第65話「妖星乱舞」
中空の飛石、その上部。
10メートル程の距離を開けて、闘気をぶつけ合う2人の武人。秋津国の侍高堂亜門は愛刀『素戔嗚』をを大上段に構え、刀の背にそっと左手を添えていた。一方、炎の魔人スルトは燃え盛る長剣を水平に構え、柄を両腕でしかと握り締めていた。緊迫の空間内は窒息しそうに密度を高め、距離を開けて見守るだけのリースですら、その圧で息苦しさを覚える程だった。
彼女の見て来た限り、状況は敵に有利であると思われた。亜門の刀技に匹敵する者などそうはいないだろうが、スルトは未だ実力の片鱗を見せておらず、彼には使えない闇術も使える。
(正直なところ……厳しい戦いになるわ。でも、必ずあたしが亜門くんを助けるから!)
激戦を見守る光術士リースがそう感じたのも無理のない話だった。だが彼女は既に力を使い果たし、全身の火傷を含め大小様々な傷を負っていた。自らの力の無さに歯を噛みしめつつ、それでも彼女は何か出来ぬかと強く拳を握った。
「はっはっは。リース殿、心配要らぬでござるよ。今の己はかつてとは違いまする」
そんな彼女の緊張を背に感じたのか、亜門はくるりと無防備に後ろを振り向いて快活に微笑みかけた。リースはそんな彼の態度に焦りを隠せず、素っ頓狂な大声で叫んだ。
「ち、ちょっと! なによそ見してんの! ほんとにやられちゃうわよ!」
「ワッハッハ! 戦いの最中に女に目を向けるとは、余程命が要らぬと見えるな。燃えよ『レーヴァンティン』!!」
炎を纏った大剣の鋭い一閃が、亜門の首筋向けて繰り出された。リースの目には欠片も映りもしない程の速度、呼吸の刹那の一撃。亜門の首は疑い無く吹き飛ばされたと思われたが、現実に映し出されたのはまるで異なる風景であった。
彼は振り向くことなくすっと刀を肩越しに突き出し、迫り来る灼熱の剣を垂直に、刃先の一点のみで受けた。完全に呼吸を見切られた上で止められた剣は、それ以上振り切ることが出来ず、スルトは感心と驚嘆、そして歓喜の入り混じった表情を浮かべた。
「なんと! 世の中にはこんな技術が存在するのか! 人間とは実に面白いものだな」
「笑止にござる。今の其方では相手にならぬ。加減などせずに、内に秘めし醜悪を放つがよい。如何に武人然に振る舞ったところで、所詮は闇に生を受けた眷属に過ぎぬゆえ。いずれ使うのならば、己に殺される前に使っては如何か?」
「ワッハッハ! それで挑発しているつもりかね? その手の技術は未熟のようだが」
「はっはっは! バレては仕方ありませぬな。己が出来るのは刀を振るうことのみでして。さて、其方の相手も飽き申した。こちらも火急でして、そろそろ終わりにしとうござる。覚悟はよろしいか?」
その答えを待たず、亜門はくるりと振り返り剣を弾きつつ、静かに刀を上段に構えた。スルトはにやりと微笑み全身から闇力を噴き出すと、大剣から一層激しく爆炎が舞い上がった。
全身に焦げんばかりの熱を感じながら、亜門は極めて平静に呼吸を1つした。今の彼には、戦場の全てを感じられた。目の前の男の吐息、鼓動、意思、思考、そしてそこから導き出されるこの戦いの未来すらも。
(……わかる。剣は囮で、本命は背後に隠せし2つの術式。こちらの攻めを待ちながら、守勢を装いつつ反撃の隠し手、その上で己が欠片でも隙を見せれば一気に畳み掛ける、と。なかなかに戦上手なご様子。……だが!!)
亜門は呼吸を整えつつゆっくりと刀の向きを変え、横一文字に構えて目を閉じ、更に集中を深めた。その落ち着いた佇まいとは裏腹に、場には苛烈極まる闘気が漂っていた。
(……ぬう。なんという威か! まともに近寄っては危険だ。一旦距離を取るが得策であろう)
スルトは全細胞にびりびりと走る緊迫感に従い、振り下ろしかけた剣を戻し、後方へ飛んで術式による攻撃に切り替えんとした。が、それは悪手。その迷いを生ませることこそが手の内。亜門は僅かな気配の変化を見逃さず、スルトが動き始めた丁度その時に、魂が凍り付くような気迫と共に爆発的な勢いで突進した。
「『蟻の穴に雌牛の角入らば堤腹も崩壊す』。秋津の格言にござる。一瞬の判断が生死を分かつは戦場の常なり! 高堂流奥義『乾坤一擲・《風》』!!」
亜門の刮目の一声、一閃。同時に、亜門の背後から瞬間的に強烈な風が吹き荒び、その勢いをも借りて彼は凄まじい速度を得た。今の彼には焦りや奢りなど微塵も存在しない。彼の目に映るのは敵の気配のみ。刀が突き刺さり、引き裂く絵図のみ。
(これは……龍族の力?! まずい、一手遅れてしまった! このままでは斬られる! 剣で守らねば……)
明確な意思は力と化し、スルトもそれを全身の神経で感じ取っていた。が、その時は既に遅かった。遅すぎた。彼が次の動作に移ろうとした時、術式を解除して剣を握ろうとした時、亜門の刀はスローモーションのようにゆっくりと、袈裟斬りに黄金の甲冑に食い込み、抵抗もなくするりと背後に抜けていった。
「な、なんという刀! なんという力……そして技! 我輩を斯くも容易く……貴公はいったい……」
「悪鬼風情に2度名乗る道理はあらず。このまま無為に死んでいくがよい。其方はそれだけのことをした。其方は……リース殿を傷付け申した!」
その言葉が届くかどうかという時には、既に彼の身体は真っ二つに割かれ、突風に吹き飛ばされ地上へと落ちていった。亜門はそれを確認すると、ふうと小さく息をしてリースの側まで一足に飛び、彼女の目を見つめて穏やかに微笑んだ。
「リース殿、終わったでござるよ。ご安心召されい。リース殿に手を出した不届き者は成敗したでござる」
「……なによ。亜門くん超強くなってるじゃない。こんな短期間でなにがあったの?」
「はっはっは。まあいろいろありまして。ですが……中々に格好良かったでござろう?」
亜門は冗談めかしながら、和かにリースに笑いかけた。彼女はそんな彼に、今まで見せたこともない無邪気で、子供のようなふわりとした笑顔で応えた。そして彼女は、頬をほんのり染めながらもう一つの感情を欠片だけ込めて、胸中に去来する言葉をそのままの形で告げた。
「……うん。カッコよかった。本当に素敵だったよ」
「そ、そ、そ、そうでござろう!! そ、その……それは1人の人間というか……ぶ、ぶ、ぶ、武人として……でござろうが? は、は、は、ははあ、さては得意の可愛い嘘でござろう! は、ははははは! ははははは!」
「ううん。……違うよ。嘘なんかじゃない。……心底惚れ直したわ」
「な、な、な、なななな!!! な、なんと! 今なんと! 己の耳がおかしくなり申したか?! こ、こ、こ、これは!! な、な、な、なんと!!!」
「ああ、めんどくさいわね! 2度は言わないわよ! てかさ……言いたいことあるならさ……そっちから言ったら?」
リースは潤んだ目で上目遣いに、何処か挑発するような視線を亜門を向けた。その瞬間彼は、歴戦の武人たる高道亜門は、人生で一度も感じたことのない、初陣の際ですら陥ったことのない、生命活動に危険を及ぼすほどの心臓の鼓動を感じていた。顔は赤を通り越して黒紫に染まり、奥歯はガチガチと上下運動を繰り返し、全身から汗が滲むように絞り出されていた。
(落ち着け! 斯様な窮地にこそ先ずは落ち着くのだ! こんな時……己はどうすればよい? 考えろ! 先達の言葉を思い出せ! こんな時龍心なら……己の兄ならばどうしていた? ……『よし! なら宿で待ってるぜ!』……ええい! そんな事を言える訳がなかろうが!!)
鼓動は既に肋骨を粉砕せん迄に高まり、急速な発汗と発熱で末端に激しい悪寒が走る。彼女の美しき瞳が近付くにつれ、亜門は致命的な頭痛と吐き気と目眩を同時に脳髄に覚えながらも、必死で呼吸を整えようとした。
(……ええい、兎も角落ち着くのだ! 勇気だ! 勇気を出すのだ! 大殿、母上、姉上、龍心……高堂の誇りを己に! 国父典膳公、フィキラ殿、ハーシル殿……己に古の偉大なる力を!)
2人の距離は少しずつ、ほんの少しずつ縮まっていった。常人のたがを外れた鼓動と熱気が空間を歪め、世界の輪郭を朧にしていった。だが、ある地点でそれは止まる。2人の距離が息が届く程となり、そして、訪れた沈黙。永劫にも感じられる沈黙の後、リースは彼の手を優しく取ると、自ら一歩だけ歩みを進めた。
「リース殿……己は………」
何も言わずに聖母の如く微笑むリース。事ここに至り、高堂亜門は決断する。遂に覚悟を決めた彼もまた、人生最大の勇気を胸に、偉大なる一歩を踏み出したのだ。彼は互いの体温の感じられる距離で、震える手に全ての力と決意を込めて、がっと彼女の肩を抱き締めた。
「……もう。痛いよ」
「す、す、す、すまんでござる! お、お、お、己はそんなつもりでは!(な、な、な、なにか言い訳をせねば!) じ、じ、じ、実はその……」
「いらないよ。……そういうの」
彼女は静かに亜門の胸に頭を埋めた。暖かな時間。人生において想定し得る全ての中でも指折りの、暖かく溶けるような時の織り成し。亜門は今にも破裂しそうな心臓の鼓動の中に、もう一つの小さな鼓動が混じるのを感じた。そして、両腕に込められた鬼神の如き力をゆっくりとほどき、改めて包むように優しく、そっとリースの体を抱き締めた。まるで新雪に手を潜らせるように、優しく、そして暖かく。
「……リース殿。己は……言わねばならぬ事があり申す。どうか聞いて下され」
「……うん。ちゃんと聞……!!!」
その時、ばっとリースは亜門を突き飛ばした。その顔は一転して般若のように歪んでいた。彼は見るも無残に慌てふためき、モゴモゴと回らぬ口で必死に何か言い訳しようとしたが、それより先に彼女は凄まじい迫力で怒鳴り付けた。
「ちょっと! あんたらいつからそこにいるの!」
亜門の背後の飛石の陰、死角となっていたその場所に、幾つかの人影があった。怒鳴り声に反応しビクンと影は揺れ、そこから白々しい顔で登場した藤兵衛とレイ。
「い、いやあ。実に奇遇じゃのう。儂らは丁度今来たばかりじゃて。の、のう虫や?」
「も、もちろんだぜ。俺もクソ商人もついさっきだからよ。い、いやあ、長い道のりだったぜ。ハ、ハハハハハ!」
不自然極まりない2人の態度を見て、リースは呆れたように小さくため息をついた。亜門は残念そうな、それでいてどこか安心したような表情になり、同じように息を吐いた。
だが、それだけではこの場は収まらない。弛緩した空気の流れる一行に、試練。藤兵衛と亜門の鋭い視線が交差し、瞬時に緊迫の色が濃くなった。
「御健勝の様で何よりにござる。……金蛇屋藤兵衛殿」
「そちらこそ変わらず能天気で良いのう。……高堂亜門よ」
2人の間の緊迫感は、時間と共に増すばかりだった。堪らず声を掛けようとするリースを、レイがぐっと肩を掴んで止めた。
「なによレイ! わかってるでしょ?! あの2人はもう……」
「心配すんな。なるようにしかならねえ。……信じろ」
彼女らが見守る中、2人の距離はやや開いたままであった。静かに、幾ばくかの時間が流れた。双方ともしかとの目を見つめ合い、何も言わずにその場で立ち尽くしていた。
突然、鋭い風が吹いた。落ち葉が巻き上がり2人の間にポツリと落ちた。その瞬間、彼らは全く同時に、猛然とその場に平伏した。
「申し訳ありませんでした殿! 己の未熟を殿のせいにしてしまい、結果として殿に多大なるご迷惑を! 今の苦境は全て己に起因しているでござる! どうか……どうか愚かなこの己をお許し下され!」
「誠にすまなかった亜門! 儂がもう少し考えがあればよかったのじゃ! 儂の浅慮のせいで、お主に身を千切られん程の辛い思いをさせてしもうた! どうか……どうか愚かなこの儂を堪忍してくれい!」
2人は同時に発し、同時に聞くと、目を合わせてきょとんと見つめ合った。そして、背後で響き渡るレイとリースの笑い声を聞き、釣られて笑う2人の楽しそうな声が生まれた。藤兵衛は心底愉快そうに笑いながらキセルを火を付け、亜門の方にぐっと手を伸ばした。彼はその手を強く強く握り締め、何かを確かめるかのように激しく上下に動かした。
「何じゃ、暫し見ぬ内に精悍になったものよのう。儂がおらん方がよかったのではないか?」
「はっはっは! 殿こそ随分と縮んでしまわれたご様子。やはり己がおらねば駄目なようですな」
「グワッハッハッハ! 言いおるわ! 亜門よ……これからも頼むぞ」
「……無論にて」
その時、突如として下方から激しい熱量が噴き上がった。亜門とレイは仲間たちを掴み、咄嗟に空に飛んでそれを回避した。巻き起こった大炎は飛石を吹き飛ばし、瞬く間に消滅させていった。下を覗いた一同の目に入ったのは、巨大な炎を纏った異形の鳥の如き姿だった。その体の中央部には、高らかに笑うスルトの姿があった。
「ワッハッハ! 危ないところであった。まさか我輩が『降魔』を使わされるとはな。未だ大団円には程遠いぞ」
「おい亜門! ちゃんと言ったろうが! スルトのバカの『フェネクス』は特別だから、しっかり核を斬れってよ! ありゃ数ある降魔ん中でも唯一“不死身”なんて呼ばれる、マジもんのイカれ野郎だかんな」
「ふむ。手応えは完璧だったのですが、まだ己も修行が足りませぬな。反省致しまする。責任を持って己が片付けましょうぞ」
「よし! なら話は早いわ。あの化け鳥はお主に任せたぞ。何としてでもこの場で仕留め、後顧の憂いを断つのじゃ!」
「ああ!? なにいい気になって仕切ってんだてめえ!!」
「グェポ!!」
そんな彼らの遣り取りを、微笑しながら見つめる亜門。周囲に炎が襲い掛かる中、彼はゆっくりと光に包まれ、次第に龍の姿へと変わっていった。
「……亜門くん。頑張ってね。あたし信じてるから。みんなで一緒にシャルちゃんを迎えに行きましょ」
「お任せあれ。この高堂亜門、秋津の侍の名誉に懸けて、必ずや夷狄を打ち払いリース殿の元に馳せ参じまする」
「うん。当然よ。帰ってきたら……さっきの続きを聞かせてね」
「つ、つ、つ、続き!!! そ、そ、そ、それは……その………」
「うるせえ童貞! ちったあ落ち着け! じゃ、俺らはお嬢様んとこ行くかんな。てめえは奴をぶっ殺してさっさと来いや」
「い、委細承知にて。し、しかし続きとは……」
完全に異世界に入り込んだ彼を見て、レイは呆れ果てたように首を振り、気を失ったままのココノラの後頭部を思い切り蹴り上げた。
「おい! さっさと起きやがれ! すぐに出んぞ!」
「……ん?! レ、レイさん?! ああ、夢でももう一度お会い出来て……」
「うるせえ! こっちは急いでんだ! そこのノビてるガキもなんとかしろ!!」
「ハンマヒャ!!」
こうして二手に分かれた一行。不気味に輝く炎の化身を眼下に仰ぎ見て、静かに闘気を込める最強の人龍。空を舞う獣たちの祭典が始まろうとしていた。
一方、神都パルポンカン。
シャーロット=ハイドウォークは、術に囚われた身でありながら、雲下の騒がしくて懐かしい声を聞き、心から嬉しそうに笑っていた。ミカエルはその絵画の如き美しさに、心の内を掻き回されんばかりの感覚を覚えた。今まで見たこともない美しい表情に驚きと嫉妬を、そして……例えようもない不安を呼び覚まされ、心中にかかる雲を払うように努めて明るく言葉を発した。
「おーおー。下はずいぶん楽しそうじゃんか。でも残念。スルトには『フェネクス』をくれてやったんだ。今のあいつに勝てるのなんて、カリスとシュウ以外いないんじゃねーか? ガンジは今はもう口うるさいだけのポンコツだしねー。ま、足掻くだけ足掻きなよ。どうせあいつに焼き尽くされるだけだけどさ」
「……」
「それにさ、シャーロット。今の状況分かってる? お前の命さー、俺の指一つで終わっちゃうよ。俺がいつまでも優しいと思ったら大間違いだよ」
「ふふ。焦りのあまり馬脚を表しましたね。貴方は何もご存知ない御様子です。実に哀れな御方ですね」
シャーロットはやや嘲笑的に、彼女には珍しく挑発的に微笑んだ。それを見て彼はみるみる血管を浮き上がらせた。
「ん?! 俺が何を分かってないって?! どういうこと? ねえ? ねえ!!」
「笑わせてくれます。『己の無知を知らぬ者を真の無知と言う』。神々に伝わる格言では? 貴方は本当に神族の系譜なのですか?」
「……もういいよ。ちょっと黙ってて。……『イエーロ・グランデ』!!」
彼は苛立ちを隠し切れずに術式を構築し、即座に氷の波動が放たれた。シャーロットは呪鎖に囚われたまま余裕の笑みを浮かべ、正面から術を受けた。目を覆う程の吹雪が去った後には、美しき氷漬けの彫像が現れるはずだった。彼はそれだけの力を込めた。だが、現実の光景はまるで異なっていた。
「はて。何か……なさいましたか?」
「この……そういうところまで“あいつ”とそっくりだな!」
シャーロットは涼しい顔で立っていた。いつの間にか外れた呪鎖を足元に投げ、当然のように術を受け流すと、彼を諭すように言葉を放った。
「第1に、お兄様は決して部下をゴミ扱いなどしません。彼は適当でマイペースな方でしたが、配下の者をとても大切にしておりました。貴方のように傲慢に振る舞うことなどありません」
「人は変わるんだよ。お前にもいつか分かるさー。……『イエーロ・グランデ・デッド』!! ついでに……『ビエント・グランデ・クロス』!!」」
目にも留まらぬ連続術式。氷獣が彼を中心に幾重にも周りに湧き上がると、続く吹き荒れる突風がそれらを引き連れ、シャーロットに向けて突っ込んだ。苛烈極まる攻撃を受け、彼女は土煙に包まれた。……だが!
「第2に、お兄様は私を傷つけるようなことは決してなさいません。肉体的にも、精神的にもです。私はずっとひとりぼっちで、お父様からもお母様からも疎まれて過ごしていました。家中の者も殆どはそれに従うのみ。私に優しくしてくれたのは、家族ではお兄様と御祖父様だけです。私は心底お兄様を敬愛し、尊敬しておりました」
煙の奥から現れた無傷のシャーロットは、真紅に染まる目を輝かせた。彼は眉間に皺を寄せて、遂に強力な複合術式を構築し始めた。
「それがどうしたのよ? 今も昔も俺は変わらないよー。シャーロットは俺の可愛い身内だからねー」
「最後に、1つ。貴方……その程度でお兄様をお名乗りになるのか? 窮屈な仮面などさっさと外せば良いでしょう?」
「……ああ、うっさいうっさい! ちっと黙って座ってなー。ほんと、いい加減目障りだから。……『イエーロ・ウルティマ』!!」
極寒の冷気の渦が巻き起こった。それは周囲を銀色に染め、あらゆるものを凍り付かせる死の波動となり、シャーロットの周囲の空間全てに襲いかかった。だがシャーロットは動じない。今の彼女に迷いなど存在しない。
「術式の構築が緩いですね。拙速過ぎます。もう一度言います。早く正体を現しなさい。……『ベール・ウルティマ』!!」
輝く凍波が到達する瞬間、シャーロットの身体から闇が膨れ上がった。彼女身を纏う黒き装束に膨大な闇力が編み込まれ、繭の如く周囲に展開していった。揮発した冷気の嵐の中で光の羽が羽ばたき、無傷の彼女は美しく微笑んだ。
「その『固定術式』……よく覚えてるぜ。ハニエルの忘れ形見か。ったく、昔っからこうも俺の邪魔をしてくれるとはよ。もっと早く潰しておくべきだったぜ」
彼の顔色は徐々にだが、確かに変わりつつあった。眼は燃えるような真紅に染まり、声は野太く低く、そして何より、漆黒に色付いた憎悪を剥き出しにしていた。シャーロットは底知れぬ事態の予感を感じながらも、凛とした表情で真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「『楔』に残ったアガナ様の意思が教えてくれました。現世に残さざるを得ぬ“悪意”があると。封じることしか出来ぬ自らの後悔を。全ては600年前の大戦に起因している、私はそう考えます。」
「……アガナ。どいつもこいつもアガナ、アガナ!! “この時代”でもそうかよ! ほんっとくだらねえな!」
「では……確かめましょう。貴方という方の“真実”を! ……禁術『ランザミエント』!!」
瞳孔を見開き叫ぶ彼の隙を突く形で、シャーロットは両手で術式を構築した。即座に空間内に不可思議な円形の紋様が形作られ、彼を真正面から捉えた。歯噛みして睨み付ける彼からは、徐々に脱皮するかのように表面の闇が捲れ上がっていった。
「やはり……ですか。想像通りです。お兄様が変わられたのは、50年前のあの日からです。『世界を見てくる』と仰り、長き旅路から戻られたあの日、悲劇は起こりました。お兄様が最後に向かわれたのは、北のゲンブ国。彼の地の『楔』が崩壊したのはその頃です。つまり……」
「ったく、察しのいいガキだぜ」
口調が、明確に変わった。と同時に長い髪は毛先から縮れ上がり、別人のように顔に険が走った。目の前にいる男は、どす黒い意思を隠すことなくシャーロットを睨みつけた。
「やっと……馬脚を現しましたね。貴方が何方かは存じ上げませんが、早急にお兄様から離れなさい!」
「嫌に決まってんだろ、このドブスが! 頭膿んでるんじゃねえの? そもそもよ、全てはこいつか望んだことだぜ。こいつはずっと……お前が邪魔だったんだよ。当主継承権は自分にある。シャーロットは牢獄でドブネズミみたいにおっ死んでく運命。なのに、この圧倒的な才能の差はなんだ? アガナの再来と呼ばれる妹に比べ、明らかに劣る凡人の兄。妹は可愛い。目に入れても痛くないほど。なのに、なのに! ……だ、そうだぜ。キャッハッハッハ! すげー笑えるぜ。いつの時代も変わんねえなあ」
「!! 貴方は……どれ程腐っておいでなのか! 恥を知りなさい!」
周囲に亀裂が走るほどの叫び声。シャーロットの美しい顔に雲がかかり、額に深い皺が寄った。しかし彼は動じない。邪悪を秘めし男は、どんな意志にも揺らぐ事はない。
「おいおーい。幾ら何でも言い過ぎだろ? 俺たちゃ“同族”だぜ」
「貴方は……やはり……」
「……っと、時間切れだな。そろそろ“ミカエル”が目え覚ましそうだ。最後に1つだけ、ハイドウォークの当主としての権限がある内に言っとくぜ。……『おい、ガンジ。すぐに来てシャーロットを殺せ。この後の命令の訂正は無効だ。死ぬまで戦い続けろ』。んでもって……『強制降魔・トール』っと。さて、これでどう転がってもいいや。こうるせえガンジでもお前でも、どっちかは殺せる。うーん、俺って頭いい!」
「……!! 許しません! 絶対に! 貴方は私がここで倒します! ……『ソル・グランデ・トレス』!!」
怒りに任せたシャーロットは、瞬く間に3つの閃光を連続で撃ち出した。しかし、確実に当たるタイミングであったにも関わらず、結果的に彼の体には一切届かなかった。まるで空間を捻じ曲げられたかのように、彼はふわりとその場から掻き消えていった。
「キャハハハハ! やっぱ“この時代”は緩いなあ。アガナはこんなもんじゃなかったぜ。ま、こっちはこっちでやることあるから、後は奴隷くん達に任せまーす」
「こ、これは……空間転移術?! 何故貴方が?! ……待ちなさい!!」
「……1つ言っとくぜ。世界は間もなく崩壊する。“あの女”の意思は俺が確実に潰してやる。どんな理由があって俺の邪魔をするか知らねえが、これ以上踏み込むならマジで皆殺しだ。ミカエルがどう思おうと知ったことじゃねえ。じゃあまたな。アガナの成り損ない……シャーロットよ」
忽然と目の前で消えて行く男の気配、その場に崩れ落ちる彼の身体。シャーロットが駆け寄る間も無く、続いて沸き起こる轟音、そして雷雨。空から降り注ぐ雷は周囲を焼き、一際大きな稲妻の一閃がシャーロットに向けて一直線に飛び込んだ。
「ガンジ! どうかおやめ下さい! 私には貴方と戦う理由はありません!」
「ごぉぉぉぉ!! 殺す! 殺さねば……ならんけえ!」
異形と化したガンジは、泣き声に近い咆哮を上げて高速で突進してきた。目と鼻の先に近付く狂気の拳を前にしても、シャーロットは避けようともせずに両手を広げ、穏やかに、優しく、そして美しく微笑みかけた。
「ご安心なさい、ガンジ。今の私には……大切な仲間がいます。貴方は必ず……私がお救いします!」
「!! ご、ごぉぉぉぉぉ!!」
その瞬間、場に激しい爆発音が鳴り響き、暴走状態のガンジはその場で停止させられた。それは、拳と拳がぶつかり合う音。そう……風を纏い現れたのは、言うまでもなくシャーロットの忠実なる従者、疾風の闘士レイだった。
「ふう。ギリギリもいいとこだぜ。お嬢様、お待たせしました。ちと飛石をぬけるのに時間がかかりまして。ヒヤヒヤさせちまいましたか?」
「ふふ。心配してなどいませんよ。あら? でも貴女は……レイ? セロ? どちらなのでしょうか?」
「ま、そのへんは後ほど。とりあえずこのイカレを止めますわ。おい、ガンジ! トチ狂うのは後にしやがれ! 『滅閃』!!」
「ごおおおお! 『雷纏』!!」
レイは付き合わせた拳から闘気を振り絞り、力尽くでガンジを吹き飛ばした。去り際に彼から放たれた電撃が全身を襲うが、彼女は気にする素振りすら見せずに立ち尽くしていた。
「……ぬりぃな。いつものてめえはそんなモンじゃねえだろ? ダリいマネされやがってよ」
[お願いだよレイ! ガンジを止めて! こんなの……絶対に間違ってる! ボクはこんな彼を見たくないよ!]
「へっ。同感だな。初めて意見が合ったぜ。んじゃま、目え覚ましてやっから覚悟しろや!」
「やかましいわあ! ワシは……ワシの目的は……シャーロットを殺すことだけじゃあ!!」
異形と化しながら絶叫するガンジ。それに応えるように闇に身を浸すレイ、そして彼女の中で戦いを見守るセロ。2つの魂を巡る戦いは狂熱を帯びていった。
苛烈を極める戦場にて、拳を握り締めて表情を険しくするシャーロット。戦いは始まったばかり。成すべき使命を果たさねばならない。だが、彼女の身体は限界に近付いていた。
(……くっ。こんな時に……)
いつもの“発作”。突如として身体に浮かび上がる、黒き炎のような痣が、彼女の身体を内面から蝕んでいた。筆舌に尽くし難い苦痛に苛まされ、彼女は思わずその場でふらりと崩れそうになった。
(まだ……まだやれます! 皆が私の為に戦ってくれているのに、私だけが倒れる訳には……)
彼女の精神力は本物だった。ぐらりと足が縺れ倒れそうになるも、必死に歯を食いしばり激痛に耐えていた。だが病状は快方へ向かうことなく、日々蓄積するばかり。そんな中でも、彼女の意思は揺らぐことはなかった。
「私は……負けません! 必ずや使命を……」
だが、肉体は正直であった。一際痛烈な衝撃が神経を貫き、脳髄が揺れる程の衝撃で、彼女はその場にゆっくりと倒れ込んだ。自らの限界に悔しさと恨めしさを感じ、彼女の意識は遠い世界へと向かおうとしていた。だがその時、そんな時、彼女の危機に現れるのは、いつだってあの男だった。
「ゲッヒャッヒャッヒャッヒャッ! 息災のようじゃのう……シャルや」
皺くちゃの細い指、血色の失われたその体からは、生の気配すらも感じられなかった。が、そこに込められた意思、即ち彼の魂の温度は、深淵へと到達しかけた彼女の心を一瞬で溶かしていった。
「何じゃ、目など赤くしおって。さてはいつもの寝坊助じゃな? 睡眠は美容に一番と聞く。儂の側におりたいのならば、おいおいその辺も考えねばならぬぞ。何故なら世界一の商人に侍るは……世界一の美女でなければならぬからのう!」
「……藤兵衛!! ああ、会いたかった! よくぞご無事で……」
「グワッハッハッハ! 儂は不死身じゃて。そもそもお主がそう仕向けたのであろう?」
シャーロットは涙を流し、勢いよく藤兵衛に抱きついた。ゆっくりと彼の体は生気を取り戻し、若き頃の姿が取り戻されていった。彼は若々しい姿を満足そうに眺めると、彼女の白い肩越しに垂れた目を一層いらやしく下げ、倒れ込むミカエルに対し、低いダミ声で嘲笑するように告げた。
「ケヒョーッヒョッヒョッヒョ! 聞いておるか知らぬが、儂らは見ての通りの仲じゃ、“お兄様”よ。悔しいのう、悔しいのう。自分がどうしても手に入れられんものを、どこの馬とも知れん只の人間に掻っ攫われた訳じゃからのう。ウヒョーッヒョッヒョ! 笑いが止まらんわい。神々の一族の当主が聞いて呆れるわ。心配せんでも祝言には呼んでやる故、儂に跪いて感謝するがよいぞ。文句あらばさっさと出て来るのじゃ。黴臭い亡霊など払い退けての」
その瞬間、確かに空間が揺れた。地響きが立ち起こり、神都そのものを飲み込まんばかりに揺れ始めた。そして立ち上がるミカエル。忿怒と殺意を一杯に広げ、彼は震える声でがなり立てた。
「……おまえ! 全ての元凶はおまえだよ……金蛇屋藤兵衛! おまえさえ殺せば全ては丸く治るんだ。おまえさえいなかったら!!」
爆発的な闇力が広がり、神都の大地が捲れ上がっていった。しかし藤兵衛は動じない。この男は動じない。
「おうおう、怒っておるわ。そうでなくとはの。儂らで彼奴を止めようぞ、シャルや。親族が居らぬでは式も締まらんからのう」
「式? はて、それは一体どういうことでしょうか? 詳しく教えて下さい。今すぐに!」
「ええい! 話は後じゃ! 兎も角今は進むのみじゃ! 儂に続けい!」
「……はい! もちろんです! 私はいつも、これからもずっとずっと、貴方と一緒です! 決して離れることはありません!」
2人の両手が固く交わった。そこから溢れる力には、闇に生きる者たちを凌駕する、生と希望の射線が伸びているようだった。
大陸歴1279年9月。
神都パルポンカンでの死闘は、最終局面へと到達しようとしていた。




