3. 冥界の現状
『地獄』
先ほど脳を通らず素通りしかけた単語が、梅子の頭の中でふよふよと浮かんでいた。
目の前の男のおしゃべりが止まらない。
「でね、働き方改革ってやつがですね、我が冥界にも浸透してきまして、何しろ次から次へと新しい死者がやってきて、閻魔様の裁きを受ける長い待機列に並んでいる間に、色々言うわけですよ、こんな二十四時間勤務でやっているのかコンビニかよとか、ひたすら並ばせないで整理券を配れだとか、もうちょっとやりようはあるだろう、人手不足過ぎるだろうとか、閻魔様お一人の負担が大き過ぎだとか、担当者もっと採用する計画はあるのかとか、こんなんじゃいずれ団塊の世代がこぞって死にだしたら破綻するぞとか、もう、もう、もう、言いたい放題なんですよ」
卓に肘をつき両手でグラスを包んだ小野が、クダを巻き始めた。
「小野さん、たいして飲んでいるわけでもないのに、もう酔い過ぎですよ? というか、飲んでるのジンジャーエールですよね。聞いてますから、ゆっくり息継ぎしながらしゃべってください」
「そこで、冥府の役人で集まって考えました。冥界も時代とともに変わるべきだ。人材を広く募集しよう、ということになったのです。
なにしろ、新しい思想の洗礼を受けた獄卒どもが、二十四時間体制を改めろ、週休二日制にしろ、有休をよこせなどと騒ぎ出したものですから、対応を誤るとあいつら地獄を破壊しかねません。だいたい有休なんていったって、そもそも給与体系なんか地獄にはないんですよ。貨幣経済の何たるかも知らないくせに。お金を渡したところで、店もないし。うちは衣食住完備で終身雇用、足りないものはないはずです。まあ、休みがほしいというのは分かりますから、労働時間も二十四時間じゃなくて、交代制に改めました。そしたら当然、人手不足になるでしょう?
そんなわけで、僕たちがリクルーターとして現世に赴いて、冥界への就職サポートをしているのです。
とは言っても、生きている方々を、生きたまま連れてくるわけにはいきません。かといって事故や病気、老衰で亡くなる人たちは、三途の川を渡って来ますから、裁きを待つ必要があります。待つ間に声をかけることはご法度ですし、裁定が下ればすぐに六道のいずれかの道に向かってしまうので、スカウトの余地がないのです。
ではどうするか。すでに亡くなった方ではなく、自らの意思で死を迎えようとしている人を見つけ出して声をかけ、僕と一緒に井戸を通って冥界入りしてもらうのです。
仕事内容は様々ですよ。向き不向きがありますからね、色々試してもらって希望も聞いて、ちゃんと適材適所に配置しますから安心してください」
小野はひととおり冥界の現状を語ると、焼き鳥をかじり、
「これは、いいですね。地獄の業火で焼くと、あっという間に黒焦げです。追加、頼んでいいですか」
と、あくまで冥界設定を貫くようだ。
「ところで小野さん」
梅子には、ひとつ気になっていることがあった。
「はい、なんでしょう」
「私、自己紹介してないと思うんですけど、小野さん最初から、私のことを菅原さんとか梅子さんとか呼んでましたよね。私のこと、元々知っていたんですか?」
「あー、気づいちゃいました? 実はですね、閻魔様の閻魔帳って、知ってます?」
「死んだ人の生前のあれやこれやを記した帳面ですよね」
「そうです、そうです。あれも、死んでから準備したんじゃ間に合わないから、生きているうちから逐一行動を記しているんですよ。それを、ちょっと見せてもらって、自分の意志でこっちに来そうな人に当たりをつけているんです。
梅子さん、なんだか縁起が悪そうな名前だったんで、気にかけていたんですよ。タイミングもドンピシャでした。間に合って良かったです」
「私の名前って、縁起が悪いんですか?」
思いがけないことを言われて、梅子は戸惑った。
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