9. 職場見学(2) 閻魔庁の廊下にて
小野の部屋を出ると、正面に幅の広い廊下がまっすぐ伸びていた。
先ほどとはまるで違う建具、石の床、柱と柱の間には壁がない。光も少なく嗅いだことのない匂いがした。梅子は、ああ、これが冥界か、と初めて実感した。
梅子の足音が止まったことに気づいた小野は、振り返って、
「菅原さん、だい・・」
大丈夫ですかと続けようとしたところに、横から飛び掛かってきた何かに縋りつかれた。
「小野サン、小野サン、来てくだサイ、困ってマス。今すぐお願いしマス」
小野の背丈をゆうに超えたガタイのいい半裸の男が、小野の二の腕をつかんで揺さぶりながら、しきりに哀願している。後ろ姿がごついうえに、梅子の見間違えでなければ頭の上に尖ったものが突き出ている。
「鬼? 獄卒?」
梅子はあまりに自分の知っている世界から超越した存在に、恐怖というものが麻痺してしまった。
「ちょっと落ち着け、揺さぶるな、手を放せ!」
「小野サン」
「泣くな。またお前か、今度はどうした」
「火が消えそうなんデス。また怒られマス」
「薪をくべろよ。薪の場所は誰かに聞け。いちいち俺のところに来るなよ。先達のところに行け」
「だって、怖いデス」
「お前も今は外見同じだぞ」
「ひーん」
男は背中を丸めて泣き出した。
「仕方ないなあ。菅原さん、すみません、ちょっとここで待っててください。話をつけてきます」
そう言って小野は、獄卒らしき大男と連れ立っていった。
ものの十分も立たないうちに小野は戻ってきた。
「去年入った獄卒です。不良でイキってたからスカウトしたんですけど、中々仕事を覚えなくて。亡者を責めるのは喜々としてやってるから獄卒の適性はあると思うんですけど、新人がやるような雑用を嫌がるもんだから叱られてばかりなんです。何度か配置転換もしてみましたが、それじゃ根本的解決に至らないので突き放すことにしました」
「小野さん、俺って言ってましたね」
「獄卒相手に僕って言ってたら舐められますからね。同時に言葉も荒くしてます。
さあて、気を取り直していきましょうか」
「小野さーん」
五メートルも行かないうちに、また声がかかった。今度は何。どこからわいて出たのか、突如として梅子と小野の間に小柄な若者が現れた。
「大王様の浄玻璃鏡が曇ってきて映りが悪いんすけど、どうやって磨いたらいいっすか。三途の川の奪衣婆さんのところでもらってきたぼろ布で拭いたら、ますます汚れちゃって」
「何をやってるんだ。そんな汚いもので閻魔様の大事な仕事道具を拭いたらダメだろう。掃除用具部屋の右側の棚に『クエン酸』の瓶があるから、それを、・・・。いや、いい、後で僕がやるから。懇切丁寧に説明したところで、お前覚えられないだろう? 明日までにはきれいにしておくから閻魔様にそう伝えておいて」
「うっす。あざーっす」
若者はぺこりと頭を下げると突然姿を消した。
「え、あれどうやってるんですか? 転移?」
「そう、閻魔庁は広いですからね、そういう便利な道具が発達してきました。彼の場合は、道具じゃなくて、そういう能力ですけど」
二人はまた歩きだした。
「さっきの人も小野さんのスカウト組ですか」
「はい、菅原さんの前に入った人です」
「小野さん、人を見る目がないんじゃないですか」
「人手不足でぜいたく言ってる場合じゃなかったんですよ。そうそう都合よく冥界に来ることに同意してくれる人なんていませんから」
「ですよねー」
「だから菅原さんには期待しているんです。さっきの人らはもともと定職に就こうなんて考えていませんでしたから、仕事に対する心構えがなっていないんです。その点菅原さんは就活真っ只中、しかも全敗中という願ってもない状況。僕たち出会うべくして出会ったんですよね」
「微妙に腹立たしいんですけど? まだここで働くって決めてませんからね、言葉には気をつけた方がいいですよ」
「心得ました。失礼しました」
そんな会話をしながらしばらく行くと、大きな建物の中に入った。廊下はどこまでも真っ直ぐ続き、ホテルのように両側に扉が並んでいる。
「やたら豪華な扉とシンプルな扉がありますね」
「豪華な方は十王様の部屋です。うっかり近づかないようにしてください。
ここら辺は省略して、閻魔様の法廷近くまで行きましょうか」
小野の手のひらが梅子の右腕に触れたと思った次の瞬間には、真っ黒で天井まである巨大な観音扉の前に、二人並んで立っていた。
「転移だ」
「就職したら菅原さんにも、これができる道具を渡しますよ」
「ありがとうございます。それにしても、こんな立派な扉を開けるのは緊張しますね」
「いや、僕たちはこちらから」
と、小野が示したのは隣にある普通サイズのドアだった。
「法廷の後ろの部屋に覗き窓があるんです。ここから法廷の様子を見学しましょう」
「ここの法廷が私の職場になるってことですか」
「さすがに入りたての新人が足を踏み入れるところではありませんよ。ここでの審判を支える裏方の仕事です。まずは諸々の雑用からこなして、全体を把握していきましょう」
「普通の会社みたいですね」
「閻魔庁も近代化とともに却って細分化した仕事が増えました。それを効率化しようとした結果、ますますややこしい手続きが増え、一層面倒なことになってきたようです。小野篁卿の時代にはもっと単純だったと閻魔様もこぼしています」
「なるほど、その煩雑になった雑事をこなす人材が必要だったんですね」
「そうです、獄卒も事務方もどちらもまだまだ募集中です。ですから菅原さんも、万が一、事務仕事よりも体を張る系の仕事に興味があるなら、獄卒として就職することもできますよ」
「いやいやいや、火責めとか水責めとか針山歩かせるとか、見てるだけで怖いですよ。泣くよ、吐くよ!」
「賽の河原で子どもが積んだ石を延々と崩す仕事もありますよ」
「間違いなく、病むよ!」
「まあ、冗談なんですけどね。菅原さんには私の元で書類仕事と、さっきみたいな各方面からの依頼に基づいた雑事全般や、各部署への連絡やお使いをしてもらいたいと思っています」
「閻魔庁の何でも屋さんですね」
「そんなところです」
それから梅子は小野と共に、法廷の後ろにある小さな部屋に入った。
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