第55話「Crime of the Heart」
東大陸最南端の国、スザク。
常時うだるような熱風が吹き荒び、野生の動物や大小様々な虫たちが跳梁跋扈する密林の国。そんな人の手の入らぬ国の中を走る、まともに整備されていない道無き道を、一台の上等な荷馬車が走っていた。馬は日々変動する気候と、虫を介して体内に入り込む複数の病原菌により疲弊しきり、必死で鞭を振るう商人ココノラの指示にも反応しきれていなかった。
「リースさん! ダメでげす! 追い付かれやす!」
彼はちらりと後方を振り返り、必死の形相で怒鳴った。背後から近付く追跡者は足を緩めることなく、複数でこちらに確実に近付きつつあった。
「もうちょっと! あと10秒だけなんとかして!」
荷台の上に乗った術士リースも、焦りと苛立ちを込めた怒声で返した。彼女の体の周囲には複数の符が舞い、光の術の発動を待っていた。が、その時荷馬車に衝撃。追跡者の放った石矢が、馬の頭部を捉えて即死させたのだ。バランスを失って森に突っ込む荷馬車。そこに歓喜の声で襲い掛かる追跡者達。
「ヒャッハー! 若い女だ!」
「俺が先だ! 俺が仕留めたんだ!」
「男は内臓抉って干し肉だ!」
露出度の高いボロボロの衣服を粗雑に纏い、痩せこけた馬にまたがる彼らは、正気を失った視線で荷馬車を捉えていた。武器を手に口々に叫ぶ男達を前にして、リースは倒れ込んだまま怯えきった表情で言った。
「ええぇぇ! どうか助けてくださぁい! わたしぃ、この辺のことなんにも知らなくってぇ……」
「知らねえじゃ通んねえぜ! ここは俺たちグリンダ一味の縄張りだ。パゾルんとこに盗られる前にヤっちまおうぜ」
「心配しねえでも、おめえは殺さねえよ。殺すよりひでえことはたっぷりやっちまうけどな! げっヘッヘッヘ!!」
「なあに、慣れちまえば楽しいもんだぜ。みんな手慣れたもんだからよ」
「……あっそ。じゃここで死んで。アガナ神教第一教典『アリエル』!!」
ぶっきらぼうな言葉と共に、リースの手から不思議な円形の光を放たれた。突然の出来事に身構えて警戒する追跡者達だったが、数秒経過してもその場には何も起こらなかった。彼らは互いに顔を見合わせると、下卑た笑いを浮かべてリースたちを取り囲んだ。
「へへ。お嬢ちゃん、手品は終わりかい? とんだ茶番だったみたいだなあ」
「……忠告しとくわ。すぐに逃げた方がいいわよ」
「なに言ってやがるんだ? 恐怖で頭おかしくなっちまったか? 心配しなくてもすぐに気持ち良……!!」
彼らの目前で、一人の男の頭が石榴のようにぐちゃりと押し潰された。慌てて周囲を見渡すと、包囲されていたのは彼らの方だった。そう、そこにいたのは無数の密林の猛獣達。その目は一様に赤く染まり、通常では考えられぬ敵意に満ちて、山賊達のみを睨みつけていた。
「はい。じゃみんなやっちゃって。あ、そこのお馬さんだけ借りるわ。後はお好きに。行くわよココノラ!」
「へ、へい! んじゃまあ、皆様方に幸運のあらんことを願ってやす」
「ち、ちょっと待っ……ぐわあああああ!!!」
彼らの絶叫が耳の端に残る中、リースたちは振り返りもせずに先を急いでいた。スザク国に入って1週間程度にも関わらず、馬を換えるのも早数回目。彼女はこの国がどういうところかを、嫌という程に理解し始めていた。
「……ねえ。怪我してたら治すわよ」
擦り傷だらけのココノラに、リースは素っ気ない態度で話し掛けた。彼はビクビクと震えながらも、必死に馬に鞭を振るいながら虚勢を張った。
「な、なあに。この程度日常茶飯でさあ。し、しかしここ最近、ちょっと敵が多すぎやしませんかね?」
「そうなの? あたしよく知らないから、こんなもんだと勝手に思ってたわ。でもクソ狸が言ってた、例のプーコランドってのはそろそろなんでしょ? 今まで人の住処はぽつぽつあったけど、集落の1つも見えてないから心配しちゃったわ」
「へえ。プーコランドは、だだっ広いスザクのほぼ中央に位置してやす。このペースですと……あと2週間もあれば着くとは思いやすがね。あと、念の為申しておきやすが、この国にまともな集落なんざございやせん。辛うじて集落と呼べるのは各所の軍の駐屯地と、プーコランドくらいのものでして」
「な、なにそれ! じゃあ、いつになったらお風呂入れるの?! あんたあと数日でゆっくりできるって言ったじゃない!」
「そ、それはリースさんを元気付けるための……物の弾みというやつでして、へえ」
「……あんた、あたしに嘘ついたのね。ずいぶんとナメたことしてくれるじゃない」
「い、いや。そりゃ誤解ですぜ。ナントカも方便というやつで……あ! 思い出しやした。この辺に川がありやす。ちとばかり色が鮮やかで、鰐やら毒魚やら虫やらの先客はありやすが、水であることは間違いなく……」
「もういい! 今は許してあげるけど、全部終わったらあんた覚えてらっしゃい! 猛獣の檻にぶち込んでやるんだから!」
再び震え上がるココノラを横目に、リースは疲れ果てた顔で巻きタバコに火を付けた。疲労は目に見えて溜まっていたが、それでも彼女の胸には不思議な熱を帯びたままだった。貪るように灯りに集まる虫を無表情で払いのけながら、彼女は心の中で深く熱く誓った。
(……待っててね、シャルちゃん。絶対にあたしが助けてあげるから!)
夜も更けて。
リースたちは山地を背にして草で庵を作り、火を焚きながら夜が終わるのを待ち続けていた。火の番をするのは基本的にリースが請け負い、ココノラは次の日の荷馬車の操縦に備えて休息を取っていた。いかに訓練された彼女とは言え、日々の疲れからか何度も眠りに落ちそうになったが、脅威的な精神力でそれに耐え続けていた。とはいえ、こんな生活が長くは続かないのは明白だった。日中は荷台で休めるとはいえ、突発的な賊や猛獣達の襲撃に対応しなければならない。
だがリースは頬を自ら張って喝を入れた。弱気こそが任務完遂の一番の敵であることは、かつての経験から身に染みて分かっていた。今はただ、やるべきことをやるのみ。彼女はふと、荷馬車の中で呑気に寝息を立てる藤兵衛に向け、ため息混じりに呟いた。
「……ふう。早くなんとかしなさいよ。こういう時にだけ役に立つのがあんたでしょ?」
その言葉は密林に隠された小さな空に飲み込まれ、ゆっくりと消えていった。だがその時に気配。誰かが背後から近付く気配。いや、これは紛れも無く人ではない。空間内に僅かな闇の力が沸き起こるのを感じ、リースは目に力を込めた。
(おかしいわね。シャルちゃんがいないから、そう簡単に眷属は寄ってこないはず。でも……これは確実に闇の気配だわ。……ええい、考えても仕方ないわ! 来るなら来なさい! このあたしが相手をしてあげる!)
身体にへばり付く疲労を一気に振り切って、リースは即座に覚悟を決めて符術を形成し始めた。だが、そんなリースに向けて、闇の塊は慌てふためくように急いで形を作っていった。“それ”はいつのまにか、彼女が見たことのある若い男の姿を取り、垂れた目で下卑た笑みを浮かべていた。そう、その姿は……大陸一の商人、金蛇屋藤兵衛! だが……実に小型! 手のひらサイズ!
「止めい女狐! 儂じゃ! 早くそれを引っ込めよ! 今の儂では瞬時に消滅してしまうわい」
「あ、あんた! 本当にあんたなの? なによその体?! 元々理解不能なクソだけど、何もかもが意味わかんないわ」
「ふん! こっちも必死なのじゃ! “本体”はあの調子じゃし、正気の時に作っておいた『闇人形』が、よもやこんな形で役に立つとはの」
「これ、あんたの新しい能力? しかしよくできてるわね。……えい!」
「や、やめい! 突っつくでないわ! 痛いではないか!」
「へへ。ちっちゃくて可愛い。ほれ、ほれ、ジャンプしてみてよ」
「ええい、届かぬわ! この女狐め! 早く本題に入らせよ!」
リースは実に嬉しそうに、スザク国に来てから初めて、実に楽しそうに笑った。小型の藤兵衛はぴょんぴょんと飛び跳ねながら、憤慨しきった様子で叫んだ。
「ふん! 今の儂は体力もない上、闇の中でしか生息出来ぬ。故に夜にしか会えぬのじゃ。兎も角、今は時間が惜しい。現状を端的に話せい。あれから何がどうなってこうなったのじゃ?」
「ったく、いつもあんたはデタラメね。まあもう慣れちゃったけど。実はね……」
リースは今までの話を掻い摘んで藤兵衛に話して聞かせた。彼は身じろぎひとつせずにリースの肩の上でそれを聞き込み、静かに時間をかけて咀嚼していった。暫しの時間が流れ、やがて沈黙が訪れた。彼は深く大きく呼吸を1つ吐いて、重い扉を開くようにゆっくりと口を動かした。
「……成る程の。よう分かったわ。亜門は消え、虫とシャルは連れ去られ、儂は原因不明の制御不能。目的地はプーコランド経由での神都パルポンカンじゃが、未だビャッコ国との国境をさほど離れてはいない、と。……中々に痺れる状況ではないか、のう女狐や?」
「ほとんどあんたのせいでしょ! なに他人事みたいに言ってんのよ!」
「まあそう言うでない。今の儂はあくまでも分身のような存在に過ぎぬ。主人が最後の力を振り絞って作り上げた、言わば幻想みたいなものじゃて。先も言うたが闇の中でしか活動出来ぬし、一切戦うことも出来ん。それでも、主人の中にある知恵の欠片だけは与えることは出来ようて。一方向の通信に過ぎぬし、主の記憶の深き部分にも触れられぬが、それでも微力ながらお主の力にはなろうぞ」
「……はあ。そうなの? よく分かんないけど、まあいないよりはマシってことね。でも……ちょっとだけ安心したわ。ありがとね」
「ガッハッハ! 忠実な使用人を助するも王たる者の務めじゃからのう。大船に乗ったつもりでいるとよいわ」
「はいはい。そういうところは変わんないのね。そのなりでよくもまあ偉そうに吠えられること」
リースが戯れにふっと強く息を吹きかけると、藤兵衛はその勢いでこてんと地に落ちた。その可愛らしい動きに、彼女は再び可憐な笑みを溢した。
(へへ。そうね。この感覚だったわね。やっと……ほんの少しだけ希望が射した感じかしら)
「ギャアアアア! い、痛い! 金玉を打ったわい! 内臓が千切れてしまいそうじゃ! ……な、何じゃこの虫は! しっし! あっちへ行くがよい! この儂を誰と心得……ギャアアアア!! 血を吸われるう! 早く助けてくれぇい女狐ぇえええ!」
最早ため息すら出ずに、その場で大きく頭を抱えたリース。スザク国での冒険はまだまだ始まったばかり。彼女の受難もまた、序章を終えたばかりだった。
半日前。所変わって、スザク国某所。
密林の中を駆け抜ける夙き影。黒き暴風を思わせるその男は、両手で女性を力強く抱えたまま、日差しを避けるように足を強く動かしていた。その眼前にいる猛獣達は、本能的に彼に関わるのを止めて、さも当然のようにすっと道を開けた。中には自身の直感を信じられずに立ち向かう者もあったが、数瞬後には皆、無惨な塵芥と化していった。明らかに生物としての種が違う、圧倒的な強者である老闘士ガンジは、その力強さに反して滅多に見せぬ苛立ちを前面に出していた。
「ええい、また川じゃあ! なんじゃっつうんじゃ、この国は! 面倒で堪らん!」
目の前にどこまでも広がる細く長い小川。彼一人なら目を瞑ってでも超えていける距離だが、現在は状況がまるで異なっている。今の彼は手の内にある女性、シャーロット=ハイドウォークの安全にのみ注意を払わねばならない。彼ら神族に連なる者は、流れる水を渡ることが出来ない。無論ガンジはそんなことは重々承知しており、それ故にわざわざ上空から龍を使って任務に当たったのだ。
「なのに……なんじゃあこの状況は!」
ガンジは沸沸と湧き出る苛つきを抑えられず、当たり散らすように周辺の木々を蹴り倒した。派手な音を立てて崩れ落ちる木と、周囲の猛獣達が慌てたように逃げていった。だがその時、彼の耳元で囁くような小さな声が響いた。
「駄目ですよ、ガンジ。命を粗末に扱っては」
驚きを隠しきれず、視線を手元に向けたガンジ。そこで静かに佇む漆黒の髪の美しき魔女シャーロットは、何ら慌てる様子を見せず、にこりと美しい微笑を見せた。その背筋が凍るほどの美しさに、ガンジは彼らしくもない狼狽えを見せた。
「な、何じゃあ。起きとったんかい。ボンの術も大したことないのお」
「ええ。この程度で私を封ずることは敵いません。もっとも……術は使えないようですが。私を殺すなら今しかありませんよ」
シャーロットは両腕に嵌められた鎖にちらりと視線を遣りつつも、極めて冷静に告げた。それを聞いたガンジは、呆れたように頭を掻きながら、大きく深くため息をついた。
「……あんなあ、誤解せんとけや。ワシゃあボンの命令云々の前にの、おんしを殺すつもりなんざ毛頭ないけえ。おどれが大人しくハイドウォーク家に戻り、昔みとおに兄弟仲睦まじすりゃ、ワシゃそれでええんじゃあ」
「いいえ。それは出来ません。今のお兄様は暴走しております。私は唯一の身内として、お兄様を止める義務があります。例え貴方やバラム様を敵に回したとしても、命の遣り取りになったとしても、その意思は決して変わりません」
「……はぁ。ったく昔から何も変わらんのお。そういうところはハニエル様に似たんかもしれん。ほんまに困った娘じゃ」
ガンジはシャーロットをそっと地面に置いて、呆れた顔で全身を伸ばして休息を取り始めた。彼女はその場でちょこんと体育座りをし、静かに微笑みながら彼の動きを見つめていた。
「な、何を笑うとるんじゃあ? ワシが何ぞ妙なことでもしたか?」
「ふふ。覚えてますか、ガンジ? 昔ユレウム山脈で山登りをしたことを。あの時のことを思い出していたのです。とても楽しかったですね」
「そりゃおどれは楽しかったじゃろうが! 屋敷を勝手に抜け出して好き放題暴れまくったけんのお! ワシとボンとハニエル様3人がかりで、探し当てるのに1週間もかかったわ!」
「あの日も、私を見つけるなりガンジは、さっきみたいに抱っこをしてくれましたね。私は嬉しかったのです。知っての通り、お父様とお母様は私のことを嫌っておりましたので、あんな風に人に抱きかかえてもらうのは初めてのことだったのです。あの時、私は貴方の暖かさに、心の底からほっとしました」
「……ほうか。まあ任務じゃけえの。まあおどれには色々迷惑かけられたが……個人的にはそこまで悪い気はしとらん。ただ、あの日……ミカエルがハイドウォークを継いだ日、ワシは何も言えんかった。今のワシは……」
2人の間に不思議な空気が流れた。在りし日への望郷の思いがそうさせるのか、はたまた流れた時間の過酷さが彼らをすり減らしていった故か。
やがてふうと大きく息を吐いて、ガンジは立ち上がった。このままでは迷いを生むことになる。迷いこそが戦いの1番の重荷であることは、彼が重々承知するところだった。
「さ、もう行くけえの。ワシはおどれをミカエルの元に届ける。その後のことは知らん。文句は言わせんぞ」
「ええ。貴方は自身のすべきことをそのまま行いなさい。ただ、例えどのような結末を迎えようとも、私は昔からずっと貴方のことが大好きですよ、ガンジ」
「……!! っと、いつもいつも大した余裕じゃあの。そういうところが気に食わんわあ。言っとくがな、おどれがこの後どうなるかなんぞ、ワシには一切保証出来んけえの。覚悟だけはしといた方がええぞ」
「大丈夫です。私には大切な仲間がいますから。必ず私を迎えに来てくれます。私1人では何も出来ませんが、レイ、亜門、リース、そして藤兵衛がいてくれれば、私たちにできないことは何もありません。私は心からそう信じています」
そこまで聞くと、ガンジは口だけで微笑し、シャーロットを両手で抱えて再び密林の中を駆け抜けていった。暗い森の中に黒い疾風が駆け巡る。彼女は何処かぼんやりとしたまま、迷いのない目で前だけを見つめていた。
「ところでシャーロットよ。おどれがあの商人に惚れてるってのは……本当に本当なんか? 数百年間誰も口説き落とせんかったおどれを振り向かせるたあ、一体あんなあ何者じゃあ? 悪いがワシには只の阿呆にしか見えんけえ」
「ふふ。内緒です。貴方も恋をすれば分かりますよ、ガンジ」
「そ、そりゃワシが100年前に言った言葉じゃろがい! ったく……まず出会いから話せえ。どうせ先は長いんじゃ、ちと詳しく聞かせえや」
「もちろんです! あれは秋深まる日のことでした。私とレイは……」
2人の会話の中には、暖かな思いがふわりと薫っていた。ここは敵地、剣呑極まる混迷の国スザク。しかしその時の彼女たちが見ていたのは、暖かな故郷の光と、爽やかな心底からの想いだけだった。




