第59話「レイーあるいは、かつてそう呼ばれし乾いた魂ー②」
かつてレイと呼ばれたものの精神世界。目まぐるしく変わる場面。
暗い地下深く。日の光も射さないじめじめした牢獄。その中に1人の女性がいた。透き通るような白い肌と、漆黒の長い髪、そして思わず見惚れてしまうほどの美しい容貌の少女だった。彼女は手元の書物をパラパラとめくりながら複数の術式を瞬時に組み上げ、それを牢の壁に向けて発動させた。術式が妖しい光と共にボロボロと崩れ落ちると、炎の塊、風の渦、稲妻の閃光が一度に巻き起こり、壁を深く抉り取った。だが彼女はそんな奇跡に対しても無表情を保ちつつ、ちらりと鉄格子に視線を向けると、また本のページに目を落とした。
「流石はミカエル様の妹君ですね。素晴らしいお手前で」
不意に暗い室内に少女の声が響いた。黒髪の少女、シャーロット=ハイドウォークは、声の方向に不思議そうに顔を向けた。
「はて。どなたでしょうか? ここは私のお家です。迷子なのでしたら、ここを真っ直ぐに進めばお屋敷に出ることができますよ」
「いいえ。ボクの名はセロ。シャーロット様の従者となるよう、ミカエル様から命令を受けました。今後は細かいことは全てボクが引き受けますから」
短い亜麻色の髪のボーイッシュな少女は礼儀正しく跪くと、鉄格子越しにシャーロットに話しかけた。時間をかけてその言葉の意味を飲み込んでから、彼女は嬉しそうにその場で立ち上がった。
「そうなのですか! よろしくお願いします、セロ。従者というのはよく分かりませんが、私と友達になってくれるのですね?」
「いいえ、シャーロット様。ボクはあくまでも従者です。不必要な接触は控えるよう命令されていますから。ただし、命をかけてあなたをお守りしますので、その点はどうぞご安心を」
「そう……なのですか? 友達ではないのですか。寂しいです」
「ミカエル様のご命令ですので。すぐ外で待機しておりますから、何かありましたら声をかけて下さい。食事でも遊具でも何でも調達致します」
「……はい。分かりました」
それからのセロの働きは、完璧と呼んで差し支えないものであった。牢獄のすぐ外に待機し、日常の仕事をテキパキとこなしていった。片付け、料理、掃除、洗濯。数年に渡る教育で鍛え上げられた動きは、一切の無駄もない上に細かい所にも気が周った。
だが、当のシャーロットはどこか不満そうにそれを見つめているだけだった。彼女が求めているものはそんなことではなかった。しかし、それは誰の耳にも届かぬ思いだった。
「一通り終了致しました。ではボクは所用のため失礼致します」
「……」
「眠っておられるのか。……“出来損ない”の分際でいい気なものだ。ミカエル様はなぜ……こうまでして呪われた妹君を気にかけるのか」
セロは忌々しそうに言い残し、その場を後にした。暗く湿った牢獄の中の闇の色が更に濃くなったことに、その時の彼女はまだ気付いてはいなかった。
場面は目まぐるしく変わり、夕刻になった。
裏庭で激しく拳を合わせる老闘士ガンジと1人の女。彼女は大柄で傷だらけの身体を汗だくにしながら、短く刈り込んだ銀髪を揺らしていた。稽古が続くにつれ美しい貌が痛みと衝撃で歪み、彼女は血反吐を吐きながらその場に膝を付いた。
「……駄目じゃ駄目じゃ! そんなんなあ眷属には通用せんわあ。もっと闘気を拳に込めえ!」
「うるせえ! んなこたわかってら!」
「ならやってみせい。セロの憑代でしかないゴミ人形の分際で、偉そうに囀るでないわあ!」
「うるせえ! こうかよ……『滅閃』!!」
彼女は必死に拳に闘気を込め、弾けとばん程に振り抜いた。反動でぐしゃぐしゃになった拳から小規模の衝撃波が舞い、ガンジの胸元目掛けて飛んでいった。だがそれは彼に指一本で容易に弾かれて、みるみる見当違いの方向へ飛んでいった。
「ヌルい。ヌルすぎるわあ。いいか、よく聞けい。おどれはそのセロの体と、シャーロットを守る義務があるのじゃ。その為にゃ只の力じゃ足りん。ワシに代わるくらいの武技を身に付けてみせえ!」
「うるせえクソが! エラそうに抜かしてんじゃ……グォオオオ!!」
ふらつく彼女の腹部に、ガンジの拳が深々と突き刺さった。反吐を吐いてのたうち回る彼女を見て、彼は心底不快そうに地面に唾を吐いた。
「ったく、ミカエルめ。こんな穢れた生き物に技を教え込む、ワシの身にもなって欲しいもんじゃあ。さっさと再生してセロに“渡せ”い」
「……ざけんなクソが! 俺は必ずてめえをブチ殺してやる! 覚えてやがれ!」
「じゃかあしい! 『蓮花』!!」
今度は拳が彼女の正中線に突き刺さった。もんどりうって気を失う姿に目もくれず、ガンジは手を拭きながらその場を立ち去った。
「ちくしょう。絶対にいつか……」
記憶はそこで途切れた。呆れるほど良く晴れた空が、嘲笑うように彼女を見下ろしていた。
夜になって。
シャーロットが目を覚ますと、牢の外にいたはいつもの執事セロではなく、1人の大柄な女性だった。彼女はどっかりと座り込み、傷だらけの体をさすりながら、短い銀髪を掻き乱しつつ欠伸を1つした。
「おや、今日は違う方ですね。初めまして。私はシャーロットと申します。貴方のお名前は?」
「……あ? 俺か? 俺に名前なんざねえよ。テキトーでいいぜ。俺はお前さんを守りに来たんだ。夜は野良眷属の動きが激しいからよ、そいつらを夜通しブチ殺すように言われてる。ま、いろんなこたあセロに任せて、俺のこたあそこらの石コロみてえに思ってくれや」
「……」
「ん? なんか不服か? まあ無理もねえよな。こんなわけのわからんモンに来られてもよ。でも俺は、お前さんのことに踏み込んだりしねえから安心してくれ。俺はなんの希望も意思もねえ、ほんとどうでもいい存在だからよ」
「………」
(無視、か。まあしゃあねえわな。俺は俺のやることを……)
頭を掻きながらくるりと振り返った彼女に、不意にシャーロットの嬉しそうな声が降り注いだ。
「やっと決まりました! 『レイ』というのはどうでしょうか?」
「……は? どうって、なにがよ?」
満面の笑みを浮かべるシャーロットに対し、ぽかんと口を開けて彼女は尋ねた。
「勿論、貴女のお名前です! 名前がないと仰るので、私が付けてみました。気に入って頂けるといいのですけど」
「俺の……名前だあ!? ま、まさかずっとそんなのを考えてたやがったのか?」
「ええ。せっかく私の側にいて頂けるのですから、お名前くらいはありませんと。先程貴女は、自分には何もないとおっしゃいましたね。この『レイ』というのは、かつての神々の言葉で、何もない空間のことを差す言葉だそうです。でもそれと同時に、天から射し込める光のことも意味するとか」
「……」
「貴女は今は何もないかもしれません。ですが、いつかきっと意味のあることを成し遂げる筈です。私には分かります。私の勘は外れたことがありません。ですから、そういう意味を込めて付けてみたのですが……いかがでしょうか? 気に入らなかったら考え直しますが」
「……あ、ああ。好きにしてかまわねえぜ。……いい名前じゃねえか。俺にゃもったいねえくれえだよ」
「ふふ。よかったです! 私は貴女のことが大好きですよ、レイ!」
「な、なんだよいきなり! へへ。あんたはやっぱ噂通りの変わりモンだな。参ったぜこりゃ」
ゆっくりと微笑みながら語るシャーロットに、暫し考え込み、やがて弾けるように笑った……レイ。彼女が生を受けてから、意識と呼ばれる概念が芽生えてから15年程度。その間でこんなに笑ったのは初めてのことだった。レイはむくれた表情をするシャーロットに気付くと笑いを抑え、ぺこりと頭を下げながら言った。
「いや、悪い悪い。そういう意味じゃねえんだ。まさかそんなことを言われるなんて思わなくてさ。しかしレイ……か。ありがたくもらっとくぜ。へへ、悪くねえ気分だな」
「そうですか! ならば私たちはもう友達ですね! ドニに続いて2人目の友達です!」
「い、いや。そういうんじゃなくてよ、俺は……」
「ああ、今日は何ていい日なのでしょう。こんな私に友達まで出来るなんて! 今日は私が手料理を振舞いますから期待して下さい。ほっぺたが落ちても知りませんよ」
レイが答える間も無く、牢獄の奥の自室に行って何やらと始めたシャーロット。彼女はやれやれと頭を掻きながら、それでも思わず口をにやけさせてしまう自分に気付いていた。
(友達……ね。そうか。俺は……今日という日の為に生まれてきたのかもしれねえな)
レイの記憶は、正確にはこの時点から始まっていた。只の形なき眷属としての生から、1人のレイという人格に。暖かな記憶の奔流が空間を満たしていった。セロとしての無機質な記憶、レイとしての親密で豊潤な日々、そしてシャーロットとの深まる関係。あっという間に過ぎ去る年月。
それらの流れを一瞬で体感した亜門。あまりの速さと情報量に整理が付かぬ部分が殆どだったが、ようやく口から出たのは、当然とも言える疑問だった。
「つまりレイ殿は……眷属? セロの身体に取り憑いた闇の存在。そう考えるべきなのでしょうか?」
《ふうむ。それが常道であろうな。だが我の勘では……何かが乱れている。何らかの意思が介在しているように、どうしてもそう思える。この先の記憶に全ては隠されておろう》
「ええ。何やら剣呑な気配を感じまする。果たしてこの先にあるものは、希望と呼べるものなのでしょうか?」
《世界は大河のように揺れ、騒めいておる。我も驚きを隠しきれん。この先の記憶には我も些か興味がある。世界の変貌の鍵、あるいは答えとなり得る形が含まれているかもしれん。怖いのは我も変わらん。ただ断言できるのは、進まねばこいつは救えん。ならば貴様はどうするか……答えは一つであろう?》
「御意。無論、行くしかないでござるな」
流れ続ける記憶の渦。ちっぽけな牢獄越しに笑い合うシャーロットとレイ。ミカエルの前に恭しく跪くセロ。全ては組み上がっていた。何一つ矛盾なく、ただそのままに。
精神世界を飲み込む渦が、漸く収まりつつあった。
その中央に位置する漆黒の特異点には、あらゆる記憶が高密度に飲み込まれていった。その場所は、通常の記憶ではなかった。あらゆるものが色を失い、ただ強力な力で吸い込まれていく、まるで狂人の描く幻。だが確実に存在する、悪夢の具現。
遂にその深淵を覗く亜門たち。それは、今からちょうど10年前の風景。彼の仲間たちの物語の出発点の話。
その日は朝から大嵐だった。西大陸では春先に嵐などそうそう訪れるものではない。人々は神々の思し召しと恐れ慄き、仕事を放り出し家に籠る者が多数だった。
そして、西大陸北西部に位置するハイドウォーク家。禁忌とされ人の寄り付かぬこの場所においては、吹き荒れる嵐は単なる自然現象では決してなかった。
ハイドウォーク家離れ。執事の間。
この家の古くからの重臣たる呪術師バラムと老闘士ガンジは、顔を付き合わせて非常に剣呑な表情を見せていた。いつも冷静なバラムとて内心の焦りを隠し切れず、苛立ち紛れに目の前の机を蹴り倒した。
「ええい! 貴方ほどの方が付いていながら、一体何ということですか! こんな事はあってはならない!」
普段の冷静さからはかけ離れた激昂を見せるバラムに対し、暗い影の中で横たわるガンジ。しっかりとは確認出来なかったが、彼は雨と血でずぶ濡れになりながら、息を荒げて心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「……返す言葉もないわあ。じゃが“アレ”は……ワシの想像を遥かに超えておった。まさか事態がこう動くとはのお」
「……いえ、失礼しました。私としたことが取り乱しました。起こってしまったことは仕方ありません。この先の対処を考えねば。まずは現状を再確認させて下さい」
「ああ。ウリエル様、エレン様共に絶命を確認。親衛隊もワシを残し全滅。当のワシも見ての通りよ」
その時、稲光が空を食い破った。激しく照らされる室内に、左半身を失ったガンジの姿が映し出された。バラムは目を伏せて静かに首を振った。
「……よく分かりました。ではやはり、ミカエルの開いたものとは……」
「間違いないわあ。でなければこの状況に説明がつかんけえ。つまり……全ては最初から仕組まれておったんじゃあ」
「ハイドウォークの継承権は“彼“の手中に抑えられ、この地の戦力は私達だけで頼れる物はなし、と。……成る程。これは完全に詰みですね。彼に従う他に道はないでしょう」
静かに、それでいてありったけの諦念を込めてバラムは吐き捨てた。ガンジは半死半生で呻きながら、残った右手で地面を殴りつけた。
「ぬかったわ。完全に謀られた。全てはワシの不覚じゃあ。許せと言っても許せるものでもないが、どうか勘弁してつかあさい」
「言ったでしょう。今更貴方を責めても何も始まりません。それに、そもそもミカエルを旅出させたのは私の責。私こそ謝らねばなりません」
深々と頭を下げたバラム。軽く頭を下げ壁に寄り掛かり息を整えるガンジ。暫しの間、深い沈黙が室内を包んでいた。だがその時、部屋が慌ただしく叩かれた。
「……来たようじゃあ。やるしかないの」
「ええ。こうする他に手はありません」
「失礼します、セロです。シャーロット様をお連れ致しました」
ドアが開き、2人の女性が入って来た。すらりと伸びた体躯が美しい成長した執事セロと、麗しき美貌の魔女シャーロット=ハイドウォーク。セロはやや蔑んだ目でシャーロットを一瞥してから、2人の方に向き直った。
「火急の用とのことで、命令通り即座に参りました。何故ボクの覚醒時にシャーロット様が“あそこ”にいたかは分かりませんが、何があっても地下牢から出すなとのウリエル様のお達し。これは重大な命令違反では?」
「確かにそうですがね、セロ。今回は本当に深刻な事態なのです。理由を聞けば貴女にも理解してもらえるとは思いますが」
「それは籠絡ですか? 女々しいお話ですね。そのようなお話ならボクは帰らせて頂きます」
「黙って話を聞けい! 今はそんなことを言うとる場合じゃないわ!」
実に珍しくガンジがセロを怒鳴り付けた。その剣幕と、半身を失った彼の姿にセロはビクンと体を震わせた。そこに割って入ったバラムは、努めて冷静に物事を説明し始めた。
「まあまあ。兎に角、今は時間がありませんので掻い摘んでお話します。シャーロットも知ってはいるでしょうが、改めてよく聞いて下さい。本日、ミカエルがハイドウォーク家を乗っ取りました。御当主ウリエル様、奥方エレン様共に逝去。彼は今、継承の儀に入っています。10分もしないうちに私達は彼の手に落ちます」
「……ミ、ミカエル様が?! なんということですか!」
「……」
セロの顔に深い驚愕が走った。だがシャーロットは何も語らず、何の感情も示さず立ち尽くしているだけだった。
「やれやれ。お姫様は現実を受け入れられぬらしいのお。まあ己の目で見てしもうたら、この様子も仕方ないじゃろうて。はっきり言って、今のボンは異常じゃあ。まともな判断は出来んとワシらは判断した。このままではシャーロットにまで危機が及びかねん。とにかく今はお前を逃がすことが最優先じゃあ」
「それは……ミカエル様への背信とも受け取れますが。あの方がやることに間違いはありません」
「ったく、いつになったら目が醒めるんじゃあ! おい、バラムよ。なんとかしてくれえ」
心底呆れ切った顔でガンジは叫んだ。バラムは和かな顔を作り、大仰に腕を広げてそれに応えた。
「いえ、そうはなりませんよ。現時点で彼からの、シャーロット様への指令は何もありません。あくまでも一時的に時と場を空けるだけですから」
「と、とは仰いますが……」
「それにね、セロ。これはミカエルの為でもあるのですよ。今は興奮状態ですから理解していないかもしれませんが、万が一自らの手で妹を傷付けたと知ったら、後に彼はどんなに苦しむと思いますか?」
「た、確かに仰る通りです。ミカエル様は何より……シャーロット様を大事にしておられますから。……うん、そうですね。とにかく今は少しでも離さなければ」
セロは自分に言い聞かせるように何度も繰り返し、その意味を自らの脳に浸透させていった。バラムはローブの奥で不敵に微笑むと、意を決したように重大な言葉を告げた。
「分かってくれればよいのです。さて、その上で貴女に大切な頼みがあるのです、セロ」
「何でしょうか。それがミカエル様の為になるのなら、ボクはどんなことでも致しますが」
「儀式が正式に終われば、この家とそれに連なる全ては、晴れてミカエルのものとなります。そうなると誰もシャーロット様を守れません。以前も言った通り、ハイドウォーク家から『真名』を受け取った我らは、当主に逆らうことは霊的にも物理的にも不可能となります。なので端的に言うと、貴女の存在を『人形』の陰に一時的に移すことにします」
その言葉の意味を理解するにつれ、セロは眉を吊り上げて机を叩いて激昂した。
「し、正気ですか?! あんな野蛮なものがボクの中にいるだけでも怖気立つというのに、要はアレに身体を乗っ取られるということでしょ? そんなこと絶対に……」
「言葉を慎みなさい、セロ。アレはミカエルの命令で、貴女を守る為に中にいるのです。アレがあるからこそ、貴女はここに存在しているのですよ」
「で、でも……そんなの……」
「でももへったくれもないわ! こんなん一時的なもんじゃけえ、いつか必ず元へ戻すから安心せえや」
「ガンジ……ボクは信じますからね。他でもないあなたの言うことですから」
2人の間に視線が交差した。目を細め親愛の潤みを浮かべるガンジと、信頼と不安を半々に混ぜるセロ。その時、巨大な雷が外に落ちた。空は更に荒れ狂い、闇の王の誕生を告げているかの様だった。
「ゴチャゴチャ言ってるヒマはなさそうじゃのお。バラム、頼むわい」
「ええ。では始めましょう。私にお任せあれ、セロ」
バラムは手早く術式を組み、発動と同時にセロの意識は魂の奥底に封印され、代わりに闇に包まれた孤独な魂が表に浮き出てきた。彼女はぼんやりと周囲を見つめ、不思議な光景に眉を顰めた。
「……あ? んだこりゃ? てか……どこだここ?」
バラムとガンジは同時に顔を見合わせた。時間は刻々と過ぎていく。説明の暇はありそうもなかった。
「ああ? 寝起きなんかあ? おどれなぞどうでもいいわ。ともかくシャーロットを連れて今は逃げえ」
「?? なんだこりゃ? ここは……てか、俺は……誰だ?」
「……むう。急ぎ過ぎましたか。急速な魂魄の入滅により、記憶の混在が発生しているのかもしれません。よりによってこんなことになるとは。……おい、人形。後はこちらでなんとかしますから、ともかく今はシャーロット様を連れて逃げなさい」
「うるせえ! なんで俺がそんなこと言われなきゃなんねえんだ! てめえに命令される筋合いはねえぞ」
全く状況を理解せずに怒鳴りまくるその姿を見て、バラムは絶望的に頭を抱えた。ガンジは苛つきを隠し切れず、右拳を握り締めて怒鳴り返した。
「おんどれごときが何を抜かすか! くれてやった『降魔』でさっさと逃げんかい! もう時間が無いんじゃあ!」
「あ? 誰だか知らねえが、やるならやってやんぜ。ナメてんじゃねえぞ!」
「な! ワシのことも……何つう使えぬゴミ屑じゃあ!」
「……はて、どうしたものか。……え? シ、シャーロット?!」
視界は、記憶は薄れていく。術式の発動と共に、2つの意識が混じり合う。最後に映ったのは、シャーロットの美しくも強い意志の込められた顔だった。彼女はゆっくりと口を動かし、一言だけ目の前の女性に告げた。彼女が付けた、とても美しく気高い名前を。
……『レイ』と。
呆然と眺めていた高堂亜門と銀龍ハーシルは、不意に強烈な光の渦に飲み込まれた。視界が失われ、次々と風景画の如く無数の記憶が流れ込んできた。それからの旅の記憶、シャーロットの笑顔、各地を巡る旅、戦いの日々。ぐるぐると回る世界は不安定の度合いを増し、輪郭そのものが朧となっていった。
うねりに飲み込まれ吹き飛ばされそうになったハーシルは、苦悶の表情を見せて立ち尽くす亜門に叫んだ。
《亜門! 限界だ! これ以上は進めん! 戻らねばどうなるか分からんぞ!》
しかし亜門は動じなかった。崩壊しつつある世界の中で、彼は1つの風景を捉えていた。不安定な彼女の記憶の中で、只1つだけ確かなもの。そう、僅かに潤む彼の目の中に、それは確かに存在していた。
「……はっはっは。そうでござるか。レイ殿はそうでなくてはなりませぬな。己も……同じ気持ちにて」
絵が見えた。人が数名。魚料理を口に運び快活に笑う亜門、そんな彼の肩にもたれかかり微笑むリース、キセルをふかしながら酒をかっ喰らう藤兵衛、そして……心底嬉しそうに美しく笑うシャーロット=ハイドウォーク。
彼は静かにその絵に手を伸ばした。指先がすっと飲み込まれると同時に、世界の揺れはピタリと嘘のように止まった。ハーシルが驚きを隠し切れぬ中、周囲の絵画は光の粒子へと変わり、空間中を満たしていった。
そして、渦巻く光の中央に、2つの人影が見えた。遠目からはよく確認出来なかったが、2人は座り込んで何らかの話を繰り返しているようだった。
《……着いたな》
ハーシルの声が漠に響いた。亜門はとても強く一度だけ頷くと、その場所に向けて歩みを進めていった。
辿り着いた先に何が待ち受けているのか、それは亜門には分からなかった。だが彼は信じていた。魂を預けた素晴らしき仲間の力を、気高き精神を、そして……何よりシャーロットとの間の真の絆を。
(必ず……全てを取り戻して見せまする。これ以上何かを失うのは御免にて。レイ殿……御頼み申す!)
大陸暦1279年9月。
レイとセロの存在を賭けた最後の瞬間が、遂に訪れようとしていた。




