6. 六道の辻
翌日。
京都府北区のとある家の前で、梅子はかれこれ三十分ほど立ちつくしていた。
小野に教わった通りに電車を乗り継いで、最寄り駅で降りた。駅前でタクシーに乗り住所を言うと、ここに連れてこられた。
「料亭じゃないよね?」
瀟洒な数寄屋門の向こうには、石畳が長く続いていた。格式高そうな邸宅だ。本当にここ? 近所の人に訪ねようにも、どの家も大きくて隣の家の門までが遠い。この住所も嘘なのでは。疑いだすときりがない。梅子はどうしてもインターホンに手が伸びず、うつ向いて黒いパンプスのつま先を見つめていた。
ふと耳に届いた足音に顔を上げると、格子を透かせて、私服姿の小野が歩いてくるのが見えた。
「ああ、良かった、小野さんだ。こんな高級住宅街には馴染みがないので、緊張してました」
「なかなか来ないから、一晩考えて我に返ったのかと思いましたよ」
「今からでも我に返るべきですか。そういえば、見知らぬ土地で不安になっている今が、つけこむチャンスなのかも」
「疑り深いなあ。せっかく来たんですから、観光のつもりで気楽にどうぞ」
「冥界観光?!」
「いきなりは無理です。まずは順序を踏んでいきましょう。行き先は六道さんです」
タクシーに乗って二十分でほどで目的地に着いた。
古都らしい趣きも特に感じられない、ありふれた生活道路だ。梅子の目の前には、ティッシュペーパーや洗剤などが店先に山と積まれたドラッグストアがあった。
「こちらが六道さんです」
小野の声に振り向くと、道向いに朱色の柱が目立つ山門があった。
「正確には、大椿山 六道珍皇寺です。六道さんていうほうが親しみがあって好いでしょう? お盆には精霊迎えのためにたくさんの参詣者が訪れるんですよ。僕も毎年来ています」
道を渡って進むと、山門の手前に『六道の辻』と書かれた石碑があった。
「この『六道の辻』って何ですか」
「ざっくり言うと、この世とあの世の堺、六道の分岐点ですね」
「六道とは?」
「そうですね、梅子さんは、死んだらどこに行くと思いますか」
「地獄と極楽の二択なら、極楽かな」
「極楽は悟りを開かないと無理です。死後の行き先は二択じゃなくて、六つに分かれています。地獄道から天道まで六つの世界があって、その入り口がここだと信じられてきたのです。そのあたりの詳しいことは、職場見学の中でお話しすることにして、境内に入りましょうか」
小野は慣れた足取りで、石畳の参道をまっすぐ進む。
「この右手のが閻魔堂、篁堂ともいいます。閻魔様と小野篁と弘法大師を祀っているからお参りしていきましょう」
「これからお伺いしますって先触れですね」
梅子は茶化しつつも、合掌しながら丁寧に一礼した。
お堂の中の閻魔様は、真っ黒で表情はよくわからないものの、閻魔大王と聞いて思い浮かべるお姿そのままだ。厳格で情け容赦なさそう。梅子は心の中で、『そちらで働く折には、ぜひお手柔らかにお願いします』と、つけ足しておいた。
「あ、井戸ってこに書いてあるやつですね。”小野篁卿 冥土通いの井戸” この先30mか、近いですね」
境内はこぢんまりとしていて、薬師三尊像を祀ってあるという本堂もすぐ目の前だ。
その本堂の手前に建っているのが、三界萬霊供養塔で、ここが六道の辻の中心付近だという。
小野は歩きながら、鐘楼や地蔵堂についても説明してくれたが、梅子はなるほどと思いはするものの、熱心な聞き手にはなれなかった。気持ちはすでに冥土通いの井戸にあるのだ。
「井戸は本堂の裏手です。行ってみましょう」
「井戸は深いですかね。飛び込んですぐに水音がしたら、ほかの参詣者に気づかれて騒ぎになりませんか」
梅子が言うと、小野はすごい勢いで振り返った。
「飛び込む気でいたんですか?!」
「善は急げっていうじゃないですか」
「いや、無理ですから。色々と」
「やっぱり人目についてはいけないんですね。出直して夜中に来ますか?」
「いや、そういうことではなくてですね、ふだんは井戸に近づけないんですよ。この塀の向こうですから。寺宝展などの時だけ特別公開されるんです」
「なあんだ。張り切ってきたのに肩透かしとは。まあ、ダメなものはダメで仕方ないですね」
と、言いつつも名残惜し気に扉の格子の隙間から中を覗きこんでいると、
「では、僕が使っている井戸に向かいましょう」
なんてことないかのように小野が言った。
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