第54話「必殺の一撃」
スザク国某所。空の戦い。灼熱の大空を舞台に、龍の力を受け継ぐ侍高堂亜門と、闇の眷属でも最古にしてかつて最強と謳われる闘士ガンジの戦いが始まった。
離れつつある敵を追いながら必死で飛び回る亜門に対し、軽々と空気を蹴りながら腕組みしてどしりと構えるガンジ。二人の視線は交差し、一本の熱線を結んでいった。
「ガンジ! 事情はまるで分からぬが、兎も角そこを退くでござる! 大人しく魔女めを返すのだ!」
「ダッハッハ! そりゃ出来ん話じゃあ。おどれにはここで死んでもらうけえの!」
「委細承知。ならば……殺るのみにて。高堂流『炎凸戦弓』!!」
開幕は目にも留まらぬ一閃。亜門の渾身の突きがガンジの喉元を狙い、極めて正確に撃ち出された。完全に敵の呼吸を読んだ神速の攻撃であったが、彼は驚異的な柔軟性で身体をのけぞらせて回避し、それと同時に足を振り上げて亜門の腹部に蹴りを見舞った。
「甘いでござる! それしきの蹴りなど容易……!?」
「甘いのはどっちじゃあ? 今までの雑魚どもとは違おて、ワシはヌルくないけえのお!」
(……ぐっ! 雷を纏って?!)
蹴り自体は完全に翼で防御したものの、流し込まれる電撃に体の自由を失い、亜門は錐揉みのように地面へ落下していった。だが着地する寸前、彼は何とか意識を振り絞り、全力で翼を広げ衝突を回避した。
(なんという剣呑な技でごさるか! 全く油断は出来ぬな。それに……)
亜門が天を眺めた時には、既にすぐ間近にはガンジの姿があった。彼は太陽を背にして亜門の視界を奪いながら、高速で空気の壁を蹴り、あたかも泳ぐかのように空を自在に移動していた。亜門の対応は完全に後手となり、唸るような猛攻に晒されていた。
「……ヌルい。ヌルいわあ! それでも秋津の侍かのお? ならばここで終わりじゃあ! 『滅閃・雷牙』!!」
ガンジの異形を纏った拳から放たれた衝撃波は、雷を帯びて唸りを上げながら亜門に向かっていった。極大まで昂り弾けた衝撃の閃光は、小規模な台風の如き破壊力。しかし亜門は避けようともせず、愛刀『素戔嗚』を静かに抜いた。彼は精神を集中させ、気迫の声と共に雷撃に向けて刃を振り下ろした。
「果たして……緩いのはどちらでござるかな? 高堂の刀は形無きものすら両断し申す。高堂流奥義『秘天返し』!!」
刀から放たれた静かにして確固たる一撃。破壊の雷を込めた衝撃波は瞬く間に真っ二つに切り裂かれ、その場で霧のように四散していった。
「な、なんじゃいありゃあ! ふざけた技を使いよるのお!」
「隙、にござれば……御免! 高堂流『黒薙独楽』!!」
「ちっ! こりゃマズいのお! 『紅蓮・雷弾』!!」
大技の打ち終わりを狙う形で、亜門は一気に距離を詰めると、狙い済ました横薙ぎの一閃を放った。ガンジは瞬間的に脚部に力を集中させ、爆発的な雷撃を起こして後方へ飛翔した。辛くも回避したかと思われた彼の胸元には、真一文字の深い裂傷が走っていた。そこから流れ込むは、全てを無力化する龍の力。魂まで焼き尽くす激痛をものともせず、彼は腕組みをして心底嬉しそうに笑った。
「なるほどなるほど。やはりおどれは捨て置けん奴じゃあ。将来必ず、とんでもない使い手になろうて。ここで潰せる幸運に感謝じゃのお」
「ガタガタ言う暇があるならさっさとやっては如何か? それともミカエルとやらの配下は、口だけの腰抜け揃いでござるか?」
「ダッハッハ! 言いよんのお。なら……お望み通り本気でいかせてもらうわあ! 出でよ、降魔『トール』!! ワシに天裂く雷神の力を与えい!」
(とは言え……この男は強い。己では勝つ事は出来たとしても、魔女めを奪還するは不可能にござる。……仕方あるまい。かつての“盟約”、使わせてもらうでござるぞ)
天高くから振り下ろされた稲光がガンジを突き刺し、爆音と共に膨れ上がる雷光と闇力。異形の雷に包まれた闘士は、破砕の拳を振り上げて亜門に向かって飛び掛かった。と同時に彼も龍力を全開にし、古刀に刻まれた小さな龍印に力を込めつつ、真正面からガンジに向かっていった。
斯くして刀と拳、龍と闇が炸裂する死闘の第二幕が切って落とされた。
一方、その遥か上空。
彼らの死闘から逃げるように空を駆ける緑龍。彼は自分が知る種の力が、苛烈な戦場に沸き起こる姿を真剣な目で眺めていたが、すぐに背中に異変を感じて、甘色の髪を乱す少女セロに声をかけた。
《お、おいどうした? 体調でも悪いのか?》
苦しみ続ける彼女は、脇に抱えたシャーロットをそっと龍の背に下ろし、胸をかきむしりながら呻いた。
「問題……ありませんよ。ボクのことは気にせず……ただ神都へと……進んで………」
《おい! しっかりしろ! おい!》
それだけ言い残すと、セロは白目を剥いて気を失った。龍は急変する成り行きに動揺しつつも、再び超常の戦の方に目を遣り、静かに自らの内で思った。
(ありゃあ間違いない。帝龍フィキラ様の力だ。俺は知っている。あの御方は、比肩し得る者がいない程に誇り高い方。脅されようが何をされようが、例え殺されようが自分の思想を曲げる訳がない。つまり……あいつは選ばれた者だ。ただの人間ではない。……となると俺は、フィキラ様の御意志に逆らっていることになる。……あってはならない! 絶対に! 考える必要もない!)
若き龍は熟考の果てに己の置く場所を定めると、急旋回して踵を返した。このまま彼を見捨てる訳にはいかない。少なくとも彼に込められた意思、それだけは露に落とすわけにはいかない。
彼は人間のことも、古い歴史も知らない。知るのは年配者によって濃縮され、歪められた記録のみだった。だが彼は龍。誇り高き古き種族の末裔。今目の前で繰り広げられている光景を、現実を目の当たりにして、彼は思う。思い出す。在りし日に出会った古き龍のことを。偉大なる帝龍フィキラのことを。
若さ故の無軌道により危機に瀕し、彼により命を救われた時のことを。そして彼と過ごした、かつての短いながらも有意義な日々のことを。そして……彼に言われた言葉を。
《なあ、ヴィジャナ。最近俺は思うんだ。この世界の全てはな、最初から決まってるんじゃないかって》
「は? 意味分かんねえっすよ。俺はそんなの認めやしません。俺は俺の意思で生きてくだけです」
《それも正しい。間違っちゃいないよ。ただな、俺も長く生きてきて、奇跡のような出会いがあり、臓腑が切り刻まれん程の屈辱もあった。けどな、それも全て運命かもしれん。誰しもが世界の織り成す物語の中で、1つの役割を果たすだけ。最近はそう思うようになったんだ》
「ますます分かんねえっす。変なもんでも食ったんじゃねえっすか?」
《グワッハッハッハ! かもしれんな。まあ死にかけのジジイの戯言だ。忘れてくれ。さあ、飲み直そうぜ。俺とお前の出会いにな》
「へへ。そうこなくっちゃ。朝はまだ先ですからね」
その瞬間、何かが彼の中に降りてきた。そう呼ぶしか言いようのない感覚だった。そして彼は迷いを完全に捨てた。これが……俺の役割なのだ。この世界においてたった一つの、俺の成すべきことなのだ。そう確信した。
思った時には身体が自然と動いていた。空を切る翼に更に湧き出す力を注ぎ、そして彼は音の壁を超えた。背に乗る二人を気遣いながらも、龍という種族の力を存分に振るっていた。
今から彼は、元の場所に戻る。とても疾く、とても静かに。ただ自らに課された宿命に、運命と呼ばれる糸の導きに従うために。
一方、最強を冠する闘士たちの決戦。亜門とガンジ、二人の戦いは一進一退を繰り返していた。
「いい加減おどれもしつこいの! 『紫電・雷』!!」
雷の爆発力を用いて高速移動し、渾身の一撃を見舞うガンジ。かわす暇など存在しない、究極の速度の突きが亜門を襲う。
「その技は見切ったでござる! 高堂流『氷凹戦弓』!!」
彼は集中し敵の呼吸を読み、技の前動作を完全に見切った。そしてガンジが突進してくる下方に向けて、同じように刀を突き出した。激しくぶつかり合う拳と刀。闘気が弾け飛び、雷と龍力が相殺し、結果生まれた大爆発で双方は等しく吹き飛ばされた。足から血を流しながらニヤリと不適に笑うガンジ、痺れる手に力を込めて無言で刀を構え直す亜門。
(やはり一撃のぶつかり合いでは部が悪いのお。なら数で攻めるのみじゃあ)
(暴威を以て攻められてはこちらに不利。一刀にて仕留めるしかないでござる)
両者の意図は一致し、再び目にも留まらぬ攻防が繰り広げられた。速度に勝るガンジが連撃を繰り返し、亜門は龍の力でそれを凌ぎ痛烈な一閃を見舞う。両者とも血に塗れ、みるみる消耗の度合いを上げていった。全くの互角、互いに全く譲らず、空中での戦いは激化の一途を辿っていた。
しかし、異なる点が2つ。亜門は内心に抱える焦りを隠し切れなかった。その原因は、既にシャーロットが連れ去られている、という一点。彼はこの戦いを素早く片付ける必要があった。そのほんの僅かな焦りは、戦いが長引くにつれ彼の刀の切れを鈍くさせていった。
そして、何より彼の腕を重くさせたのが、ビャッコ国を出てから抱え続けた心中の迷い。彼は戦いながら、いつもなら無心で向かうはずの戦場において、この戦いの意味を考えてしまう。そんなことをしてもどうにもならないことは承知しているが、それでも血肉の隙間より滲み出る迷い。
(何故……己は戦っている? もう終わったはずではないか。魔女めに義理立てする必要などないはずでござる。なのに……何故心が熱くなる? 何故己の体は戦いに身を浸す? ……何故だ?!)
それらの結果として放たれた亜門の一撃は、振るった瞬間に自分でも分かるほど遅く、緩慢なものだった。当然それを見逃さないガンジは、好機と見て一気に勝負をかけるべく、高速で空気を蹴り彼の胸元に滑り込んだ。
(い、いかん!)
「戸惑い、焦り、迷い……手に取るように見えるわ。如何に鬼神の如く強かろうとも、所詮おどれは人間を捨てられんのじゃ! 死ねい! 『百鬼・雷』!!」
嵐の如き無数の拳が全身を一気に捉えた。破砕の雷撃をまともにくらい、体を砕かれ黒焦げになりながら落ちていく亜門。既にその意識は完全に失われつつあり、このまま地面に墜落し塵と化すのを待つばかり。ガンジは勝利を確信し、ゆっくりと地面に降りようとした。
その時、閃光が亜門を貫いた。彼方から緑色の激しい一閃が飛び込み、落ち行く亜門にぶつかったかと思うと、そのまま風となり彼を背に乗せ連れ去っていった。それは、薄い緑色の小さな龍の姿。かつてシャーロットたちと盟を結んだ、飛龍バルアの最高速に達した姿だった。
「んだよ! シャーロットちゃんかと思ったらイモ侍か! 何でてめえ如きが俺を呼ぶんだっての!」
「すまぬ……バルア殿。だが魔女めは……遥か彼方に連れ去られ……」
「え? なんだ、そういうことかよ。んで偉大なる俺様の力が必要ってわけね? ま、死にかけのイモは休んでな。飛ばすぜ!」
「誰じゃおどれは! 邪魔してっとブチ殺すど!」
怒りに震え雷鳴纏うガンジの拳は、その場で虚しく空を切った。龍族屈指の速度を誇るバルアの翼の前に、眷属の脚力など比にもならなかった。彼は余裕いっぱいにその場で宙返りすると、中指を立てながら一瞬で点となり消えていった。
「じゃあな、原始人。空で俺様に追いつこうなんざ1000年早えぞ」
「こ、このガキが! 許しゃせんわあ! 『滅閃・雷鳥』!!」
後方から飛び交う雷撃の嵐を掻い潜り、飛龍は一目散に風を切って駆け抜けていった。ガンジは歯噛みしながらも、努めて冷静に全身を異形に染めた。
「こりゃ誤算じゃあ。ただ速度差は大きいが、亜門はしばらく闘えん。追い付きさえすれば終いじゃけえの。どれ……数百年振りに本気を出すとするか。……『降魔・トール』全霊発動!!」
ガンジは笑っていた。不敵に、ある種の狂気を込めて。徐々に彼を染める異形は、伝承にある鬼神と呼ばれる威風を宿していた。彼は両腕から黒雲を放ち両足に纏うと、全身の闇力を雷に変化させ、爆発的な暴風を呼び起こした。
「この距離なら一瞬じゃのお。『紅蓮・雷雲』!!」
それは、高速というよりも、光速。瞬時に天地を貫く雷の如く、ガンジは空気を切り裂き瞬く間に空間を駆け抜け、バルアが気付いた時には既に前方へ回り込まれていた。完全に意識を失っている亜門を背に、彼は絶望の色を顔中に浮かべた。
「マ、マジかよ! 何だあの速度!? 聞いてねえぞ!」
「トカゲ如きがワシを舐めるでないわあ。ここで死ねい! ……?! な、何じゃあ!」
突如として両者の間に飛び込んだのは、若き龍だった。背に意識のないシャーロットとセロを乗せたまま、彼は歯を食いしばってガンジに体当たりを敢行し、ありったけの気迫を込めて立ち塞がった。
《逃げろバルア! ここは俺が引き受ける!》
「あ!? ヴィジャナじゃねえか! ウチの列を抜けた奴が何でここに?!」
「お、おんどれ! 裏切るつもりか!」
既にガンジの声は彼には届かない。彼らは短い時間で何とか状況を把握すると、そのまま高速で飛び去ろうとした。だが、その時!
「……ガンジ! ボクのことはいいからシャーロットを!」
蹲るセロの絶叫と共に、彼女は残された僅かな力で龍の背からシャーロットを投げ捨てた。ガンジは地に落ちゆく彼女に向け全速で滑り込むと、全身を擦りながらも辛うじてがしりと受け止めた。
「セロ! でかしたぞ! すぐに追いかけるけえの!」
「ボクはもう動けない……今は彼女をミカエル様に……」
「やべえ! シャーロットちゃんを化け物に取られちまった! おいイモ侍!」
「……」
《無駄だ。早くそいつを連れて逃げろ! もう1人を盾に逃げるしかない!》
2人の龍は互いに頷き合うと、その場で交差して別方向へあっという間に消え去り、その場に残されたのはガンジと横たわるシャーロットのみだった。歯噛みして全身に力を込める彼だったが、どう考えても彼女を抱えて追い掛けるのは不可能だった。
しかし、ガンジは諦めない。この老練たる闘士は諦めの2文字を知らない。
「シャーロット、ちいと待っちょれ。『滅閃・雷棺』!!」
ガンジはそっとシャーロットを地面に置き両肩に手を当てると、気合の声と共に雷の障壁を生み出した。近づく虫が即座に焼き殺され、彼女を守る技の完成を確認すると、彼は闘気を爆発させて即座にヴィジャナに向けて天を駆け上がっていった。
「許さん! このワシを騙くらかすとはいい度胸じゃあ! おどれの首を捻じ切ってボンへの土産にしちゃる!!」
若き龍ヴィジャナは背後に凄まじい殺気を感じ、ちらりと首だけ振り返った。だがその時既に、死神の鎌は彼を刈り取らんと唸りを上げていた。
《くっ……もうこんな所まで!》
「遅いわ! 『滅閃・雷爆』!!」
異形と化したガンジから放たれる、はち切れんばかりに電撃を圧縮した闘気の波動。ヴィジャナは急旋回して辛うじて回避した……が、その瞬間に大気が弾けた。波動はその場で破裂して雷を撒き散らし、腹部に直撃を喰らった彼は意識を保つのがやっとだった。
《つ、強い! 強過ぎる!》
「悪いがおどれでは勝てん。ワシを舐め、セロを奪った罪……万死に値するのお。まずは生意気な翼をへし折ってくれるわあ!」
ガンジの背中から立ち上がる圧倒的な闘気の渦に、ヴィジャナは避けられぬ死を覚悟した。若く戦闘経験の少ない彼にとって、その場を乗り切れる龍力は存在しなかった。だがガンジは気付いていなかった。追跡に気を取られ、肝心な事実を失念していた。この場が、スザク国という国の空が、一体誰のものであるということかを。圧倒的な力が空に渦巻いていたことを。
ガンジの腕がゆっくりと動き、稲妻を纏ったその拳は、確実にヴィジャナを貫かんとした。彼は本能的に身体を丸め防御体勢を取りながらも、覚悟を決めて目を閉じた。だが、その時……声が響いた。
《おいおい。テメエいつまで調子乗ってんだ? 『ファイアストーム』!!》
「な……何じゃあ!!」
何もない空間から、突如として灼熱の波動が巻き起こった。攻撃態勢に入っていたガンジはまともに炎を浴び、全身を焼き焦がしながら地面に叩き付けられた。血反吐を吐きながらも、彼は揺れる視界の隅に猛烈な力が形を成すのを確認した。そして、まるで時空を捻じ曲げたかのように、無から真紅の巨大な影がゆっくりと出現していった。
「……最悪じゃあ。まさかおどれとはの!」
《誰かと思えばお前かよ。神々の狗風情が、俺らの庭で何してやがる?》
それは、おおよそ人類が目撃したことがないほどの、巨大な龍だった。真紅の鱗の1つ1つから焼き尽くさんばかりの威容を放ち、彼は他を圧倒する異次元の存在感を示していた。深い傷が刻まれた右目の奥、好戦的な瞳からは神秘と殺意を両立させた光を放ち、悠然とガンジの前に立ち塞がった。
《おい、下がってな。このジジイの相手はお前じゃ無理だ。バルアの泣き言が聞こえたから何かと思ったが、ヒマ潰しには丁度いいぜ》
《ま、まさか貴方は……帝龍ハーシル様の……》
「おどれには関係ないわ! すっこんどれアマニ!」
《……へえ。テメエがそんなに取り乱すとは面白えな。別に退いてやってもいいが、ここらで龍族に手え出すことの意味……本当に分かってんのか?》
異常に猛り狂うガンジの姿に違和感を感じた赤龍アマニは、敢えてゆっくりと焦らすような口調で返した。既に無数の龍の気配が集まりつつある状況を感じ、彼はぐっと拳を握り締めた。
(幾らワシでも……今の状況でこの化け物とやり合うのは不可能じゃあ。仮に勝てたとしても、ワシとて無事では済むまい。即ち……シャーロットも無事では済まん。どちらにせよセロは完全に連れ去られる!)
《おーおー、ねえ頭で考えてんな。だがよ、答えは2つしかねえぜ。ここで俺に殺されるか、何も言わずに退くかだ。もしすぐに退くなら……テメエの隠そうとしてるモンも見逃してやるぜ》
「!!」
ガンジは即決した。せざるを得なかった。目の前の強者は、決してつまらぬハッタリをかます男ではない。縄張りたる地域の全てを見通し、異変の地点まで把握している筈だった。彼はヴィジャナを憎々しげに一瞥してから、強大なる赤龍の顔を正面から堂々と睨み付けた。
「おどれ……いつか覚えちょけよ。必ずセロは返してもらうけえのお。昔の件も含め、ノシ付けて返しちゃるわい!」
《おお、怖え怖え。だがな……全く同じセリフをバラムのバカにも伝えとけ。俺も叔父貴も、あの日のこたあ忘れちゃいねえからよ》
「はあ? 意味が分からんことを! ワシは行かせてもらうけえのお!」
ガンジは心底不快そうに辺りの岩を蹴り砕くと、風を纏い瞬時にその場を後にした。その風に紛れる血の滴り、怨嗟の声と怒りの咆哮。
(ふざけるんじゃ……ないわあ! なんでこんな事になりよんかあ! だがそれでも……シャーロットだけでも守れたと考えるべきか。何がどうなってこうなんのかいのお! ……セロよ。全てワシの責任じゃあ。本当にすまん……)
彼の呟きはふわりと空に飲み込まれていった。それは単なる序曲。これからの物語のほんのさわりの部分。世界はこうして回る。何の衒いもなく、ただ在るがままに。
一方、符術士リース一行。
ビャッコとスザクとの国境手前の関。砦を思わせる物々しい設備、ピリピリとひりついた剣呑な雰囲気の警備線の中、ビャッコ国の商人ココノラはそこの隊長らしき人間と気さくに話し込んでいた。
「……てな訳でげすよ。そしたらこっちも我慢できねえってんで、奴隷3匹と交換してやりやした。そしたら奴さん、あっしの目をじいっと見てね。さっきまでの口とはまるで違ってこう言うんです。『そういうことなら、もっと上玉を寄越せ』って」
「わっはっは! 本当かよ! お前は昔っから話がうめえからなあ」
「これが本当だからビックリなんでさあ。あっしが大恩あるバラックさんに嘘なんてつく訳がないじゃありませんか」
「まったく……お前は軍にいた時からまるで変わらないな。お調子者で、適当で、こんな奴は絶対に出世できんと思ってたが、まさか奴隷商売で一山当てるとはな。正直見直したよ」
「ヘッヘッヘ。これも全てバラックさんのお陰でやすよ。……して、これが今回の“お礼”です。どうかお納め下せえ」
ココノラは整った顔を卑屈に歪め、懐から取り出した包みを、やや強引にバラックの手に押し付けた。彼は戸惑う様子も遠慮も微塵も見せず、当然のようにそれを無造作に受け取った。
「ご苦労。また奴隷の売却か。精が出るな」
「へえ。その通りで。スザク国じゃ奴隷は事欠きませんからね。また一稼ぎさせて頂き、帰りには土産もお持ちしますんで」
「ははは。期待してるよ。……ん? ちょっと待て。そこの荷台のガキとジジイが商品か? あんなもん売れないだろう」
バラックはやや怪訝そうに荷台の二人を見つめた。リースは打ち合わせ通り何も喋らずに目線を下げ、藤兵衛はただぼんやりと不明瞭なことを話し続けていた。それでも油断ならない視線を向ける彼に、ココノラはひそひそ声で耳元に告げた。
「バラックさん、お言葉でやすがね、ああいうガキこそ好きなもんには堪らんのでげす。しかも上玉ときてますから、目が飛び出るくらいの高値が付きやすぜ。前線の兵士の玩具にするもよし、坑夫達のストレス発散に使うもよし、子がない家に売り付けるもよし。いくらでもやりようがあるときた。ジジイの方はガキの祖父で、言ってしまえば只の人質でさ。正直、ガキを売ったらそこらに捨ててきやすぜ」
「……ったく、聞いてるだけで胸糞が悪くなるな。もういい、行け」
「へえ。ではあっしはこれで」
そう言って立ち去ろうとするココノラを、衛兵長バラックはふと思い出したかのように止めた。
「あ、そうそう。一応忠告しておくが、最近この辺りも物騒だから気を付けろよ」
「ご忠告痛み入りやすが、そんなの今に始まったことじゃありませんでげしょ? 誰が呼んだか“東大陸の汚物”の名は伊達じゃありやせんや」
「まあそうなんだが、実は最近脱走者が出てな。強引に関を突破した秋津国の侍がその辺に潜んでいるかもしれん。まあスザク国なんぞで何をしたいのか分からんが、何せ相手はあの狂人だ。注意した方がいいぞ」
「へええ。そいつは怖いでげす。きっと鬼のような野蛮人に違いありやせんや。ありがとうございやす。気を付けて稼ぐとしやしょう」
そう言って荷馬車を引き始めたココノラ。顔に張り付いた卑屈な笑みを崩すことなく、重々しく開いた門をへこへこと周囲に頭を下げながら通過していった。
門を過ぎた頃、完全に人影が消えたのを確認すると、荷台からにょきりと細い足が伸びて、ココノラの後頭部を痛烈に蹴り飛ばした。
「い、いてっ! リースさんなにするんでさあ」
「それはこっちのセリフよ! なんであたしが奴隷なの! まったく好き放題言ってくれて!」
「まあまあ。嘘も方便ということで。結果的にあっしに任せて良かったでげしょ?」
「まあそうだけどさ……しかしあんた、ずいぶん手広くやってたみたいね。ほんっと、奴隷商人様々だわ」
「そういう嫌な言い方はしないしない。結果良ければ全て良し、でさあ。軍にいた頃から思ってやした。人生はどんな手を使っても、金を手にしたもんが勝ちだって。あんな辺境でこき使われるくらいなら、人に蔑まれても得るもの得た方がいい。ただ漠然と死に向かうくらいなら、自分の意思で生きていきたい。その想いは今でも変わりまやせんや」
「……そう。なんていうか、やっぱ商人ってよくわかんないわ。あたしとはまるで違うわ」
リースは巻きタバコに火をつけながら、何かを思い出すかのようにぼんやりと呟いた。煙がゆっくりと空に絵を描いて、天に所在なさげな柱を立てた。
スザク側の国境に到達した一行の前に広がっていたのは、がらんとした無人の砦だった。先ほどのビャッコ側とはまるで違う、だだっ広い敷地内に草が繁茂し、人がいた痕跡すら感じられない寂しい光景だった。
「ち、ちょっと! これが国境なの?! いくらなんでも兵士一人いないなんて、ほんとにこれでいいの?」
「リースさん、そりゃしょうがないですげよ。ここ300年間、スザクの地には政府なんてありゃしやせん。ここは人が人として生きれる場所じゃないんでげす。 あるのはむき出しの自然と、欲に塗れた人間の争いの跡だけでして」
「……よく分からないわ。この地には何があるの? 何を求めて人は争うの?」
「へえ。あっしにもよく分からんのですが、資源やら何やらがあるみたいでして……」
「……黒油。それに“神々の遺物”と呼ばれし宝物じゃ。その2点により、この地はセイリュウ国とビャッコ国の軍が入り乱れる、言わば混迷の国家と化したのじゃて」
そこまで話し終えたところで、突如として荷台から鋭く低いダミ声が飛んで来た。心臓を握られたような表情で背後を振り向いたリースとココノラ。そこには悠然とキセルをふかし、垂れた目を細めて傲岸不遜にどっしりとあぐらをかく老商人、金蛇屋藤兵衛の姿があった。
「あ、あ、あ、あんた! いつ正気に戻ったの!?」
「だ、旦那様が戻って来られた! ああ、神さま。奇跡が起こりやした!」
「何じゃ、騒々しい阿呆どもじゃて。儂が気持ち良く寝ている間に、お主ら揃って頭でも打ったのかの?」
藤兵衛の言葉を受け、同時に顔を見合わせたリースとココノラ。悪い冗談かとも思ったが、当の彼に全く悪びれる様子もなく、普段と変わらない堂々とした表情だった。
「そ、そうね。私たちが何か勘違いしたのかもね。ま、まあ……この際それはどうでもいいわ」
「いつにも増して妙な女じゃて。これじゃから北の女狐とはまともに話が出来ぬのう」
「だ、旦那様。実は今、あっしらはスザク国におりまして、その……」
「言わずとも分かるわ。儂を誰と心得るか? 話を続けるぞ。歴史的な部分は置いておくとして、スザク国には様々な可能性が秘められておる。儂らには使いこなせぬ無数の謎の機械、他の地域には存在し得ぬ鉱物、そして類まれな未知の資源。中でも黒油と呼ばれし物質は、世界の経済を一変させるだけの価値があったのじゃ。その富は人々に等しくもたらされ、この国の利益となる筈じゃった」
「過去形なのね。この国の現状を見れば何となく想像はつくけど」
「そうじゃな。人間の欲とはげに怖ろしきものよ。人々は富を得ることにより、更に深く欲しようとした。そして一部の人間は、その全てを自分達だけで手にしたいと願った。その結果全ては損なわれ、誰一人何も手に入れることはなかった。大層ご立派な教訓じゃて」
深く煙を吐き出しながら、藤兵衛はしみじみと語った。リースはその話に聴き入りながらも、はっと我に帰り彼に問いかけた。
「ちょっと! その話は大変興味深いんだけど、まずあたしたちの向かう先のことよ! 神都パルポンカンとやらに行けばいいんでしょ? でもココノラも位置を知らないみたいなの。いったいどうやって行けばいいの?」
「そ、そうでげす! あっしも名前だけしか知りやせん。本当にそんな場所があるんでげすか?!」
「何じゃ。揃いも揃って不勉強じゃな。まあ確かに、無手であそこに到達するは奇跡の結晶に近いものがあろうて。先ずはプーコランドへ向かえい。全てはそこからじゃ。あそこにはこの国の全てが……そう、全てはあそこに………」
「ち、ちょっと! まさかあんた……」
話の途中からみるみる様子がおかしくなる藤兵衛。リースが慌てて声をかけるが、時既に遅し。気付いた時には、彼は再び惚けた顔でぼんやりと空を眺めていた。
「お空が白いのう。儂はわたあめが食べたいのう。女中さんや、甘くてふかふかしたわたあめが食べたいのう」
「……………」
最早叫ぶ気力もなく、その場にへたり込むリース。その間にも、一行の乗る荷馬車はスザク国へ向けて一歩を踏み出していた。
神代歴1279年8月。
うだるような猛暑の続く中、リースの受難の旅は続く。焼ける程の日差しが、彼女の足跡を嘲笑うかのように照らしていた。




