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第63話「飛石群の迷宮」

 天空への道。

 悠然と大地を伺う偉大なる大空の中、荷馬車を引いた一団が驚くべき行軍を行なっていた。彼らは空に架かる見えない道を躊躇いなく進み、驚くべきことに地上へ落下することはなく、悠々と空を渡っていた。

 彼らはゆっくりと踏みしめるように足を進め、とある浮島、宙に浮かぶ一際大きな巨石にまで辿り着くと、ぴたりと足を止めてしゃがみ込んだ。肉体的な疲労具合はさておき、生死の狭間を進む彼らは神経をひどく擦り切らせ、全身にじわりと汗を滲ませていた。

「……ふう。ちょっと休憩しましょ。なんか胃が痛いんだけど」

 光術士リースは汗ばんだ髪をかきあげながら呟いた。その金髪は日差しを反射し、美しい輝きを見せていた。

「なんでい。やっぱオバさんは体力ねえな! おいらはまだまだいけるぜ!」

 少年ビッツが囃し立てるように口笛を吹いた。無言で怒りと共に符術を組み上げるリースを、御者席の商人ココノラが慌てふためきながら止めに入った。

「ま、まあまあ。ビッツくんに悪気はないでげすよ。それに、今は体力を無駄に使う時じゃないでげしょ? 落ち着いて、どうどう」

「……まったく。道案内役じゃなけりゃ、即座に奈落に落としてるとこだわ」

「そうそう。そもそもビッツくんがいなけりゃ、ここまで来れることすら出来なかったんですやから。ここは一つ大目に見てやって……」

「そうだそうだ! おいらがいなきゃ、どこ進んでいいか分かんなかったはずだぜ! ちったあ感謝しろよ!」

「ふんだ! 偉そうに! 凄いのはあんたじゃなく、お父さんなら貰ったとかいう秘伝書でしょうが。だからガキって嫌いなの」

 睨み合う二人を尻目に、ココノラはぼんやりと佇む大陸一の大商人、かつて金蛇屋藤兵衛と呼ばれた男の変わり果てた姿の側に寄り添い、彫りの深い表情を優しく崩して、実に穏やかな声で囁いた。

「見てやすか、旦那様? リースの姉御はね、遂にお一人でここまで来やした。どうか、どうか……御自身を取り戻してくだせえ」

「……」

 返事はなかった。しかし、藤兵衛の指先は何かを伝えるが如く微かに動き、それでもすぐにぱたりと下に落ちた。この商人が何を考え、どう動こうとしていたのか。それは現時点では誰にも分からなかった。しかし、彼はもがいていた。人知れず、闇の中でもがき続けていたのだ。それは現時点では誰にも見えなかったが、間違いなく確かであった。


 数時間後、天空は更に深みを増し、日も暮れた橙の空を闇がほんのりと包み込んでいた。一日中歩み続けたリースたちは、やがて星をも手元にする高さにまで辿り着いていた。

「しかし……改めて見ると、本当にすごいところでげすね。よくここまで来れたもんでやす」

「そうねえ。まさかこんな展開になるなんて、いくらあたしでも思いもしなかったわ。……ほんとうに綺麗ね。こんな状況じゃなければ素敵なのに。パゾルたちにも見せてやりたかったわ」

 呆然と景色を見つめるココノラの肩に手を当て、リースも潤いを秘めた目で雲に隠れつつある下界を見下ろした。

「へっ! あんな意気地なしども、来なくて正解だよ。おいらがいりゃ問題ないっての」

「はいはい。おっしゃる通りで。しっかしココノラ……あんたよく着いて来たわね。パゾルたちみたいに下で待ってりゃ良かったんじゃないの?」

「へっへっへ、リースさん。あっしはね、レイさんの為ならどこへでも向かいやすよ。人は愛のためならば、どんな困難も乗り越えられるもんでげす。ああ、レイさん。今頃あっしが恋しくて枕を濡らしてるんじゃないでしょうか。心配しなくても、あっしがすぐに行って抱きしめてあげやすからね」

 陶酔した表情のココノラを見て、心底うんざりした顔になるリース。彼女は息を整え立ち上がると、右上方の飛石を指差して言った。

「次はあそこね。『B』の字が見えるわ」

「うん。間違いないよ。ここを真っ直ぐに進めばいいんだ。その次は左やや後方の『I』に向かおう」

「ほんと口は悪いけど頼りになるわ。けどさ、あんた体力大丈夫? ずっと歩きっぱなしでしょ?」

「へへ! 問題ないに決まってらあ。オバさんたちとは訳が違うぜ」

 そう言っていきり立つビッツだったが、足はもつれその場に倒れこんだ。恥ずかしそうに赤面する彼に、微笑してリースは言った。

「はいはい。とりあえず一端休みましょ。あとちょいって時こそ、気を抜いちゃいけないわ。ご飯でも食べて足元を固めましょう」


 陽もすっかり暮れて、辺りを夕闇が包み込み、星の瞬きが眩しいくらいに彼女らを照らし出していた。一行は飛石のたもとで火を起こし、携行した食糧を調理しながら、和やかに食事をとっていた。リースの作る料理は簡素でささやかだったが、暖かく慈愛に満ちた味だった。ココノラは舌鼓を打って口々に褒め称えた。

「ほほう! 相変わらず姉御の料理は旨いでげすなあ。これ、肉をバナナの葉で包んだんでげしょ? 口の中に甘さが広がって、疲れた全身に栄養が音を立てて行き渡るようでげす!」

「まったく、いっつもあんた口だけは達者ね。こんなの簡単な家庭料理よ。この程度で唸ってたらさ、レイの料理食べたら腰抜かしちゃうわよ」

「な! レ、レイさんが料理を! しかもお上手ですと! これは失念でげす。しかしまさかレイさんが手料理とは……いやはや、楽しみが一つ増えやした」

「ふふ。楽しみにしてるといいわ。レイの料理は本当に美味しいんだから。ビッツ、あんたはどう? 口に合うかしら?」

 声をかけられても暫く彼は黙ってもぐもぐと口を動かしていたが、やがて下を向き照れ臭そうに呟いた。

「……うん。美味しい。久しぶりにちゃんとした料理を食べたよ。すごく美味しいよ」

「そう! それはよかったわ。ふふ。少しは可愛らしいところもあるじゃない」

「ねえ、お代わり貰ってもいいかな? 実はおいら……お腹がぺこぺこでさ」

「そういやビッツくんは昨日、小さい子らにご飯分けてあげてたでげすね。心優しいところもあるじゃないでやすか」

「あいつら……まだチビだからさ。大きいおいらがなんとかしないと。親に捨てられ、皆で協力して生きてきたから」

「……偉いわね。ただの生意気なガキだと思ってたけど、しっかりしてるわ。好きなだけ食べなさい。遠慮なんていらないわ」

 そう言って満面の笑みで料理をよそるリースに、ビッツは心底嬉しそうな顔をしてから、思い直したように深々と頭を下げた。

「……今までごめんな、お姉ちゃん。おいらたち大人を信じられなくって。今まで嫌な思いをいっぱいしてきたんだ。だから……」

「べつにいいわ、そんなの。それより早くお食べなさい。冷めちゃったら美味しくないわよ」

 3人の食卓、正確に言えば荷馬車の中の藤兵衛を入れた4人の食卓は、明るく笑いに満ちたものとなった。笑い、歌い、踊り、満ち足りた時間が流れていった。

 暫しして、ココノラがうとうとと眠りについた頃、リースはタバコをふかして優しい目でビッツを眺めていた。彼は馬にエサをやりつつ何事か考え込み、ちらりと藤兵衛の方を眺めて独り言のように言った。

「しかし、あの藤兵衛さんがこんなことになっちゃうなんて。てっきりおいら……父さんとの約束を果たしに来たんだって……」

「約束? あいつまた適当なこと言ってたの?」

 リースは煙を大きく吐き出して、うんざりした顔で尋ねた。しかしビッツは首を大きく振って、大真面目な顔で答えた。

「ううん。そうじゃないよ。藤兵衛さんは立派な人だよ。誰一人信じてくれなかった父さんの話を、初めて真剣に聞いてくれたんだ。それだけじゃない。神都パルポンカンへの道を解き明かし、おいらたちの先祖の証明をしてくれたのも、ぜんぶぜんぶ藤兵衛さんのおかげなんだ。父さんは死ぬまでずっと言ってた。『藤兵衛さんから受けた恩は決して忘れちゃいけない』って。『必ずあの方は約束を守ってくださる』って」

「……そう。まあ“アレ”はね。確かにやるって言ったら、どんな手を使ってでもやる人間だし。で、約束ってなんなの? あたしには教えられないようなこと?」

「ううん。別にいいと思うよ。今のおいらたちにも関係あることだし」

「ん? まだなんかあるの? ちょっとよくわかんないけど」

 実に嫌な予感を全身で感じるリースを尻目に、ビッツは無邪気に鼻の下を擦りながら、事もなげに告げた。

「実はさ、おいらたち誰も神都まで行けてないんだよね。2つ手前の石までは行けたんだけど、文献が欠けてたみたいでさ」

「……は?! あんた自分が何言ってるかわかってんの?! じゃあ、ここまで来ておいて……パルポンカンには?」

「そうそう。無理なんだよ。藤兵衛さんが残りを見つけてくれるって言ってたんだけど、この調子じゃね。近くまで来れば目を覚ますかと思ったんだけどさ」

「!!!!」

 言葉もなく立ち尽くすリース、高いびきをかくココノラ、楽しそうに笑うビッツ。先に進む術を失った一同の事態は逼迫していた。未だ彼女らは気付いていなかった。天空高くから悪意の視線が注がれていることに。彼らは気付くべきだった。闇渦巻く神々のお膝元に、こうもすんなり侵入できたことの不自然さを。しかし、気付いた時には全てが遅かった。不意に吹き荒れた熱風が開戦の狼煙となり、一行を更なる絶望へと導いていった。


 同時刻、神の都。

 シャーロットは眩い月明かりに晒されて、自らの内に闇力を滾らせていた。その表情からは、彼女が何を考えているのかは読み取れなかったが、強い決意のようなものは感じられた。昨日、ベロニカの言った言葉。彼女はそれを思い出していた。今晩、彼女が自分を解放してくれる。そしてその時、自分はどうすべきなのか。

 しかし、シャーロットは躊躇わない。今の彼女は躊躇わない。やるべきことは最初から見えていたし、向かう先もわかっていた。全ては……あの男が教えてくれた。

 シャーロットは決意を固めて立ち上がると、闇力を更に練り続けた。例え何が待ち受けていようとも、どんな罠に嵌められようとも、自分のやることは1つ。ただ仲間を信じることだけだと。

「お待たせしました、ベロニカ様。そこにいらっしゃるのでしょう?」

 窓の外の空間に向けて声を放つシャーロット。控えめの沈黙の後に、高らかな声。

「ホーッホッホ! お気付きざあましたか。さすがはシャーロットさんです。では、出立の準備はできたということざあますね?」

 部屋の四方から声が降り注いだ。だがシャーロットは全く動じることなく、その声に穏やかに、だが力強く返した。

「ええ。私は既に覚悟は出来ております。例え自分の身が焼き尽くされたとしても、必ず使命を果たしてみせます。お兄様も、ハイドウォークも、私が必ずお救い致します」

「……いい表情ざあます。ああたが受け継いだこと、避けられぬ病をその身に受けたこと、そして今ここにいること……それらが齎す結末は全て必然のこと。全ては繋がっている、それをお忘れなきよう。その上でどうか、目的を成就させて下さいな。……ではシャーロットさん、ここからはアタクシにお任せなさい」

 ベロニカの声が止むと同時に、するりと音もなく部屋の窓が開き、シャーロットの呪鎖が音も無く外れた。そしてカーテンがひとりでに捲き上ると、細く綱のようになってゆっくりと動き出した。周囲を見守る兵士達はその異変には気付くことがなく、呆然と夢見心地で焦点を失っていた。まるで幻術にでもかけられたかのように、その光景はいとも容易く作られた。窓から空を伝って見えない橋が架かり、それは飛石の迷宮の入り口にまで達しているようだった。

「……ふぅ。ご覧の通り、神都に掛かる術は全て解除したざあます。今この地はアタクシの術の支配下。ここからはご自身でなんとかなさいませ」

「ありがとうございます、ベロニカ様。私は必ず約束は守ります」

「ホーッホッホ。でもお気をつけなさい。“彼”の力は極めて強大ざあます。既にアタクシの動きを察知している可能性は高いです。せいぜいお覚悟あそばせ」

 それだけ告げるとベロニカの声はすぐに消え入り、闇に溶けていった。シャーロットは躊躇うことなくその橋に乗ると、後ろを振り向くことなく、ただ前へ進んでいった。

 闇の中、シャーロットはひたすらに進み続けた。ベロニカの言う通り、敵は気付く素振りさえ見せず毅然と警備に当たっていた。彼女は悠然と彼らの頭上を進み、やがてその端に到達した。既に術の効果範囲の限界に達している。後は全力で駆けるのみ。足の続く限り飛石の迷宮を駆け下りるだけだ。そう思い身を屈めたその瞬間!

「おー。やってるねー、シャーロット」

 背後で声がした。彼女は振り返る必要もなく、それが忌まわしき“彼”の声と分かった。

「なになになにー。びっくりした? ハッ! ハハッ! 俺に分からないことがあると思ったの? 愚かな妹だなあ。ま、そこが可愛いんだけどね」

 シャーロットはゆっくりと振り返り、毅然とした表情で彼に向き合うと、視線を真っ直ぐに合わせて叫んだ。

「何度も言わせないで下さい。貴方はミカエルではありません! 私の兄などでは決してありません! お引き取り下さい」

「わかってるわかってる。ぜんぶわかってっからー。あの藤兵衛とかいうクソ人間のせいなんでしょ。なんて可哀想なシャーロット。無垢て純粋で華麗なお前の心に付け込むなんてな。ま、あいつ殺せばぜんぶ解決するってわけだー」

「まさか! 貴方……藤兵衛を! そんなことは絶対に許しません!」

 シャーロットは今まで出したこともない怒声を上げた。それを聞いて彼は涙を流して蹲った。

「ああ! なんて根の深い術なんだ! でも何も心配要らないよ。なんかちょうどよく近くにいるみたいだしさー、スルト向かわせたからそろそろ死んでる頃じゃないかなー」

「……!!」

「ま、あのゴミには軽く術かけといたから、最初から身動き取れないし。お前をたぶらかした罰を与えないと。はははー」

 その言葉を聞いて、シャーロットの美しい眼がみるみる真紅に染まり、身体もそれに合わせて闇を纏っていった。

「こんなに怒りを覚えたのは……初めてです。貴方をここで止めて、私は藤兵衛を助けます!」

「へぇ。懐かしいな。そう来たか。でもお前なら当然だよね。でもさ、あまりに無謀だよー。俺には……ちゃんと見えてるからね。お前を焼く炎がさー」

「……だから何ですか? 私はここで貴方を倒します!」

「ま、仕方ないか。時間がないんだけど、これも躾だからね。昔のように仲良く姉弟喧嘩しよっか」

 両者の間に膨大な闇が、渦のように巻き上がった。闇に染まった2人の嬰児の対決が始まろうとしていた。


 一方、飛石群の迷宮。

 先程までとは打って変わって、地に向けて必死に駆け下りるリースたち。その表情には焦りしか感じられない。勢いよく空の道を蹴る彼女らの背後に、悪意の籠もった声が降り注がれた。

「ここまで辿り着いた偉業、それは褒めてやろう。だが主の命令だ。散るがよい! 撃て、術士達! ……『ソル・グランデ』!!」

 破壊の熱線が唸りを上げて10発以上、リースたちに注がれた。狙いは実に正確で、間違いなく彼女らを焼き尽くす筈だった。……だが!

「やらせないわ! ……第3教典『プリトウェン』!!」

 瞬時にリースの符術が展開され、光の渦が盾のように閃光を弾き飛ばした。だがその一部は飛石周辺を焼き、荷馬車をみるみる発火させていった。

「あ、熱っ! こ、こりゃたまらんでげす!」

「とにかく今は逃げるのよ! クソ狸とビッツを連れて全力で逃げて!」

「お、お姉ちゃん! ムリだよ! 一緒に逃げようよ!!」

「男なら情けないこと言わないで! あたしを信じて! 必ずあたしが守ってあげるから!」

 恐怖で手を止めそうになるココノラとビッツに、リースは怒鳴りつけるように叫んだ。次なる攻撃を予見して術を構築する彼女の前に、髑髏を模した黄金の甲冑を着た大男が尊大に告げた。

「ふむ。噂通りなかなかの腕前だ。名をリースと言ったか。流石は北大陸はアガナ神教の工作員、素晴らしき光術だ。教皇フリーダに勝るとも劣らんな」

「あんたあたしのストーカー? そういうキモいのやめて欲しいんだけど。それに……あんな化け物と一緒にしないでくれる?」

 言葉を返しながらも、リースは複数の術を同時に構築しようと試みていた。その様子を知ってか知らずか、黄金の軍人は余裕の表情で続けた。

「ワハハハハ! 我輩の名はスルト。ハイドウォーク家の盾と呼ばれる男だ。主からの要求を簡潔に伝えるぞ」

「あっそ。勝手にすれば。……第2教典『ヤドリギ』!!」

 術の発動と同時に、敵の周囲に光の枝のようなものが絡み付いた。大部分の術士が捕獲され無力化されていく中、スルトだけは全く動じることなく、気迫の声だけで術を跳ね除けた。彼を包む光の枝は一瞬で消滅し、瞬く間に燃え上がり炭と化していった。

「ほう、手品はこれで終わりかね? ならば話を続けたいのだが」

(……化け物! 早く何とかして隙を見付けて逃げなきゃ!)

「おっと。話の前に仕事をしておくか。心配せずとも殺しはせんよ。……今の所はな。『レヴァンティン』!!」

「ま、まずいわ! 早く逃げてココノラ!」

 ココノラの引く荷馬車の足は早い。だがその行く先、次に進もうとする飛石の中継地点に、スルトは狙いを定め凄まじい威力で剣を投げ付けた。空気を切り裂いて突き刺さった剣は、瞬く間に爆炎の塊と化し、周囲を炎の網で包囲した。慌てて逃げ惑う馬により制御を失った荷台は投げ出され、そこから動き出す影は1つも無かった。

「ふむ。では説明しよう。論点は1つである。我輩はもとより、我が主は諸君らに用はない。端的に言おう。そこにいる、金蛇屋藤兵衛という商人を引き渡せ。そうすれば諸君らは昨日と同じ朝を迎えられる。理解出来たかね?」

 燃え盛る炎を背景に照らされた、リースの美しい横顔がみるみると曇っていった。スルトは腕組みをしたまま、油断も傲慢も欠片も見せずに、ただ沈黙の中で彼女の答えを待っていた。

「……できるわけないでしょ。あんたナメすぎよ。あたしがそんな駆け引きに乗ると思う?」

「ワハハハハ! 確かにそうかもしれぬな。我輩に貴公を侮辱する気はない。だが……仮に貴公がそうであっても、他の2人はどうかな? 超常の戦に巻き込まれた揚げ苦に、無為に殺されていく民間人。我輩なら気の毒で見ていられんな」

 気を失い御者台から顔だけを出したココノラを、怯え切って荷台で震えるビッツの姿を見て、リースの中に一瞬だけ迷いが過ぎり、ほんの僅かだけ目を閉じた。だが彼女はすぐに顔を上げて、彼を睨み付けて言葉を叩き付けた。

「カタギを盾にするとはね。ずいぶんセコいマネしてくれるじゃない。それが神の一族とやらのやることかしら」

「来れば死、去れば生。“全ては簡潔に”、我輩の信条だ。更に我が主から、貴公への直接の条件がある。謹んで聞いて頂きたい。『ここで自らその男を差し出せば、シャガール家の復興を約束しよう。ミカエル=ハイドウォーク』 理解出来たか? リース=シャガールよ」

「!? な、なんでその名を?! そんなこと……出来るわけないじゃない! 冗談なら大概に……」

「我輩の主ならば可能だ。彼には北大陸との繋がりがある。それに……貴公が求めるもの。貴家が没落する契機となり、御父上が金と引き換えに世に放ち、恐らくは貴公が命を賭してでも奪い返したい“例の物”。あれは我輩の主の目的とも合致する。我らの利益は一致しているのだ。理解出来たか?」

「……!!」

 自信満々に放たれたその言葉に、初めてリースの顔色が明白に変化した。目に見えて彼女の中に迷いが生じ、即答出来ずに逡巡する彼女の背には、どこか弱々しい少女の影が浮かび上がっていた。


 一方、力車の中。

 少年ビッツは外の異変に心底恐怖して、荷台の片隅で鼠のように震えていた。涙がとめどなく流れ、嗚咽が止まらない。少年は、溢れ返り暴発しそうになる自分の感情を向ける先を持たず、ただ泣き叫ぶことで逃避しようとしていた。

 だが、その時……少年は気づいた。荷台の対角線上で蹲る老人、金蛇屋藤兵衛の手が小刻みに震えていることに。そして、直感的に気付く。彼が懸命に、今の彼なりに戦おうとしていることに。

 気付けば震えは止まっていた。少年は老人の側に身を寄せると、涙を啜りながら懇願するように言った。

「藤兵衛さん。あの時の約束……覚えてる? おいらも、天国のとうちゃんも、みんな藤兵衛さんから受けた恩は忘れてねえからさ」


 8年前。飛石の迷宮、雲上の神都を見上げる丘。

 息を切らせて駆け上がる少年の顔には、歓喜と興奮がたっぷりと浮かんでいた。

「見て! とうさん! あったよ! ほんとうにあった!」

 ヒゲを蓄えた中年の男、ビッツの父親であるレグノア=プーコは、それを聞くと嬉しそうに微笑みつつも、目の前に広がる風景に唖然として呟いた。

「おお……これが現実の光景なのか。言い伝えは本当だったんだ。よく見ておきなさい、ビッツ。あれこそがお前のおじいさんのおじいさん、さらにその何代も前のエスメラルダ=プーコが見た、神の都パルポンカンだよ」

「…ほんとうにすげえや。まるで夢みたいだ」

「はは。私も信じられないよ。これも全ては藤兵衛さんのおかげだ。誰もが疑う私の言葉を信じてくれて、先祖の意思に命まで懸けて頂いた。本当に感謝いたします」

 深々と頭を下げるレグノア、少し遅れて続いたビッツ親子に、オウリュウ国の大商人金蛇屋藤兵衛は、悠然とキセルをふかしながら上機嫌に答えた。

「グワッハッハッハ! もっと褒めるがよい。最初からピンと来ておったのじゃ。スザク国の歴史、文化、風土、伝承を全て紐解けば、帰納的にこの場所に到達せざるを得んからのう。ジョフウの調査からも明らかじゃて。じゃが……宝を目の前にしてみすみす引き返せざるを得んとは、この金蛇屋藤兵衛一生の不覚じゃて」

「誠に申し訳ありません。まさか秘伝書に抜けがあるとは。あと数手で辿り着けたものを。直々にここまでご足労頂いたのに……」

「詫びなど要らぬ。全ては儂の確認不足と、詰めの甘さ故じゃからの。……この神字の羅列、何の意味もないとは思えぬな。儂には読めぬが、必ずや意味を見いだせる者があろうて」

「今判明しているF、A、L、G、A、B、Iの7文字から、残りの2箇所を推測する。容易ではないでしょうが、私も文献を漁ってみます」

「レグノアよ。儂は必ずここに戻って来るぞ。その暁にはまた案内を頼むぞい。何としてでも神の都を制し、全ての財宝を手にしようではないか」

「ははは。流石はオウリュウ国一の大商人ですな。喜んで、と言いたいところですが、私の命はそこまで保ちそうもありません。ま、今まで無茶をして来たツケというやつですな」

「……そうか。ならば何も言うまい。じゃが、その時はお主の息子が居るではないか。のう、ビッツや」

 少年はその言葉を聞いて、天にも登るような面持ちで2人を振り返った。

「うん! おいらやるよ! 必ず藤兵衛さんをまたここに連れて来る。だから……その時はおいらも神都に連れてってくれよ! 世界一のお宝をこの目で見たいんだ!」

「これこれ、ビッツ。最初の約束通り、財宝は藤兵衛さんのものだ。私たちは名誉さえあればそれで十分。それを弁えてだな……」

「ホッホッホ。よいよい。欲を隠さぬ者の方が信ずるに足るものよ。その代わり、ビッツよ。儂との約束じゃ。儂は必ず、神都へと至る最後の欠片を探してみせる。お主は儂がこの地に再び現れるまで、この事実を誰にも言うでないぞ。例え誰に馬鹿にされても、阿呆と罵られてもじゃ。男と男の約束……いや、これは『契約』じゃ。お主に守れるか?」

「もちろんだよ! おいら、藤兵衛さんとその仲間以外には絶対誰にも喋らない! だから藤兵衛さんも約束して。必ずおいらもパルポンカンに連れてってね」

「ビッツよ、儂を誰と心得るか? この世界の支配者にして、この世の富を喰らい尽くす大陸一の大商人、金蛇屋藤兵衛その人ぞ! 儂の約束は世界の法に匹敵するわ。大船に乗ったつもりでおるがよいぞ。ケヒョーッヒョッヒョッヒョ!!」

 口と鼻から紫煙を吹き出しながら、高笑いをする藤兵衛。そんな彼を笑顔で見つめるレグノアとビッツ親子。空は呆れるほど澄み渡り、雲を引くように時鳥がふわりと飛び去っていった。


 そして、現在。

 燃え盛る大地の上で立ち往生する力車の中にいる2人は、未だ再会を果たしていない。ビッツは涙で腫れた目を大きく見開いて、物言わぬ藤兵衛の頬を大きく張った。パン、と乾いた音を立てて吹き飛ぶ彼に向けて、ビッツはそのままの姿勢で息を大きく吸い込むと、魂から振り絞ったような大声で叫んだ。

「嘘つき!」

その声は外にまで届いていた。敵と向き合うリースは、否が応でも耳に飛び込む罵声にくっと眉を顰めた。

「嘘つき! 嘘つき! 嘘つき嘘つき嘘つき!! 藤兵衛さん言ったじゃないか! 必ずおいらをパルポンカンに連れて行くって。おいらが約束を守れば、絶対にそっちも守ってくれるって。そんなの……ぜんぶ嘘じゃないか! おいらは約束を守ったんだぞ! 父ちゃんが死んで、何もなくなって、それでも誰にも言わなかった。なのに……なんで! なんでだよ! 商人は契約を守るんじゃなかったのかよ! あんたは大陸一の大商人じゃなかったのかよ! ……なんでだよ!」

 海の底に届く程の深い深い沈黙。悲痛に下を向くリースに対し、スルトは嘲笑気味の苦笑を浮かべた。

「……だ、そうだ。やはり我が主が目の敵にするだけあり、不誠実極まる人物のようだな。さ、そろそろ結論を頂こうか。簡潔に言おう。リース=シャガールよ。我輩にそのクズを差し出せ」

「あたしは………」

 その時だった。不意に、燃え盛るスルトの剣が彼の目の前から消滅した。“それ”は同時に起こった。荷馬車周辺の炎も全て一瞬で消え失せ、彼の頭上にそれらが一気に降り注いだのだ。

「……な!」

 完全に不意を突かれ、スルト達は絶句した。凄まじい炎の勢いと絶妙なタイミングにより、彼らは纏めて爆炎に包まれていった。リースは一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに理解してにっと口元を歪めた。

(……そうよね。蛇みたいなしつこさと不死身が売りのあんたが、このまま終わるわけないわよね)

 リースの視線の先、崩れかけた荷馬車の中では、彼女の思いに呼応するように、金蛇屋藤兵衛の皮肉の笑みが映っていた。

「……何じゃ。これしきか。儂の最後っ屁も落ちたものよのう」

「藤兵衛さん! 正気に戻ったのか! よかったよう! おいら……」

「ええい! 耳元で騒ぐでない! 窮地には変わらんわ。すぐに馬を出せい、ココノラ! 女狐ならば必ず追い付く筈じゃ!」

 迅速に指示を出す藤兵衛。彼らの瞳に力が宿り、胸に宿る賢者の石が再起動した。彼の体内から無数の闇人形が産み出され、瞬く間に各所を支えて荷馬車を立て直した。ココノラはそれを見てにっと大きく笑うと、逃げ惑う馬をどうにか鎮めて手綱を巻いた。

「旦那様、がってんでさあ! すぐに出発するでげすよ。ビッツと一緒に掴まっててくだせえ!」

 ココノラは手慣れた手つきで馬を繋ぐと、そのまま一気に下界まで走らせようとした。リースもそれに続くべく駆け寄ろうとした。だが!

「グェポ!!」

「な、何が起こったの!? クソ狸! しっかりしなさいよ!」

 絶望的に深い闇が、荷馬車の中で膨れ上がった。呪いの如き闇の鼓動が、藤兵衛の全身を内側から貫いていった。気を失い床に倒れこむ藤兵衛に、ビッツは泣き叫びながら駆け寄った。

「ああ! 俺が無理させたから……藤兵衛さん、しっかりしてえぇぇ!」

 その時、スルトは不敵に微笑みながら、紅蓮の炎の中から悠然と登場した。髑髏の甲冑の隙間から地獄の火炎を放ち、絶望的な力を形取りながら、眼下の光景を見た彼は愉快そうに大声で笑った。

「ワハハハハ! まさか主の呪いから一時でも逃れるとはな。流石は大陸一の商人などと嘯くだけのことはあるが、老いた貴公には反動も大きかったと見える。全ては終わりのようだな」

 笑い続けるスルト。戸惑い足を止めようとするココノラ。だが、必死の形相でそれを制したのは……リース=シャガールだった。

「早く行きなさい! 逃げて! ここはあたしがなんとかするわ!」

「ち、ちょっとリースさん! 幾ら何でもそりゃ無茶ってもんでげす! あの男は正真正銘の化け物で……」

「いいから行きなさい! あんたしか頼める人いないの! 必ずそのゴミ男を助けなさい! こいつがいりゃなんとでもなるわ! 早く!」

 ココノラはリースと一瞬だけしっかりと目を合わせた。真っ直ぐに、芯から。そして、彼は小さく決意を込めて頷くと、そのまま力車を進めた。

「……リースさん。あっしにお任せあれ。さ、行くでげすよ! 最高速で下界まで一直線に!」

「ほ、本気かよココノラさん! お姉ちゃんを見捨てるのかよ! このひとでなし!」

 彼はビッツの怒りの声には答えようとしなかった。答える術を持たなかった。何故なら、彼は知っていたから。あの眼をした者が、この先にどんな運命を辿るのか。自分には、あの眼をすることは生涯できないだろうから。自らの命を捨て、何かのために殉ずるあの眼を。

 スルトはその光景を見ながら片手で顎を撫でると、もう片方の手で炎の剣を形成した。が、それが発動する前に、リースが放った符が剣を粉砕した。

「成る程。それが貴公の決断と。簡潔で良い。友情に殉ずるとは美しい話だが、個人的には利口な選択とは思えぬな」

「べつにそんなんじゃないわ。あんたみたいな男、あたし大っ嫌いなの。暑っ苦しいのも、ムキムキも好みじゃないしね。ただそれだけよ」

 リースは両手を手の平を上に上げて、呆れたように皮肉に笑った。スルトは愉快そうに大笑いすると、全身から炎を湧き出して明確に狙いを彼女に据えた。

「ワハハハハ! 簡潔でよいな。実に滑稽な話だ。我輩は武人、とんとそういう事には疎くて申し訳ない。自信か諦念かは知らんが、すぐにそれが過信であることを教えてくれようぞ」

 燃え盛る漆黒の闇、黄金の髑髏が顎を鳴らしてけたたましく笑う中、リースは澄み切った眼のまま静かに微笑んだ。

(あーあ。カッコつけちゃった。どうやら……あたしはここまでね。パパ、ごめんね。あたしはさ……結局こういう女みたい)


 人知れぬ天空漂う戦場にて、墓標となるは名もなき巨石のみ。紅蓮の闇の渦に向かい、リースの全てを賭けた孤独な戦いが始まった。

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