61. 小野と小野海斗の攻防
小野海斗は、迷っていた。
もう何年も前から、縁戚を名乗る小野という男から、冥界の閻魔庁に来ないかと誘われている。
断れば、あっさりと引き下がるので、『ああ、またか』くらいで済ませていた。自分も平安時代の公卿小野篁の子孫だと聞けば、悪い気はしない。親にそれとなく家系図はないかと聞いたら、本家筋には、そういういわくつきの物があるらしいが、いつかの時代の見栄っ張りなご先祖様が、箔付けのために作ってもらったに違いない、と切り捨てられた。
司法試験合格を目指し、法曹界で生きていくつもりの小野海斗にとって、小野篁卿の才能のかけらでも受け継いでいると思いたかった。
「一度、職場見学に来てみませんか?」
目の前の害のなさそうな男が、気軽に誘ってくる。
「冥界行ったら、生きて帰ってこれないんじゃないですか」
「え? 帰ってこれますよ。ただの見学なんだし」
あまりに気楽に言うので、そこらに『冥界』という名前の会社があるのかと思いそうになる。社名だとしたら正気を疑うが。
しかし、以前一度だけ、この男が路上に映した井戸の中に飛び込むのを見たことがある。手鏡で路上に光を反射させたと思ったら、そこに井戸が映って、『これが冥界の入り口です』そう言って、井戸の中に消えたのだ。
しばらくすると、離れたところから出て来て、『どうでした?』と、期待に満ちた顔で聞いた。
あまりに信じられなくて呆然としていたら、つまらなかったと誤解されて、がっかりさせてしまった。
迷った末、小野海斗の好奇心が勝った。
一度だけ見学に、と言おうとしたところで、数人の観光客が賑やかに近づいてきた。
「こっちは裏じゃないの?」
「あ、あそこじゃない、六道珍皇寺」
「もう、回り道したわね」
などと言いながら、通り過ぎて行った。
少し間を置いたことで、小野海斗は冷静になった。危うく乗るところだった。
「俺、まだやりたいことを成し遂げてないんで、もっと後で誘ってください。十年か、二十年か、ある程度納得したら、見学に行きます。それまで小野さんの熱意が続くなら」
と、断りをいれた。
「いいよいいよ、ゆっくり待つから。また誘いに来る」
そう言って、小野はまた井戸の中に消えていった。
消えた場所に行って、上を歩く。
ただのアスファルトは、小野海斗を呑み込むことはなかった。
その数年後、小野海斗は念願かなって司法修習生となっていた。
今は将来に向けての頑張りどころで、小野の戯れ言に付き合っている余裕はない。
だから、久しぶりに目の前に現れた小野に、
「しばらく放っておいてもらえますか。試験があるんです。修習に専念したいんで、冥界ごっこに付き合う暇はないです」
と、いつになく強い口調で拒絶した。
「そうか、そうだね。仕事が軌道に乗って落ち着いたころに、また声をかけるよ」
小野も、理解してくれたようで、すぐに姿を消した。
小野は、冥界の自分の部屋で、ルイボスティーを飲みながら、ぼうっとしていた。
「おはようございます、小野さん。今日は朝からこちらですか」
梅子が手習いに現れた。入庁当初からの習慣だが、よく続くものだと小野は感心した。今では小野より上手だと思う。本人は、ルーティンがあった方が、きちんと生活している気になれると言って、上達は二の次らしいが。
「ええ、しばらく邪魔をするなと、言われてしまいました」
「小野海斗君にですか」
「司法修習生が大変なのは分かります。それに、その後何になるにしても、覚えることも考えることもたくさんあるはずですから、大人しく待つしかないです」
「こっそり様子を見に行かないんですか?」
「中学校までですよ、ほぼ同じ時間に家を出て、家に帰るのは。成人してる人間の動向を追うのは難しいです」
「時間と場所を知る術があれば、通いそうですね」
「いや、子どもじゃないので、目に見える成長がなくて、あまり見守りがいがないですね。会話ができないのであれば、行く意味もないです」
小野は張り合いをなくしたのか、少し投げやりな調子だ。年齢も重ねてきたので、くたびれた感じもある。そのうち、小野篁のように冥界をリタイヤするのだろうかと、梅子は心配になる。できれば、小野海斗に、なるべく長く現世で頑張ってもらって、こちらに来るのを遅らせてもらいたいと梅子は願っている。
そんな梅子の願いは、思いの外早く打ち砕かれた。
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