第九夜 喰われる前に、壊された
救いを求めるように、その声に私は振り向いた。
その顔を見た瞬間、心臓が破裂するかと思った。
と同時に、呼吸が荒くなり、視界がぐにゃりと歪む。
――Masakiだった。
白いTシャツ、細身のパンツ。
いつもステージの上でしか見たことのない“神様”が、今、目の前で私を見ていた。
「おじさん、その子、嫌がってんじゃん。女子高生じゃん。……犯罪だよ?」
Masakiの声は低く、静かで、それでいて鋭かった。
酔っ払ったオヤジは、標的を変えるように、Masakiの襟首を掴み、乱暴にコンクリートの壁へ押し付けた。
私は声を失って動けなかった。
でもMasakiは、まったく動じていなかった。
「ほら、証拠撮っちゃってるし。通報されたくなきゃ、どっか行けよ」
その目は、ライブで見た“視線で撃ち抜く”あの目だった。
「クッ……調子乗んなよ、ガキが!動画、消しとけよ!」
そう吐き捨てて、オヤジは夜の街へ消えていった。
消えた後も、私はその場から動けなかった。
なんてとこを――
なんてとこを、Masakiに見られてしまったんだ。
頭が真っ白になって、涙しか出なかった。
「Masaki、もういいじゃん。そんな援交女、ほっといて行こうよ」
声がした。
顔を上げると、そこには綺麗な女性が立っていた。
ライブで何度も見たことのある女。
今日のMasakiの“お食事”。
今日、Masakiが喰う予定の女。
援交?
違う。違う違う違う。
私は、そんなことでお金を欲しかったんじゃない。
違うのに――Masakiの前で、そんな言葉を聞かされた。
それが一番、怖かった。
私は俯き、目を合わせないようにしながら、小さな声で言った。
「……大丈夫です。ありがとうございました」
それしか言えなかった。
推しの前で、ぐちゃぐちゃの顔を晒したくなかった。
泣き崩れた自分なんて、見せたくなかった。
「親に電話しろ」
Masakiの声が、真上から落ちてくる。
「え……?」
「お前、高校生だろ。……親は?」
「います。
いますけど、母親は――」
その言葉が喉の奥でつっかえる。
「多分この辺りの近くで働いてます。多分スナックで……すぐ来られると思います」
Masakiはそれ以上、何も言わなかった。
そして、確かめるように私の顔を、そっと覗き込んだ。
思わず目を逸らした。
だけど、Masakiは「あー……」と、小さく呟いた。
あの顔だ。
鉄柵に挟まれて、苦しそうにしていた私を、あのときステージ上から見つけてくれた。
気づかれていた。覚えられていた。
終わった。
心臓が止まりそうだった。
「気にすんな。またライブ、来いよ」
Masakiはそう言って、少しだけ振り返る。
「――あとさ。今日のオレのこと、誰にも言わないでくれよ」
言い方は軽いのに、目はまっすぐだった。
冗談でもないし、本気すぎもしない。
だけど確かに、心に残る“命令”だった。
Masakiは、それだけを言った。
何も責めなかった。
何も聞かなかった。
その背中は、さっきの女と並んで、ホテル街の奥へと消えていった。
私のポケットには、まだチケットがある。
でもこの瞬間だけは、握りしめる気力すらなかった。
神様の前で、一番見せたくない姿を見られた。
それが、この夜のすべてだった。