28. 苦手克服
梅子の朝は、手習いから始まる。
墨を磨るのは気持ちが良い。姿勢を正して筆を持つ。
「そなた、京都の街が恋しくなったりせぬか」
「関東生まれですので、京都は恋しくありません」
「たまには現世を懐かしむのも良いと思わぬか?」
「里心がつくといけないので、一年間は現世に出張はなしだと小野さんが言っていました」
「経文パスならいつでも準備できておるぞ」
「職権乱用ですよね」
「つれないな、なりきり閻魔ちゃん」
「あの、黙っていてもらえます?」
梅子は慎重に書写しながら、閻魔様の横やりに苦言を呈した。閻魔様は憤怒の表情でありながら、からかうような笑いを含んでいる。器用だなと思う。
閻魔様は東岳大帝様と外遊に出てからというもの、時々梅子のところにやってくるようになった。場所は小野の部屋限定だ。ここだと小野以外の官吏は立ち入ることができないからだ。結界が張ってあるのか、単に禁止されているだけなのかは分からないが、とにかく最近の閻魔様の安息地らしい。
「閻魔様、暇なんですか」
「暇なわけなかろう」
「ですよね。ドアの向こうで官吏さんが困ってるんじゃないですか」
「我も休憩があった方が、のちの仕事の効率が上がると心得た」
「だからって、私の手習いの邪魔をするのはどうなんですか」
「茶の一杯も淹れてくれたら仕事にもどるぞ」
「デトックスしましょうか」
こんな脅しも、もう通用しない。
「カモミールティーが好い」
閻魔様は時々我がままになった。はいはいと梅子は腰を上げて、隣のキッチンに向かう。お茶屋かと思うほど充実したラインナップだ。現世ものと冥界産の茶葉は、間違えないように別の戸棚に分けてある。梅子は前世でカモミールティーなど飲んだことがなかったが、ここにきて閻魔様のリクエストに応えているうちにずいぶん上手に淹れられるようになった。
「はい、カモミールティーです。リラックスできますよ。飲んだら仕事に戻ってくださいね」
閻魔様はソファにもたれてゆっくり味わって、満足したように出ていった。
「お疲れ様です」
梅子は閻魔様の後ろ姿に声をかけた。
梅子も小野の部屋を出て、職場に向かった。その廊下で声をかけられた。
「おはよう、梅子ちゃん」
「おはようございます、藤原さん」
「この間は大活躍だったみたいだね」
「張りぼて閻魔様のことですか」
「そんな風に言われているの? 結構な大役だったと思うけど」
「大抜擢に見えるでしょう? いちばん何も分かってなくてその場で平然としてたから指名されただけです。台詞も『申し開きはあるか』と、小野さんから渡された判決文を朗読するだけでしたからね。口を開くタイミングさえ小野さん頼みでしたし」
梅子は足も止めずに真顔で応じた。会話を長引かせたくなかったからだ。
「あのさ、前から思ってたけど、梅子ちゃんて俺のこと警戒してる? 小野もそうなんだよね、なんとなく近寄らせてくれない。昔からだけど。なんでかな」
藤原は横に並んで歩きながら訊ねた。
「初対面でいきなり梅子ちゃんて呼ばれたからでしょうか。これまで一度もそう呼ばれたことがないので、馴れ馴れしくて気持ち悪いって思ってしまったんです」
「そんなはっきり言う?」
藤原はショックを受けたようだった。
「すみません、第一印象の胡散臭さが強烈で、どうしても上書きされないんです」
「そうかあ、女の子って、親し気に呼ばれるの嬉しいのかと思い込んでた。気をつけるわ」
あっさり引いてくれたので、梅子は、あれ? と思った。
「もしかして藤原さんて、小野さんと同じく、見た目よりずっと年上の方ですか?」
「うん? 二十代に見えるかな。こう見えて戦後生まれだよ」
「こう見えて、の使い方がおかしいです。どう見ても、ですよ」
「一九五一年、昭和二十六年生まれの七十四歳だよ。不二家のミルキーと同い年」
「あ、おじいちゃんと同い年ですね。理解しました。だから昭和のノリなんですね」
祖父は梅子が小学校三年生の時に亡くなった。威勢が良くてダジャレが好きな人だった。バブル時代にいちばん精力的に働いた世代だ。常に自信に満ちていた。
「ええっ、昭和の残り香ある? 年々アップデートしてきたつもりだったけど」
「バブルの時代で止まっていませんか?」
「ここ最近で一番のショックだわ」
「でも、改める必要ないと思いますよ。『二十四時間戦えますか』ってバブルの頃のCM、まさに閻魔庁の現状ですよね。藤原さんは上手に対応してそうですよね」
「そうかあ、そうだったのかあ。俺のリクルート成功率が高かったのも、バブルの頃の押しの強さ故だったのかも。みんな後悔していないかな」
「大丈夫じゃないですか。橘さんが言ってましたよ、藤原さんはそれぞれの最適な場所に配属してくれるって。鬼塚さんなんて天職みたいですもんね」
「ありがとう。菅原さんも冷たくしないでくれると嬉しいな」
「はい、胡散臭く見える理由が分かってすっきりしましたから、たぶんもう平気です」
「うん、引き止めちゃってごめんね」
「はい、失礼します」
藤原は心持ちよろけた足取りで去っていった。
一方の梅子は藤原に対する苦手意識が消えて、少し気分が上がったのだった。




