8. 職場見学(1) 前室にて
「冥界へようこそ」
いつの間に着替えたのか見慣れない格好をした小野が、ワゴンを押しながら入ってきた。
「小野さん、もう着替えてるってことは、私よりずいぶん早く着いたんですね」
「慣れると落下も一瞬ですよ」
「ところで、その時代がかった装いは?」
「現世の格好じゃ、浮くでしょう。小野篁風の衣装に、僕の好みを入れて作ってもらいました。それより、菅原さん、今さらですけど、あなたは今日もリクルートスーツなんですね」
「だって、これも就職活動の一環でしょう。ほかにどんな格好をしたらいいのか分からなかったし、最近これしか着てないから、ほかの服では落ち着かなくて」
「早く脱皮できるといいですね」
「脱皮とか言わないでください」
「なんにせよ、黒い服はどこに行っても礼儀正しく見えますから、今回もそれで正解かもしれません」
白いブラウスにかっちりした黒のセットアップ、歩きやすさ重視の黒いパンプス、武骨な長方形の黒いバッグ、どこからどう見てもリクルートスーツな梅子を、小野は頷きながら眺めてそう言った。
「さっそく歩き回ってもいいですが、初めての方にはいささか刺激が強い場所もありますからね、まずはお茶でも飲みながら事前説明といきましょう」
「冥界の物を口にしたら、現世に戻れないとかないですか」
「よくご存じですね。でも大丈夫、ビジター用の食べ物がちゃんとありますから」
そう言って小野は、湯気の立つ湯飲みをテーブルに置いた。
「杜仲茶です」
「なぜそのチョイス」
「抗ストレスの効果があります」
「・・・今からの体験がストレスになるとの暗示ですか?」
「人によってはトラウマになります」
「アットホームでクリーンな職場なんですよね」
「もちろんです。それを目指して邁進しているところです」
「まだ達成してないということですよね」
「大丈夫です、一緒に頑張りましょう」
「はあ、騙されたかもしれない」
梅子は特大のため息をついてお茶に口にした。
「それにしても」
と、梅子は周りを見回した。
「冥界らしさが全然ないんですね。内装といい調度といい、日本の普通の事務所みたい」
「なるほど、初めて来たわりに落ち着いていると思ったら、この部屋のせいでしたか。ここは、現世から通う小野家の人間のために、閻魔様が冥界のはじっこに作ってくれた部屋です。資料室、書庫、雑務処理室、疲れた時の休憩室を兼ねています。隣にはクロゼットやミニキッチンもあります」
「ずいぶん優遇されてるんですね」
「ハードワークなのは確かですからね。それに、現代日本と冥界が異なり過ぎていて、ワンクッション置かないと脳がバグりそうになるんです」
「気持ちを整える間もないですもんね」
「またここは治外法権的なエリアで、閻魔様以外、冥界の誰も干渉できないんです。だから、間違って獄卒が乱入してくることもありませんし、この部屋にいる間は、冥界のお偉いさんの我がままを聞く必要もないんです」
「窓がないのも安全のためですか」
「外が見えたら落ち着かないですよ。ガラス越しに、地獄の釜や三途の川を見たくないでしょう?」
「ごもっともです」
梅子は深く頷いた。
「ところで、そこの本棚の一番上にある閻魔様の絵だけが異彩を放ってますね」
「さすが菅原さんです、お目が高い。あれは若かりし頃の閻魔様のお姿で、髭や立ち姿がなかなかスマートでしょう? 祖父の何代か前の人が、古くからいる獄卒たちに話を聞いて、著名な南画家に描いてもらったらしいです。家宝ですが、現世の家ではなくこちらに飾っています」
「ファンなんですね」
「ええ、今は推しというのでしょう? 強火の自覚はありますよ」
「小野さんにとって、魔王庁の仕事は天職なんですね」
「はい、毎日幸せです。なので、リクルーターとして現世に出張しなくてはいけない今の状況は、正直言って嬉しくありません」
「スカウト成績悪そうですもんね」
「菅原さんさえ就職してくれたら、しばらくは閻魔様の手伝いに専念して良いことになっているのです」
「だからあんなに必死だったんですね」
「毎日一人ずつ声をかけて、菅原さんで四十九人目でした。四十九日、図らずも成仏しかけました」
「心が折れかけていたのは、小野さんも同じだったんですね」
「はい、色よい返事をもらえたときは、まさに地獄で仏に会ったようでした」
「冥界でも、その表現でいいんですか?」
「おっと、これは不適切でした。閻魔推しの僕としたことが」
小野は屈託なく笑った。
「ちょっと疑問なんですが、小野さんて生きている人ですよね。あ、センシティブな話題だったらごめんなさい、聞きません」
梅子は、あわあわと両手を振った。
「生きてますよ」
「現世の人間と同じようにですか? 私の三回限定冥界体験とは訳が違いますよね」
「うーん、そこは説明が難しいし、機密事項でもありますので、菅原さんの就職が内定したらお話ししましょう」
「分かりました」
「では、軽く冥界について説明します。
冥界あるいは冥土というのは、いわゆるあの世というものです。亡くなった方がたどりつくところですね。閻魔様はこの冥界の王で、死者の生前の善行と悪行を審判し、行き先を決める役割を担っています。ここまでは、皆さんのイメージ通りだと思いますが、いかがですか」
「はい。閻魔様の前で嘘をつくと、舌を引っこ抜かれるとも聞きました」
「閻魔様に嘘は通用しませんからね、愚かなことです」
「業務内容はシンプルですね。私は何をすればいいですか」
「いや、まだ全然説明の途中です。死者の審判をするのは、実は閻魔様お一人ではありません。閻魔様を含めた十王と呼ばれる方々から七日ごとに、それぞれ審理を受けます」
「え、十回も審問されるんですか、死んでからも中々しんどいですね。じゃあ、最終的な審判を下すのが閻魔様というわけですね」
「いいえ、閻魔様は五番目です。ほかの十王の方々については、おそらく名前を聞いたこともないでしょう。日本ではほぼ無名です。ちょっと変わった、というかクセのある、というかはっきり言ってめんどくさい方が多いので、職場見学中に面会の予定はありません。うっかり見つかったら、問答無用で自陣に引きずり込まれ、永久就職を誓わされます」
「理不尽!」
「偉い立場の人は得てしてそういうところがあります。いちばん話が分かるのが閻魔様です。公平で素晴らしい方です」
「小野さんが働いている閻魔庁というところに皆さんいるのですか?」
「そうです、死者の審判に関わる仕事をしているのが閻魔庁です。十王様それぞれの下に、側近や書記やその他たくさんの下級官吏がいます。さらにその下に、地獄に落ちた亡者を苦しめる獄卒や、三途の川の番人をしている役人などもいます」
「閻魔様を頂点とした官僚機構なんですね」
「その通りです」
「私ができる仕事があるでしょうか」
「とりあえず、何か所か回ってみましょうか。見ないことには働くイメージもわかないでしょうから」
そうして梅子は小野とともに、もう一つのドアを通って部屋を出た。
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