第69話「世界変革の時」①
東大陸南部、広大な密林と野生の王国スザク。その遥か上空に浮かぶ、忘れ去られた都パルポンカン。
かつて神々が降り立ったとされる、伝説の都に異変あり。千年もの間その場所から微動だにしなかった、不動の神都に動きあり。突如として生き物のように鳴動する巨大な建造物、そこに連なる巨石群。偉大なる都が内に秘めし力は、自らの腑すらも切り裂かんとしていた。
そんな異変を地上から剣呑の表情で見つめていたのは、山賊集団パゾル一味。髭面の大男、団長のパゾルは手に持ったグラスを一気に空にすると、配下の男衆に向けて怪訝そうに叫んだ。
「おいてめえら! ありゃあ……一体どうなってやがんだ?」
地響きを上げて不穏な動きをする巨石群を指差し、パゾルは眉を顰めた。しかし当然ながら明確な答えは示されず、山賊たちは不安と不審の声を荒げた。
「俺らにわかるわけねえっしょ! リースの姉御が暴れたんじゃねえっすか?」
「後から突っ込んでった、例のゴリラ女とバケモノ侍が原因なんじゃねえの? こりゃウカウカしてられねえな」
「パゾルさん、ここにいても時間の無駄ですぜ。さっさとトンズラした方がいいんじゃねえっすか?」
口々に喚き立てる男たち。パゾルは一通りの声を頷きながら聞いた後、ゆっくりと、自らにも言い聞かせるように私見を述べた。
「お前らの言うことはもっともだ。そもそもお宝なんぞ何の確証もねえ話で、こちとら一介の山賊。あの連中との約束を守る筋合いなんぞねえ。だがよ、このまま手ぶらで戻ったとありゃ、待ってる家族に顔が立たねえだろ? ともかく今まで以上に状況を見るぞ。で、ヤバそうなら即逃げだ。問題あるか?」
それを受けて各々顔色を見渡し、頷き合う一同。パゾルは満足そうに微笑み、再びグラスに酒を注いだ。
(リースさん、小せえ旦那……俺は信じてますぜ)
表面的に冷静を保ちながらも、彼は心中で深く祈りに近い言葉を呟いた。とは言え、状況が限界に近付いているのは明らかだった。彼の言葉や思いに反し、恐らく彼らはすぐに撤退することになるだろう。それが分からない程、パゾルは愚かでも夢見がちでもなかった。
だが、その時異変が起こった。
「ヒョッヒョッヒョ! 即座に逃げぬとは感心じゃのう。流石は名うての山賊というところじゃて」
どかり、と目の前の椅子に1人の若い男が座った。いやらしく垂れた目に、蛇の印の入った漆黒の着物。若い男は不敵に微笑みながらパゾルを見つめていた。
「ああ!? 誰だてめえ! 喧嘩売ってんのか?」
突然の出来事にも努めて冷静を保ち、ドスの効いた声でパゾルは怒鳴った。だが男は全く動じることなく笑うと、懐のキセルを取り出して美味そうにふかした、
「おっと。そう言えばそうじゃな。この姿では分からんかの。では……これならどうじゃ?」
みるみるうちに若い男は輪郭を朧にし、皺くちゃの老人の姿に変化していった。あまりの怪奇な出来事に言葉を失う一行を前に、彼らが見知った顔になった男は、不遜な態度を崩さずに告げた。
「……っと、これでよかろうて。見ての通り、儂じゃ。天下の大商人、金蛇屋藤兵衛その人ぞ。いやはや、神都の秘術とは凄いものじゃのう」
「た、確かに……旦那と同じ姿だ! まるっきり同じ声だ! 俺は夢でも見てんのか?」
「信じられぬかもしれんが、確かに現よ。雲の上の都にて、伝説の神仙にかけてもらった術でのう。まさかあれ程莫大な宝だけではなく、こんな秘術まで……おっと、ついつい口が滑ってしもうたわい。どうか他の連中には内密にの」
「や、やっぱり本当なんだ! 天空に宝はあるんだ!」
「今の旦那の姿が証明してるぜ! こんな奇跡ありっこねえ!」
「ど、どんな宝があったんですかい? 宝石? それとも魔法の道具?」
沸き起こる歓声。彼らは藤兵衛を取り囲むと、口々に質問を繰り返した。だが彼はわざとらしく慌てふためいた姿を見せ、キョロキョロと周囲を窺いながら口に手を当てた。
「しっ! その辺にしておくのじゃ。妖が何ぞ聞いておるかもしれんしの。心配せんでも宝は見つけておるし、お主らの分も確保済みじゃて。その上で……お主らに1つ頼みがあっての。当然聞いてくれような?」
「お、おう! もちろんだぜ。確かに宝があるとなりゃ、例え死の危険があっても逃げる俺らじゃねえ。何でも言ってくれや」
「うむ、うむ。それでこそじゃ。山賊の鑑よのう。では言うぞ。今より数時後、天空からある物が落下してくるはずじゃ。お主らはプーコランドの住民を退避させ、安全を確認してからそれを確保せよ。然る後に山分けと参ろうではないか」
「それがお宝か?! どんな財宝だ? 宝石か? 香辛料か?」
「それは後のお楽しみじゃて。ただ、決してお主らを失望はさせぬ。大陸一の商人と呼ばれしこの儂を信じ、切に取り組むようにの。では行けい! 時間との勝負じゃ!」
「ち、ちょっと! まだ話は……」
「頼んだぞ、パゾル。この作戦はお主らの働きにかかっておるのじゃ」
話を勝手に切り上げて、幻のように消え去る藤兵衛。あまりに突然な入滅に、ぽかんと顔を見合わせるパゾル一味。
「き、消えちまいましたぜ! 本当に妖の仕業なんじゃ……」
「いや、さすがにちょっと怪し過ぎますぜ。やっぱ逃げた方がいいんじゃねえですかい?」
「と、とはいえよ、嘘をついてるようには見えなかったぜ。あんな術が実在するんじゃ、お宝だって……」
騒がしい彼らの声を聞きながら、パゾルは深く考える。何故自分がここにいて、如何にしてこうなったのか。思い出すのは三日月の晩。いつだって思い出すのは、闇夜に隠れた鋭角の光の刃。
かつて彼が所属した、セイリュウ国の戦士の部族。今の彼にとって、その時の名は意味を成さない。記憶の残渣に零るるは、あの日の三日月。スザク国への出立の日の、呆れるくらい美しい月。
彼は言う。必ず戻ってくると。戦果を挙げて、名誉を手にし、必ず幸せにすると。彼の瞳に映る、月の光に晒された薄い唇が静かに言葉を紡ぐ。ずっと待っていると。あなただけを待っていると。
戦いの日々。平凡な戦士である彼にとって、苛烈で地獄のような日々。運か実力、あるいはその両方がない者から順に消えていく刹那の頸城。だが彼は生き延びた。辛うじて、運と呼ばれる揺蕩う世界の切れ端に掴まって。
引き絞られた弓が風を切る音、殺意が込められた敵の怒声、夜な夜な襲い掛かる猛獣の唸り声。彼の耳に届くは、濁り切った世界の澱。狂は強として今日という日を貫く。彼が人として、戦士として戦い抜けた理由は、全てあの日耳に届いた音。幸福と安息の奏でる色のついた音。
数年後、陣地に届く故郷からの手紙。無機質な文字に秘められた、破滅の文様。理解するのに数分、数十分、数時間。何度も何度も読み返し、そして、彼は逃げる。目の前の全てから。あらゆる彼を縛る物事から。
そこから、逃げて逃げて、逃げ続けて、彼は今ここにいる。今更何かと戦おうとは微塵も思わない。そんな生き方は既に損なわれた。だが今、彼の耳には再び音が聞こえていた。自分がどうすべきか、周りを伺うのではなく、純粋な本能として。自らの内なる叫びとして。
「……ここの連中を逃すぞ。俺は旦那を信じることにした」
「で、ですがね。幾ら何でもリスクが高すぎじゃ……」
「好きにしな。ここでパゾル一味は解散だ。俺を信じられねえ奴は、さっさとケツまくって逃げ出しな。俺はここでお宝を手に入れる。その為なら何を失ってもいい。強制はしねえ。逃げてえ奴は追いもしねえ。だが……俺は必ず手に入れてみせる!」
パゾルの目に強き意思の光が宿った。今迄の彼では決して持ち得ない、強靱な魂の発露を見た部下たちは、一瞬戸惑いを見せながらも、すぐに全員揃って強く大きく頷いた。
「ったく、仕方ねえっすね。やりますよ。やりゃいいんでしょ」
「これでお宝なかったら団長交代、ってか追放ですぜ。覚悟してくだせえや」
「ああ、めんどくせえったらねえな。ま、貸し一つってことで」
悪態を吐きながらも、彼らはキビキビと動き始めた。パゾルはにっと小さく笑い、腹から一声大きく叫んだ。
「おら! 口動かす暇あったら手え動かせ! 俺たちは泣く子も黙るパゾル一味だぞ。ここいらのアホどもを一掃しちまいな!」
天空。震え出した魔城から、息を切らして飛び降りる3つの影。光術士リース、商人ココノラ、少年ビッツは必至の表情で外に飛び出し、同時に安堵の息を吐いた。
「いやはや、このデカブツが急に動き出すとはねえ。やはりあっしらの想像を遥かに超えた場所でげすなあ」
「ずいぶんと呑気なことね。ここからが本番だってのに。ま、あんたらはここまでよ。先に行ってて。あたしは仕上げに入るわ」
リースは微笑みながら2人を先に行かすと、その場にしゃがみ込んで術を構築し始めた。ココノラはすぐにその場を後にしたが、ビッツは彼女を背後からまじまじと見つめていた。彼の目には炎のような輝きが灯り、リースは不審に思いつつも努めて優しく彼に話しかけた。
「ビッツ、どうしたのよ? 申し訳ないけどさ、ちょっとお姉さん集中したいんだけど」
「なあ、リースさん。おいら……決めたよ」
彼の手のひらには先ほどの騒動の中で入手した、一欠片の碧色の宝石が握り込まれていた。彼はそれを血が出るほど強く握り締めると、訝しがるリースの背に更に言葉を続けた。
「おいら……もっと強くなる。強くなって、皆を守りたい。家族を、兄弟を、仲間を守れる……そんな力が欲しいんだ」
「……そう。まだ小さいけど、ちゃんと男なのね。ならいいわ。守らせてあげる。あたしの背中、あんたに預けるわよ。でもね、男が一度口にしたんだから、必ずやり遂げなさい。いいわね?」
「もちろんだ! おいらを……誰だと思ってんだい?」
少年の力強い熱に押され、リースの符術は更に力を増した。鳴動を続ける城はゆっくりと、実にゆっくりと大地を引き剥がし、天へと飛び立とうとしていた。リースは下唇を強く噛み締めながら、全ての符を同時に起動させつつ、あらん限りの声で叫んだ。
「もう一枚も残っちゃないわ。文字通り最後の絞りカスよ。……『聖母アガナ様の御名において、全てを鑑する光の宮殿とならん』……これがアガナ神教最終経典にして、最強の結界術! ……『ヴァルハラ』!!」
城内に仕掛けられた100を超える符。リースの発に呼応し、それらは光に満ち、互いに呼応し合っていった。点と点は繋がり合って線になり、線と線は交差しあって面となり、面と面は重なり合って球となった。巨大な光の球体が王城を包み込んだのを確認すると、彼女は歯を見せて微笑み、中指を天に向かって突き立てた。そして、光の檻からは無数の光の羽が飛び散り、今にも飛び立たんとする城の動きを完全に停止させた。
「な、なんざあます! 何が起こっているの?!」
金切り声を上げて城の屋上から身を乗り出そうとしたベロニカの腕を、ミカエルの体を借りた男がぐっと掴んで止めた。
「まじーな。こりゃ光の禁術ってとこか。俺らでも触れたらただじゃすまねえ。昔とはだいぶ様変わりしてやがら。人間が改良を重ねた結果ってやつか。このままじゃ……この城は落ちるぜ」
常に浮かべていた皮肉な笑みを収めて、彼はウェーブのかかった金髪を一度だけ激しく掻きむしり、見たこともない剣呑な表情で告げた。光の翼は城全体を完全に覆い去り、そこから放たれる波動がゆっくりと地面に押さえ付けていった。
「た、確かに大変な術ざあます! 早く手を打たねばなりませんことよ!」
「闇術で耐えたところで、城自体がもたねえだろうな。ともかく術者を殺さねえと。俺が行くのが1番手っ取り早いが……術式が起動しちまった今、ここを離れるのはリスクしかねえ。ベロニカ、おまえの“ペット”を呼び出せ。このレベルの術となれば、術者は必ず近辺にいるはずだ。ミカエルごと滅されたくなかったら、早急に探し出して皆殺しにしろ」
「わかったざあます。では……『召喚・ミドガルオズム』全機発進!! 全てを食い殺しなさい!」
彼女の掛け声と共に、各所の飛石が怪しく蠢いた。次の瞬間、怪しき龍の群れが、内側から唸り声を上げて巨石を食い破った。現れた邪悪の権化はベロニカに向けて合図の如く一声吠えると、周囲の生命ある存在に反応して飛び立った。
リースがその存在を感じた時には、既に彼女は囲まれていた。悪意と邪悪が込められた包囲陣に対し、彼女は決して怯む様子を見せず、逆に毅然とした視線を向けた。
「なるほどね。ま、なんとなく想像ついてたけど」
「お、おねえちゃん! デカいよ! デカい蛇の群れが空を飛んでる!」
「そうね。あんたは早く逃げなさい。連中、やる気満々よ。あたしは術を解く気は毛頭ないから」
「い、い、い、いやだ!! おいらは……もう逃げない! 絶対に!」
ガクガクと震えながら、涙と鼻水を零しながらも、ビッツは言い切った。リースは一瞬だけキョトンとした後、直ぐに穏やかに微笑んで彼の頭を優しく撫でた。
「ごめん。そうだったわね。あんたのこと見損なってたわ」
「お、おいらは……絶対に負けない! お姉ちゃんの力に……」
「へへ。ならあっしも付き合いやしょう。リースさん、黄泉路へお1人じゃ寂しいでしょうに」
「あ、あんた……」
いつの間にか踵を返していた商人ココノラが、彼女らの間に入って飄々と告げた。勇ましい台詞に反して足震え視線は泳ぎきっていたが、彼は迷いだけは見せることなくぎゅっと2人の肩を掴んだ。
「ココノラさん……おいらあんたを……」
「へへ。そりゃ言いっこなしですぜ。ここで逃げたらお宝は得られませんや。レイさんに見損なわれたら、あっしは生きていけやせんからね」
「ふふふ。あんたもバカね。レイとお似合いだわ。じゃあ……2人ともあたしに力を送ってちょうだい。最後の最後まで戦うから」
邪龍達は完全に一向に標的を絞った。彼らは大きく口を開けて闇力を集中させ、3人に向けて邪悪な波動を打ち込まんとしていた。数秒後、彼女らは消し炭になる運命だった。それは誰にも否定できない事実。ビッツは全てを悟り、強くリースにしがみついた。その上から震えるココノラが皆を庇う中、彼女は微笑んだまま、強く真っ直ぐな視線を上空に向けた。
「いい、ビッツにココノラ。あたしを信じなさい。あたしの信じる仲間たちを信じなさい。ここには最高の仲間が揃ってる。必ず誰かがあたしたちを助けてくれるわ」
「勿論じゃて。のう……お主ら!!」
リースの胸元で小さな声がした。全てを察した彼女の微笑みは、すぐに満面の笑みへと変わっていった。そして、上空から放たれた闇の力は、搔き消えるようにその場から消え失せた。疾風の閃光が天を走り、邪龍の群れを貫いていった。煌く刃の一閃が、敵陣を真一文字に切り裂いた。慌てて立ち向かおうとする邪龍を嘲笑うかのように、2つの閃光は凄まじい速度で飛び回り、闇の残渣を塵1つ残さず引き千切っていった。
「おお、くせえくせえ。腐ったトカゲたあこんな臭うもんかね。手が荒れちまうぜ」
「はっはっは。料理に影響があっては事ですな。大人しく己に任せては如何か?」
レイの速度の前に、敵はただ引き裂かれるだけの的に過ぎなかった。圧倒的な破壊の風が吹き荒れ、空は瞬く間に血に染まっていった。そして龍の力を纏う高堂亜門の刃は、邪龍の群れの中心にて光を放ち、残りの敵を完膚無きまでに切り裂いた。
2つの光は交わり、輝きを増していった。それを笑顔で地上から見守るリース。彼女はビッツたちの方を振り向き、魅力的な美しい瞳で告げた。
「ね、言ったでしょ? あれがあたしの仲間よ。どんな時も、例えどんなに離れていても、ピンチの時には必ず駆けつける。ビッツ、強いってことはこういうことよ。あんたもさ、自分が強くなるだけじゃなく……こんな素晴らしい仲間を見つけなさい」
「……うん。わかった。おいら頑張るよ!」
「ヘッヘッヘ。その通りでげす。あっしもレイさんと素敵にお付き合いしたいでげすねえ」
苛立ちと微笑を混ぜこぜにして、ココノラの尻を蹴り飛ばすリース。その風景を見ながらビッツは、一際高い心臓の音を感じた。今日この日、彼の中で何かが変わった。そう思わざるを得ない瞬間だった。その結果、今日を切っ掛けとして彼の運命は大きく変わる。後の偉大なる冒険者の覚醒は、歪に狭められた大地を希望の光で満たす事となる。だがそれは、後の世の話。この長い物語が語り終えられた、そのまた遥か先の話。
小さな小さな少年の克己に導かれるように、リースの光の術は更に強さを増していき、やがて王城の動きを完全に掌握していった。
「全滅……だな」
目の前で繰り広げる光景を目にし、心底不愉快そうに男は言った。ベロニカは顔を真っ赤にし、次に告げるべき言葉を探した。たがそれを遮るように、男は断定的に言った。
「すぐ来い、バラム! 5分でいい。ここを繋げ! ……俺が出る」
「い、いけません! 今ああたに何かあったら……すぐに次の手を準備するざあます!」
「黙れ」
氷のように冷たい声で男は言った。ビクン、と身震いしたベロニカに侮蔑の視線を送り、男は複雑な術式を刻み始めた。
「おまえにはウンザリだぜ。必死に命乞いをする姿勢に真剣味を感じて、せっかく生かしてやったってのに、まさかここまで無能だとはよ」
「……あの時の誓いは忘れてないわ。アタク……妾の生きる意味はただ一つ。愛する者のために、美しき者のために、この計画を遂行することだけよ」
「本当なら死んで詫びてもらうとこだけどよ、おまえにはまだ使い道があるからな。死ぬ気で、全細胞が死滅するまで闇力を送れ。さもなくば……“アレ”を殺す。いいな?」
「……はい。了解致しました。妾の命に代えても」
振り絞ったその言葉に男は何の反応も示さず、彼女の目の前で瞬時に消え失せていった。極度の緊張感から解き放たれたベロニカは、ふうと小さく息を吐いてから、苛立ちを隠し切れずに壁を蹴り飛ばした。
「ダメですよ、ベロニカ様。そんなに取り乱しては。全てがご破算になってしまいますよ」
「……うるさい! 貴様なぞに何が分かる!」
いつの間にか部屋に降臨した呪術師バラムが、フードの奥で大きく口を歪めて笑った。ベロニカの怒りの声も、彼にはまるで響かない。周囲の闇力を全身に集め、彼は実に愉快そうに笑った。
「分かりますよ、無論。私を……一体誰だとお思いですか?」




