
「ちと昔ありましてな。まあ気にすることはござらぬ。所詮は只の負け犬にござるよ」
「負け犬は貴様でごじゃろう! 主君を守れぬ侍の面汚しが、どの面を下げて秋津国に帰って来たのでおじゃるか!」
「はっはっは。誠にその通りにござる。返す言葉もありませぬな。ま、それはそれとして。秋津の格言にも『それはそれ、これはこれ』とあり申す。負け犬同士、仲良く殺り合いましょうぞ。高堂流『地摺り燕』!!」
「い、いかん! 天神流符術……『木霊』!!」
言い放つと同時に、低い体勢からの斬撃を撃ち込む亜門。しかし瞬時に術霧に姿を化した道満に、刀はすり抜けて彼はたたらを踏んだ。
「何とも野蛮な一族にごじゃる。昔から何も変わらぬ。麻呂の怒りを思い知るがよい! ……『土蜘蛛』!!」
道満の叫びと共に、地面に予め仕掛けられた符が闇を放ち、明らかに大技と思われる符術が発動しようとした。だが、寸前で符を投げ付けてそれを阻止したのはリース。正反対の力が込められた符と符はぶつかり合い、鈍い音を立てて対消滅していった。
「亜門くん、こいつはあたし向きみたい。こっちは何とかするから、向こうで偉そうにしてるゴリラをお願い。ああいうキモいの得意でしょ」
異変を察知し前進しつつある艦隊を眺め、リースは面倒くさそうに親指を向けた。亜門はにっと明るく微笑むと、艦隊に向けて刀を振りかざした。
「委細承知にて。己も分かり易い方が得意にござる。リース殿、くれぐれもお気をつけて」
「ちょっとはあたしを信じなさいよ。亜門くんこそ必ず帰ってきてね。あたしのこと……好きなんでしょ?」
「な、な、な! す、す、す! そ、そ、そ、それは……!!」
「……はぁ。もういいわ。帰ったらちゃんと自分の口で答えを聞かせてね。……必ずよ」
それだけ言うと、リースは敵に向き合い符を構築し始めた。亜門は何か言いたそうに、名残惜しそうに不規則に曲がりながらも、やっとのことで敵船向けて飛び立っていった。
天神道満は、そんな彼女を忌々しそうに歯噛みして見つめていた。リースは素知らぬ顔でそちらを一瞥すると、露骨に態度を変えて上目遣いで話しかけた。
「いやぁん、おじさま。そんな目で見られたら……わたしぃ……困っちゃいますぅ!」
「……矮言也!」
両者が同時に放った符が、空中で音を立ててぶつかり合った。ほぼ同量の闇と光は互いを飲み込み合い、その場で無に化していった。次なる動きに備え符を取り出す道満とは対照的に、リースは白けた顔で指で髪をいじくっていた。
「なによ、ちょっとくらい乗ってもいいんじゃない? つまんない男ね。あんたモテないでしょ?」
「その符術……北のアガナ神教のものおじゃるな? 実に興味深い。とすると……そちが噂の光術士リース=シャガールでごじゃるか」
「やだキモ! あたしのこと調べてるの? 生理的に無理なんだけど。そのだっさい服とかも含めて」
「……!!」
先に仕掛けた道満による無数の陰陽符が、空中を8の字に舞った。螺旋を描いて導き出される術は空間そのものに関与し、何もない場所から闇の波動を喚び出した。リースはそれを正面から見据え、トンと足だけを軽く一回鳴らした。それと同時に足元から巻き起こる光符の嵐。またしても同規模の術同士がぶつかり合い、何事もなかったかのように消えていった。
「なかなかやるじゃない。噂には聞いていたけど、あたしたちの術とは対極に位置してるみたいね。ま、たいして興味ないけど」
「麻呂は興味深々でごじゃるよ。同じ術理を持ちながら、解釈の相違でここまで両極に展開するとは。そちの術の全て、この場で解明しとうおじゃる」
「うわあ……。モノホンじゃないの。もういいわ。さっさと死んで。ほんっと、キモ過ぎて会話したくないから」
「ホホホホホ! そうはいきません。麻呂はそち自身にも用があるでごじゃる。……ガリア=シャガールの娘よ。彼が隠した“至宝”について、しかと聞いておかなければいけませんねえ」
「!! パパのこと……知ってるの?!」
リースの顔が初めて引き攣った。それを見てほくそ笑む道満。が、それを制したのは、彼女の結界に包まれ海中にて回復を待つ赤き巨龍。牙と血に塗れたその口から発せられるのは、穏やかで暖かな言葉だった。
《小娘……迷うな。奴は陰陽師。陰と陽の狭間に位置する存在だ。流れ出でる言葉など信じるんじゃねえ。まやかしは常にそこにある。真実は、その眼と足と心の臓で刻め》
「……うん。そうね、その通りだわ。ありがとうアマニ。まずアレをぶっ潰して情報を吐かせましょ」
「実にうざったい男でおじゃる。一部の龍は任意に脱皮出来ると聞いておったが、その直後は防御はザルの筈。麻呂は秋津国陰陽師、天神派宗家天神道満ぞ。そちらを捕縛し、臓腑を絞ってでも情報を手に入れるでおじゃる!」
その言葉を合図に、再び符が交わった。符と符、光と闇が交差する面妖極まる戦いが始まろうとしていた。
一方、空中。
風を切り敵陣へ一目散に飛行する亜門に向けて、雨のような矢が降り注いでいた。空が黒く染まるほどの物量を前にして、亜門は観念したかのように刀を仕舞うと、一呼吸ついて静かに目を閉じた。その様子を目撃していた副艦隊長ヘーゼルは、しゃくれた顎に手を当てて尊大に言い放った。
「見ろ! やはり噂は噂だ。我らの攻撃の前に手も足も出ぬではないか。噂では奴の手でスルトが討たれたとのことだが、大方尾ひれ背びれが付いたに過ぎん。者共、打て! 打ちまくれ! 龍人壁を展開しつつ、兵は矢、術士は術式をありったけ叩き付けろ!」
その指示通りに全兵が亜門に集中し、闇の輝きを彼に向けた。亜門は閉じた目の内でそれらを感じながら、一言ポツリと呟いた。
「……緩い!」
刮目、と同時に亜門は高速で翼を展開し、一点に集約した敵意の塊に敢えて正面から突っ込んだ。頬を割く矢、身を焦がす術式。だが亜門は動じない。戦場での彼は決して動じることはない。死に向かう一本道を、僅かな薄刃一枚の距離ですり抜けて、鋼の如き意思を刀に込め、亜門は降り立つ。まるで投身自殺のように真っ直ぐ、狙うはただ一点。闇に染まり切った敵の首魁のみ。
「く、来るぞ! ええい、何故当たらん! 龍人を壁にせよ! このままでは……」
「弁舌の前に刀を抜くがよい。其方では己を斬ることは出来ぬ! 高堂流『破砕雷槌』!!」
亜門は全身を激しく拗らせて、甲板にて焦り指示するヘーゼルの頭上に、落下の勢いに回転を加えて隕石の如く激しく衝突した。即座に肉塊と化した彼の足元から破壊の衝撃が四方に飛び散り、船底から砕かれた軍艦は不吉な破壊音を上げて、木っ端微塵に四散していった。沈没しつつある船から這々の体で逃げ出す兵士達とは対照的に、指揮官クラウザーは無言で腕組みをし残骸の上に立ち尽くしていた。彼から発せられる凄まじい闇の圧力を肌で感じ、亜門は鋭く彼を睨み付けた。
「其方がこの部隊の司令官でござるか。闇に与する眷属は、この己が秋津国の領海から消滅させるでござる。命が惜しければ直ぐに消えると良かろう」
「確かに。俺はクラウザー。ミカエル様からここ秋津の海を任されてる。全部隊……戦闘継続だ。この男は危険極まる。俺ごとで構わん。射って射って……射ちまくれ!!」
巨体を揺らし、鈍重な音を立てて前に進むクラウザー。一瞬の沈黙の後、眷属の鬨の声と共に、矢と術式の嵐が亜門に降り注いだ。繰り広げられる戦の音色に亜門は耳を澄ませ、刀を構え全身に力を込めた。
「己の名は……高堂亜門! 秋津で生まれし侍にして、この地を闇から解放する者ぞ! いざ尋常に……勝負!」
後方、陰陽船船上。
リースと道満の戦いは10分以上も続き、次第に持久戦の様相を呈していた。2人の術の腕はほぼ互角。何度も何度も繰り広げられる術同士のぶつかり合いに、汗を流し息を荒げる2人。
「あんた……ほんっとしつこいわね! 喰らいなさい! ……『ドラウプニル』!!」
「ホホホホホ! 女児と戯れるのは実に愉快におじゃるな。……『木端天狗』!!」
懐から7枚の符を円形に並べ、放射状に放出したリースに対し、6枚で二重の三角形を作り中心に一枚通した道満。光と闇が交差し、幾度めか分からぬほどの対消滅を起こした。リースは軽く舌打ちをし、左手で胸元の符の数を数えた。決戦に備え100を優に超える数を忍ばせてあったが、現時点での手持ちは既に10枚を下回っていた。
「そろそろネタ切れですかな。どれ、こちらの手の内を明かしてあげようぞ。目を見開いて御覧遊ばせ!」
道満はにやにやと嫌らしく笑いながら、胸元から100枚以上もの陰陽符の束を見せ付けた。実力は五分でありながら、肝心の物量差は圧倒的であった。リースは確実な自身の不利を悟り、ぎっと歯を食いしばった。
「そちの負けでおじゃる。この船は麻呂らの本船。その上、手負いの龍如きに力を使えば結果は必然ぞ。所詮は小娘、麻呂敵ではなかったわ。大人しく降参すれば、命だけは助けて進ぜよう」
「……本当に、助けてくれるの?」
俯いて顔を真っ赤にし、何とか言葉を絞り出したリース。道満は満足げに腕組みをして頷くと、彼女の全身を上から下まで舐めるように眺めた。
「ホホホホホ! そちの態度次第でおじゃる。まず、そこの龍への回復術を解くこと。そして、残りの符を全て捨ててその場に跪くこと。おっと、衣服はその場で全て脱ぐでおじゃる。何が仕込まれてるか知れたものではないわ」
「それで……助けてくれるのね? 本当ね?」
「当たり前でおじゃる。陰陽師は嘘を付かぬわ。ほれ、早くするでごじゃる。麻呂の気が変わっても知らぬぞ。さあ! 早く!」
リースは力無く頷くと、即座にアマニに対する術を解いた。ぐらりと揺れて海中に沈み行く彼に深々と頭を下げ、彼女は符の束をその場に投げ捨てた。そして、恥ずかしそうに躊躇いながらも、震える体からゆっくりと一枚づつ服を脱いでいった。やがて彼女は白日の元にあられもない姿を晒すと、髪を解いてそのまま彼の足元に跪き、頭を薄汚れた甲板に擦り付けた。
「ウエッヘッヘッヘッヘ!! 本当にやるとは愉快千万! 麻呂とてうら若き娘を殺す趣味はないでごじゃる。助けてやるとしますか。まあ……もちろん麻呂の愛妾としてでごじゃるがな!」
「……」
道満はリースの元に近づくと、その白く透き通る様な身体に徐に手を伸ばした。その時、彼の全身に違和感。神経にへばりつくような感覚が内から湧き上がり、皮膚の裏側から冷や汗がどっと湧き出た。そして、一瞬後に彼の疑問は氷解した。彼が踏み込んだ場所、跪くリースの長い髪で隠れた位置に、1枚の符が設置されていたのだ。瞬時に発動した光術により、彼は完全に捕捉されていた。怒りの声を上げようとする彼の口は既に動かず、せせら笑うリースの声が響くのみだった。
「ほんっと、キモいやつって単純ね。ちょっと裸になったくらいで、こんな単純な罠に引っかかるなんて。どうしようもないわ」
「……!!(き、貴様! 全て罠だったのか!)」
「なに言ってるかわかんないわ。ま、理解もする気ないけど。作戦成功ね。じゃ、とにかく大人しくしといて。聞きたいこといっぱいあるから。……『ヤドリギ』!!」
符から放たれた光の縄が、道満の全身を更に強く捕捉した。完全に身動きを取れず地面に突っ伏す彼を見て、リースは胸の隙間から取り出した巻きタバコに火を付けた。その時、海中から長い首が持ち上がり、波が周囲に広がっていった。
《見事だな。しかし……つくづく小狡い手を使うものよ。女の武器をも利用するとはな。通用しなかったらどうするつもりだったのだ?》
感心したように、どこか呆れたように言い放つアマニに、リースは符の束を手品のように何処からか取り出すと、煙を燻らせながら目を細めた。
「ご心配なく。あたし工作員よ。こんなの朝飯前だから。符はいくらでも仕込んであるし、いざとなれば海底にも予備はあるから。それに、いざとなりゃあんたがいるしね。とっくに回復して様子伺ってたでしょ? つくづく頑丈なのね」
《フッハッハッハ! お前の治癒術のお陰だ。久方振りに光術なんて浴びたが、中々悪くない気分だな。礼を言わせて貰うぜ》
「礼なんていいからさ、亜門くんには内緒よ。あたし……あの人のこと大好きだから。嫌われたくないし、まだ見せたこともないから」
《な! そ、そりゃマジか?! あの亜門を……好いている?! 逆ではなく?》
「いけない? 悪いけど、あたしあの人に心底惚れてるから。あんたらにも渡さないわよ」
《なんともまあ……奇特なもんだ。あのボケをねえ。ハーシルの叔父貴が聞いたら泣いて喜ぶんじゃねえか》
「はいはい。龍も面倒な生き物ね。服着るからあっち向いててよ。亜門くんの方も片付きそうだし」
リースは乱雑に服を着込みながら、親指で前方の戦場を指差して言った。激戦に次ぐ激戦を経て、戦況は終局を迎えようとしていた。
《問題ねえ。あと数分ありゃまともに戦えそうだ。まさか脱皮までさせられるとは思ってもなかったぜ。敵は中々の戦力だな。お前の方はどうだ?》
「もちろん問題ないわ。まともに攻撃喰らってないもの。それより……怪しい気配がするわ。すぐに離脱しないと」
《……やはり感じるか。俺も全身が粟立っている。とんでもない存在がこちらに近付きつつあるな。部下の安否も気になる。この場が片付き次第、すぐにホウへ向かわんとな》
2人の感覚に間違いはなかった。明確に気配が変わった。間違いなく、敵の追撃部隊が近付いている。だが、亜門にとってはどうか? 今の秋津国で起こっている全てを目にし、果たしてそのままの彼でいられるのか。今は誰にも分からない。今の彼はただ戦場に刀を突き刺すのみだった。
旗艦インテリペリ内。
激しい攻防が繰り広げられたこの地にも、漸くの安寧がもたらされようとしていた。夥しい血に塗れた船上に、動く者はただ2人。全身を返り血と己の血で染めた孤高の殺戮者、高堂亜門。そして激戦の中でも全くの無傷を誇る、艦隊司令官クラウザーのみ。2人の戦いは佳境へと達しようとしていた。
「噴ッ!!」
亜門の鋭い踏み込みからの一閃。常人なら身動き1つもとれず肉塊と化す気迫の一撃。刃はクラウザーの肩先から斜めに食い込み、皮膚が裂け血がほとしばる。……だが!
「学習しないな。俺に“そういうの”は効かん。……『アクア・グランデ』!!」
「ぬ! これはいかん! ……『龍力解放』!!」
刀は肉に食い込んでぴたりと止まり、その先を断つことは出来なかった。余裕の表情のクラウザーは術式を形作し、多数の水流を海から巻き上げた。彼は翼を展開し、すんでのところで空中に逃げた。だが完全には避け切れず、一本の水流が彼の左足を貫いた。
「くっ! なんと頑丈な男にござるか!」
「諦めろ。刀で俺を断てるのはカリスぐらいだ。お前では足りん。さっさと海の藻屑になるがいい。……『降魔・アメノマ』!!」
矢継ぎ早の攻撃の間に手慣れた動きで
降魔が発動され、クラウザーの全身が分厚い異形の装甲に覆われた。鈍い緋色の輝きが、その確かな堅牢振りを雄弁に伝えていた。亜門は刀を構え、静かにその時を待つ。呼吸を整え、全身の細胞に命令を下し、ただその時を待っていた。
「お前の噂は聞いている。なんでも支えるべき主を叩っ斬った侍とのこと。俺もこの国は長いが、そんなことをした侍など聞いたことがないぞ」
「ご尤もで。己は今や……侍と名乗れる立場ではござらぬ。ただ、目の前の闇を斬るだけの存在にて」
「大きく出たな。俺の装甲に傷1つ付けられん半端者が! とても正気とは思えんな」
「はっはっは。全ては結果のみが物語ましょう。この戦いの後に、己の刀が語りまする。己の名は高堂亜門。いずれ必ず、全ての闇を切り開く男にござるよ」
「ぬかせ! お前などカリスが出るほどでもない。俺が引導を渡してやる。降魔、全霊展開! 海に散れ! ……『チャージアサルト』!!」
クラウザーの装甲の後方下部から、勢いよく爆熱の術式が放たれた。その勢いを以て彼は空中に弾け飛び、亜門の眼前に瞬く間に接近した。
(疾い!)
亜門がそう思った次の瞬間には、クラウザーは大槍を彼に向けて振り下ろしていた。移動と攻撃を高速かつ同時に行うこの技は、彼の最も得意とする戦法だった。刃先は亜門の胸部を捉え、ごそりと肉を抉り取った。
「……ぐっ!!」
「緩い! 緩いわ!! 所詮は人間、貴き眷属の壁は越えられぬ。あのスルトを討ったなど、何かの間違いでしかないわ!」
「ほう。少しばかり血を見ただけで、随分と好き放題言うものでござるな。己には見えている。其方が海に沈む姿がな!」
「人間とは口だけは達者なものよ。どんなに刀を振ろうとも、降魔にて強化された俺の身体を断つことは出来ん。必勝の構えを崩すことは出来ん! ……『チャージアサルト』!!」
「……一太刀。其方にはそれで十分にござる」
劣勢を強いられながらも、亜門は船の残骸に着地して、正面からクラウザーと相対した。コンマ数秒の思考の中で、彼は思う。自らがここにいる意味を。戦いの輪廻に身を投じる自分の存在意義を。頭の中を、かつての友の姿がよぎる。自分に命をくれた男たちの顔が浮かび上がる。
亜門は刀の柄を握り、目を閉じて精神を統一させた。再び敵が動き始めるのが見える。殺意の呼吸が肌の薄皮一枚にまで感じられる。災厄の到来までほんの一瞬。だが、今の彼には無限に感じられるほどの精神的余裕が存在していた。
亜門は居合の構えのまま、静かに目を見開いた。視線のすぐ先には、悪意の矢。亜音速で近付く敵も、今の彼には止まって見える。彼は心中で呟く。自身に言い聞かせるように。誰かに許しを請うように。
「……そうでござるな。この程度の相手に苦戦しているようでは使命を果たすことはできぬ。宣言通り一刀にて。高堂流絶技『明鏡止水・《絶》』!!」
静かな鼓動。そして、発動。側から見れば、極めてゆっくりとした動きだった。まるで止まって見える程の、緩慢にさえ見える刀の振り。彼が感じていたのは呼吸。呼吸が感性を繋ぎ、感性が辿るべき道筋を浮かび上がらせた。光の筋がクラウザーの弾丸の如き体に浮かび上がる。亜門はそこに、静かに刃を押し当てただけだった。この上なく完璧な呼吸で、角度で。彼の身体に垂直に入った刃は、まるで絹を切るように抵抗なく抜けていき、金剛石にも匹敵する硬度を誇るクラウザーの体躯を音もなくするりと両断した。残ったのは片膝を付き刀を鞘にしまう亜門と、断末魔を残して海の藻屑と化すクラウザー。
「グォォォオオオオ! ま、まさかこの刀は……だがカリスには遠く及ばな……」
その声は押し寄せる波に掻き消され、虚空の彼方へと消えていった。亜門はふうと1つため息をつき、刀を杖のように立てて疲弊した体を支えた。そんな彼の頭上から、厳かながらも親しみの込められた声が届いた。
《上々だ。また腕を上げたな。アマニ流緑帯をくれてやろう》
「はっはっは。光栄にごさるよ。しかしアマニ殿……まさかお一人でここまでお暴れになるとは。敵も驚嘆の貌でしたぞ」
《フッハッハ! だが正直参ったぜ。まさかあそこまで追い込まれるとはな。少なからず被害は受けた。どうやら敵は本気のようだな》
アマニと亜門は顔を合わせ、にっと笑い合いながらも、すぐに真剣な顔になり頷いた。そんな巨龍の背中から、1人の少女がひょいと顔を出した。
「さ、2人とも傷んでるし、この辺で一旦退きましょ。援軍の反応があるわ。今なら逃げられるわよ」
「リース殿、心配ご無用にござる。己は只の戦人形にござれば、戦場にて気遣いは不要で……」
その時、リースの右踵が孤月の軌道を描き、勢いよく亜門の頭にめり込んだ。突然の一撃に頭を押さえて蹲る彼に、リースは更にもう一発、今度は左足で蹴り飛ばした。
「い、痛いでござる! リース殿、一体何をされるのですか?!」
「バカ! もう知らない!」
「え、えええええ?!」
ぷいとそっぽを向くリース、あたふたと戸惑う亜門、その光景を見て大きく笑うアマニ。
《フッハッハッハ! お似合いだな。実に愉快なものだ。さて……それでは退くとするか。俺の背に乗れ》
「!! その……宜しいのですか? 『人間など背には乗せん』と、かつて豪語しておられましたが」
《只の人間ならな。ただ、お前は同族みたいなもんだ。リースもほれ、まあその……今回だけ特別だ。まったく仕方のない奴らだな》
「へへ。しちめんどくさい龍ね。クソ狸と気が合うのもわかるわ」
《ふん。人間になど評されたくは……ん? あれは……》
彼らの視線の先、水平線の先から、次なる敵部隊が向かってくるのが見えた。そこに闇は殆ど感じられない。いや、問題はそういうことではない。違和感はそこではない。亜門は目を皿のようにして、目の前の光景に釘付けになっていた。アマニも同様に鋭く眼光を送り、2人とも信じられないと言いたげな表情をしていた。
「ど、どうしたの? 2人とも怖いんだけど。なにかあったの?」
「リース殿。己は……退く訳にはいかなくなり申した。この場に留まりまする」
「え? どういうこと? だってすぐに行かないと……アマニ、あんたからも言ってやってよ!」
《悪いな。……俺もだ。確かめねばならぬことがある。俺の想像通りの事態ならば、絶対に許容など出来ん》
2人の視線の先にあったもの。それは数々の家紋が掲げられた人間の船。そして、その頭上に悠然と佇む一対の……人龍。漆黒の鱗に身を包んだ巨大な龍と、その背に乗る1人の男。
「あ、あれは……秋津典膳公? 肖像画のままではありませぬか! 何故ここに? いや、御存命の訳が……」
《あんな物は幻だ。典膳は間違いなく600年前に死んだ。俺がこの目で確認している。問題は……もう一つの方だ! ムワーナ!! 秋津の守護龍が闇に与してにいるだと!? 一体どういう事態だ! 答えろ!》
2人の言葉はまだ届かない。だが、そこに巣食う絶望の萌芽に、彼らの皮膚は粟毛立っていた。
神代歴1279年11月。
大海を朱に染める最大級の絶望の戦いの、始まりと終わりが同時に訪れようとしていた。




