第59話「レイーあるいは、かつてそう呼ばれし乾いた魂ー①」
“そこ”にあったのは、街だった。
雑踏賑わう地方都市。人々が行き交う貿易の街。その中央にある奇妙な形をした王宮があった。ピンク色の球形をした、先だけが尖った屋根が特徴的な、煉瓦造りの大きな大きな館。その奥には大きく膨れ上がったお腹を抑え、椅子に寄り掛かる1人の女性がいた。
侍女が甲斐甲斐しく世話をする中、身なりからして王族であろう高貴そうな装いの男が、実に嬉しそうに大きく膨らんだお腹を撫でていた。彼女も嬉しそうにその手に自分の掌を当て、目を合わせて微笑み合っていた。
そんな幸福な場所のど真ん中に、誰にも気付かれることなく高堂亜門と銀龍ハーシルは立っていた。突然目の前に広がった異国の光景に、亜門は目を見開いて慌てふためいた。
「こ、これは?! 一体どこでござるか?」
《落ち着け。単なる心象風景だ。ここは心の中の世界。我らはただの幻影に過ぎん。その証拠に……見てみろ》
ハーシルはその巨大な爪をぶんと宮殿の壁に向けて振り下ろした。だが本来なら容易く粉砕し得る筈の膂力は全く意味を成さずに、空気を穿つが如くするりと抜けていった。
《見ての通りよ。誰も我らには気付くことはなく、何の関与も出来ない。我らはただ、ここであったことを見守るのみだ》
「そ、そういうものにござるか。しかし……生命の誕生とは良きものですな。実に微笑ましい風景でありまする」
亜門がそう言った直後に、宮殿内に一陣の風が巻き起こった。室内にも関わらず天高く渦巻くその風は、周囲の人間を吹き飛ばしつつ、屋根をぶち破って女を運んでいった。
「な、何たること! よもや妊婦に手を掛けるとは……すぐに助けねば!」
即座に亜門は空を飛ぼうとしたが、龍の力はぴくりとも発動せずに、そのまま床に転がってしまった。ハーシルは彼の肩を叩き、穏やかながらも神妙な顔で言った。
《ここでは我らの力は行使できん。あくまでも精神のみの存在なのだ。にしても……少し妙ではあるがな。さて、場面は次に移りそうだぞ。備えよ》
「む、むう。実に歯痒きことにて。……!? 風景が崩れていきまする!」
彼の言う通り、絵画が入れ替わるように突如として場面が移り、次の記憶映像が世界に色を付けた。その刹那、絶望に泣き叫ぶ男の姿がちらりと映り、亜門はくっと歯を噛み締めながら、虚空の彼方へと消えていった。
次の光景は、どことも分からない屋敷の中だった。
赤子2人がすやすやと、大柄な老人の両の手の中で眠りに付いていた。困った顔で抱き抱える彼とは対照的に、イラついてその辺の家具を蹴り倒す若い金髪の男の姿もそこにはあった。
「あーもう、何でうまくいかねーかね! 理論的にはいけると思ったんだけどなー」
端正な顔をした金髪の青年がぶつぶつとぼやく中、老人は細かに左右に赤子を揺らし続けながら、顔を真っ赤にして彼を怒鳴り付けた。
「どうでもいいがの、ボンよ。早く何とかせえ。ワシゃあ赤子の世話なんざやったことないけえ!」
「うっせえ! こっちも必死なんだ! ああ、何でこう上手くいかねーかなあ。女の子なのは分かってたけど、まさか双子とはなー」
「1つでも2つでも関係なかろうが! そもそも両方奪う必要なんぞあったんか? 母親と一緒に1人返してやりゃあよかったんじゃあ」
「きょうだいを別々にしたら可哀想だろ! しかも双子だぞ? ったく、だいたいお前が『王族の方が賢くていい』なんて言うから、こんなハメになったんだよ。責任取れよなー」
「まさか本当にやるとは思いもせんかったんじゃ! シャーロットの従者を作るためだけに、よもや一国の姫を攫うなど正気の沙汰とは思えんわあ!」
「ごちゃごちゃ言うなって。だってあいつが可哀想だろ。あんなところに一人ぼっちで、俺だって月に1回しか会えないんだぞ! ああ、今頃泣いてるんじゃないだろうか。お兄様に会いたい、悲しいって」
「付き合ってられんわ! ……っと! ああ、よしよし。なにも怖くないでちゅよ」
2人の口論に反応し、火の付いたように同時に泣き出す赤子たち。ガンジは強面の顔を必死で崩し、懸命に彼女らをあやし続けていた。
「あーあ。お前のせいだかんな。しばらくお前の役職は『ハイドウォーク家育児担当』な。んじゃ俺忙しいから、さっさと泣き止ませろよー。静かにやんねえと親父にバレちまうからな」
「な、何をぬかしとるんじゃあ! 斯なる上はハニエル様に相談して……お、おい! 泣くでないわ! よしよし、何も怖くないでちゅよ。……おい、誰かミルクを持って来いやあ! ああ、手にクソが……早くオシメも持ってこお! 気が利かんのお!」
幻影の彼方から、この風景をずっと見ていた亜門とハーシル。誘拐という物騒な事態ではありながらも、どこか微笑ましい姿を目にし、亜門は状況を朧げながら理解した。
「なるほど。あの赤子らはガンジ達が攫ったのでござるか。それにしても……あの金髪の男は一体? 軽薄な態度の裏側に、凄まじき闇の圧を感じるでごさる」
《あれこそが……ミカエル=ハイドウォーク。この世界唯一と呼んでもいい神の一族の末裔にして、お前の仲間のシャーロットの双子の兄だ》
「!? あ、あれが己らの敵! むうう……とてもそんな感じには見えませぬ」
《かなり前に、一度だけ目にした事があるが、その時とは大幅に様相が異なっているな。この間に奴に何が起こったのか。あるいは、世界そのものが変容したのか……》
「む! ハーシル殿、また場面が変わりそうですぞ」
再び世界が輪郭から歪み、彼らの姿を飲み込んでいった。蜃気楼のように消えゆく風景の中で、亜門の脳裏にはつんざくような赤子の泣き声と、ガンジの苦い顔が焼き付いて離れなかった。
次の場面。
3歳くらいに成長した少女たちが、庭園で無邪気にガンジにまとわりついていた。楽しそうに笑いながら彼の背に乗り、訳の分からない叫び声を上げていた。
先ほどの風景と大きく違うのは、それを温かい目で見守るガンジ。2人を時折揺さぶったりして楽しませ、彼自身も満更でもない表情で過ごしていた。
そんな、一見すると幸せそうな光景の中に、突然入り込むミカエルの姿。彼は興奮した様子で2人に駆け寄ると、ガンジが止めるのも聞かずに1人の首根っこを掴み奪い取ろうとした。びっくりして泣き叫ぶ彼女と、ぽかんとするもう1人に目もくれず、ミカエルは口早に叫んだ。
「おお、喋ってる喋ってる。そろそろ実験開始出来そうだねー。ちょっと借りてくよ、ガンジ」
「ちと待てい! 流石にまだ無理じゃろうが! たかが3歳児に闇力を注入するなんざ、上手くいくとは到底思えんのお」
「だいじょぶだいじょぶ。失敗したらもう1人いるし、何ならまた攫ってくっからさー」
「そういう問題ではないわあ! ともかくこのガキどもは渡せん! そんな無茶を通したいなら、この場でワシを殺してからにせえや」
「……いい度胸じゃん。いくらでもやってやるけど?」
2人の間に尋常ではない殺気が巻き起こった。術式を構築するミカエルと、拳を唸らせるガンジ。異変を感じて狂ったようにに泣き喚く女児たちと、余りの迫力に恐れ慄く使用人。だが一触即発の事態にするりと割って入ったのは、謎の金髪の男だった。
不思議な男だった。穏やかで知性的な表情を浮かべつつも、その目の奥にはある種の熱狂を秘めていた。長い金髪をどうでも良さそうに乱雑に三つ編みにし、ずれ落ちる寸前の眼鏡を頻繁に手で直していた。明らかに神族の1人であるにも関わらず、派手な装飾品など付けずに無骨な鉄製の指輪を一つだけ嵌めて、シルクにも似たつるつるの肌触りの、上下一体となった銀色の装束をラフに着込んでいた。彼は苦もなく2人の手を掴み攻撃を逸らすと、微笑を浮かべながら手首を握り潰した。
「げっ! じいちゃん! 勘弁してよー。痛ててて」
「ハ、ハニエル様! これはその……」
「はは。2人とも落ち着いてよ。ちゃんと話しなくちゃさ」
「そ、そうは言われましてものお、ボンがいきなり……グオッ!!」
ハニエルと呼ばれた男は、ガンジの返答の途中にも関わらず、微笑を絶やさず彼に顔を寄せると、そのまま手首を切断した。
「ダメだよ。僕の話を聞いてくれないと。ミカエルは次期ハイドウォーク家の当主なんだから、命令には従わないとね。でも……ミカエル。君にも言わなければならない事があるよ」
「え? え? 俺?! 俺は別に……」
「僕はいつも言っているよね。命を粗末にしてはダメだ、と。人は愛で生きているんだと。君の悪い癖だよ。僕ら神族はね、今の時代は陰に潜んで生きる身。その力の大きさゆえに、陰で忍ぶ道を選ばざるを得なかったんだ。他者の命を軽く扱うという事はね、他者の恨みを買って負の連鎖が生まれ、ひいては僕らの生き方を否定することになりかねないよ」
「で、でもさあ……俺はただシャーロットが可哀想でさ。あいついつも一人ぼっちで、誰にも相手にされなくて。おんなじ兄妹なのによ。親父もお袋も無視しろって言うしさ。そんなのってなくね? 俺はせめてあいつに……長年連れ添える従者の1人でも、と思っただけなんだよ」
やや涙目になって必死に訴えるミカエルに、ハニエルは微笑のまま少し屈んで、彼の頭に手を乗せた。
「うん。君の優しい気持ちは知ってるよ。でも、やり方は考えなきゃダメだ。僕の言ってることを理解してくれるかい?」
「……はあ。わかったよ。じいちゃんがそう言うんじゃ仕方ねえや。なんだよ、つまんねえなー」
「まったく……君は昔からワガママな子だよ。まあそこが可愛いんだけどね。じゃあ細かいことは任せたよ、バラム」
ハニエルが振り向いた先には、いつの間にか現れた漆黒のローブ姿の術士の姿があった。骨と皮だけと表現できる程に痩せ細り、顔すら判別できぬ深い闇に包まれた呪術士は、倒れ込むガンジにそっと手を差し伸べつつ、何処か芝居がかった大仰な態度で語り始めた。
「さて、そろそろ宜しいですかな? まず状況を整理しましょう。ミカエルの望みは、シャーロットに従者を付けること。その為に赤子を攫い、ある程度成長したと判断して、闇力を注いで眷属にしようとした。間違いありませんか?」
「そうそう。さっすがバラム。話が早いね。こんな完璧な計画を、なんでかガンジは邪魔すんだよねー」
「何が完璧じゃ! 穴だらけにも程があるわあ!」
血塗れの身体をむくりと起こし、ガンジは残った拳を握り締めて目を怒らせた。バラムはそんな彼の背を軽くポンと叩き、微笑むハニエルの方をちらりと眺めてから、もったいぶるように話を再開した。
「貴方にも確認です、ガンジ。貴方はこの子たちを守りたい。少なくとも安全が担保出来るまでは。そうですね?」
「……概ね間違っとらんわあ。続けえ」
「では、お互いの認識を擦り合わせたところで、1つの歴とした事実があります。この女児らは……間も無く死に至ります」
「え、ええええ!!」
「な、何じゃとおおお!!」
大声で驚き叫ぶ彼らを尻目に、バラムは冷静さを崩さずに、ちらりとハニエルの方を向いた。
「うん。バラムの言う通りだよ。そりゃそうだよね。産まれたばかりの赤ちゃんに、無防護でウチに蔓延する高濃度の闇力を浴びさせたらさ。見た目も動きも変わらないけど、あと1月くらいかな? 間違いなく年は跨げないね」
ハニエルは2人の赤子を抱き抱えてあやしながら、シャツをめくって背筋を見せた。一見すると何の変化も見えなかったが、彼が術で周囲の空間を変化させると、皮膚の奥に溜まった闇が瘤の如く膨れ上がっていた。その異様な姿に思わず口を押さえるガンジに対し、ミカエルは実にあっけらかんと告げた。
「ありゃりゃ。こりゃマズいねー。じゃあこいつら捨てるしかないか」
「馬鹿を言うな! 元はと言えばおどれの責任じゃろうが! 早くなんとかせえ!」
「無理だよこれ。見りゃわかんじゃん。ねえ、バラム?」
彼はへらへらと笑いながら、隣のローブの男の肩にもたれかかった。バラムは目を細め彼女を仔細に観察した後、実に大きなため息をついた。
「仰る通りです。最早手遅れですね。せめてもう少し早く教えてくれれば、こちらも手の打ち様があったのですが」
「そ、そんな……お願いじゃ! バラムよ! この子たちをなんとかしてくれい! ワシの一生の頼みじゃあ!」
深々と頭を下げて救いを乞うガンジの姿を見て、バラムとハニエルはちらりと目を合わせて、口元だけに笑みを浮かべた。そして面倒そうによそ見をするミカエルの耳を掴み上げながら、ハニエルは変わらずの飄々とした態度で告げた。
「うん。いいよ。何とかしてあげよう。彼女らを助けられる秘術が、実は1つだけあるんだ。但し……2人ともは無理だ。1人を犠牲にし、1人を助ける。そう考えて貰って欲しい」
「な……何じゃと!! それはどういう……」
「北大陸の技術の応用です。まず闇に満ちた“素体”に、2人の意識を順に移します。最初の1人は拒絶反応で確実に死ぬでしょう。ただし、その後に出来る僅かな隙間にもう1人を落とし込み、強制的に術で蓋をします。さすれば闇に適応しつつ成長が可能でしょう。まあ正直どうなるかは私にも保証出来ませんが、このまま2人とも死なせるより遥かにましなのでは?」
「お、いいねー。じいちゃんとバラムに任せときゃ安心だよ。な、ガンジ」
「……お任せしますわあ。ワシには何も出来んけえ」
にやにやとミカエルはガンジの顔を覗き込んだが、彼は苦悶の表情で強く強く拳を握るだけだった。だがハニエルは微笑を浮かべたまま彼ににじり寄ると、数センチの距離で目を合わせて、はっきりと脳髄を揺らすように告げた。
「ダメだよ、ガンジ。君が決めるんだ。どちらを殺し、どちらを生かすかをね。君にやって貰わないと困る」
「そ、そんな……ワシにはとても……」
「やるんだ。これはハイドウォーク家の人間としての命令だよ。一番彼女らを知る君が、全てを決めるんだ。中途半端な愛は、時として激毒にもなり得るからね。君の師匠の件を思い出しなよ。何ならくじで決めたって構わない。君がやらないのなら、2人は揃ってここで死ぬだけさ」
「!! わ、ワシゃあ……そんなこと………」
その時、ハニエルに抱えられた方ではない、辺りで遊んでいたもう片方の女児が、訳も分からず楽しそうにガンジの背に飛び乗ろうとした。だが彼は反射的に、全く意識せずにその手を払いのけた。その瞬間、彼は悟った。ハニエルの顔に凄まじい笑みが浮かんだことに。臓腑から滲むような汗を感じ、慌てて何かを告げようとした彼には、一瞬で構築された術式の拘束が降りかかっていた。
「はは。決まりだね。大役ご苦労様、ガンジ。君は少しそこで休んでいなさい。行くよ、バラム。2人を運んで来なさい」
「は。畏まりました。貴方も部屋にお戻りなさい、ミカエル」
「……そうだねー。じゃ、あとよろしく」
亜門は一連の遣り取りを、悲痛な面持ちで眺めるしか出来なかった。何か言いたげな表情を察し、ハーシルは彼の肩に手を置いた。
「なんという……ことでござるか。ではこの女児がレイ殿でありまするか」
《……いや。それだけではここまで拗れはせん。何か他に、核となる部分があるはずだ。にしても……この件にはハニエルが絡んでいるのか。相変わらず飄々として底の知れん男だ》
ハーシルは懐かしき思いを噛みしめるように、目を細めて彼の後ろ姿を見送っていた。
「はて。魔女めの祖父殿でござるな。ハーシル殿は彼をご存知で?」
《かつての大戦の時にな。奴の裏工作により神々の兵器は無力化され、アガナ様は勝利を掴むことが出来た。奴の参戦は遅く終戦間際で、純粋に仲間とは呼べぬかもしれんが、我らにとって重要な協力者であったことは間違いない》
「そうでござったか! いやはや、思いもよらぬ方々が関わっておられるのですな。後ほどゆっくりお話を伺いとうござるよ」
《……そうだな。いつか語らねばなるまい。恐らく全ては……繋がっているからな。ともかく今は次に進むぞ。亜門よ、現実から目を逸らすな。これは貴様が望んだことなのだ。どんな結末であっても覚悟して見届けろ》
「委細承知。では……先へ!」
再び場面はぐにゃりと変わり始めた。亜門は女児たちの無邪気な表情と、ガンジの悲痛な表情を交互に眺め、そこに込められたレイの痕跡を探した。だがそこに、彼が知る筈のレイの要素は欠片も存在しなかった。彼が手を伸ばした先は、深い闇の端に浸るだけであった。




