第八夜 揺れる夜の真ん中で
家を飛び出したまま、制服のまま、私は町田への夜道を歩いていた。
スマホのバッテリーは残り12%。
手には、しわくちゃになったクリキャのチケットだけ。
駅に向かっているつもりだった。
でも正直、どこに行けばいいのかわからなかった。
歩き続けても、誰もいない。
いや、誰かに見つけてほしいと思ってたのかもしれない。
補導されたい。
そのまま保護されたい。
自分から「助けてください」なんて言える勇気はない。
でも、誰かに止めてほしかった。
やがて見つけた小さな公園に入り、ベンチに腰を下ろす。
遠くでカラスの声が聞こえた。
真夜中の空は濁ったままで、星なんて一つも見えなかった。
悔しかった。
どうして私は、こんな思いをしなきゃならないんだろう。
早く大人になりたかった。
でも、大人が信じられなかった。
私の家には、あのクソオヤジがいる。
母は何も言えない。
守ってくれない。
このチケットだけが、私の世界を支えていた。
Masakiの声が、この腐った現実を一瞬だけ忘れさせてくれる。
それすらも奪われて、何のために働いてきたのか、わからなくなった。
「……お嬢ちゃん?」
低い声が聞こえた。
肩がびくりと跳ねる。
「こんな夜中に、どうしたの?大丈夫?」
見ると、よれたジャケットに酒臭い男が立っていた。
手には缶チューハイ。
足元はフラフラしてるけど、目だけがギラついていた。
私は俯いたまま、無言を貫いた。
目も合わせない。
相手にしたら負けだと思った。
「お嬢ちゃん、家出か?大丈夫か?」
「……どっか行けよ」
小さく呟いた声が、夜に吸い込まれていく。
「おじさんと来るかい?」
は?
何言ってんだ?
胸の奥がドクドクと波打つ。
大人って、クズしかいないのか?
そう思った瞬間、男がポケットから何かを取り出した。
万札だった。五枚。
ふわっと広げて見せつけるように。
「ほら、これでどう?ご飯でもなんでもいいよ」
喉が詰まった。
目の前の札束が、頭の中でカウントダウンを始める。
一万……二万……Masakiの物販……三万……遠征費……四万……五万……チケット代も戻る……
ダメだと思っても、目が離せなかった。
あれがあれば、またMasakiに会える。
それだけで、世界が救われるような錯覚すらあった。
「……」
声が出ない。
何も言えない。
考える力がどこかへいってしまった。
そのまま、男の手が私の手を取った。
ゆるく、でも強引に、引っ張ってくる。
「さ、行こ」
どこへ?
どこに?
そんな当たり前の問いすら浮かばない。
私は、ただ引かれるままに歩き出していた。
金、金、金――。
頭の中はそれだけで埋め尽くされていた。
この状況がどれだけ危ないかなんて、もう分かってた。
でもそれよりも、明日ライブに行けないことの方が、怖かった。
気づけば、ホテル街にいた。
赤いネオンがチカチカと点滅している。
看板には、安いプランと「休憩」「宿泊」の文字。
私は、ここで――
喰われるのか?
違う。
Masakiじゃない。
この見知らぬオヤジに。
その瞬間、胸がギュッと縮んだ。
吐き気が込み上げてくる。
怖い。怖い。怖い。
心臓がバクバクと暴れ出す。
やっぱり無理だ。
こんなこと、絶対に違う。
私は、“選ばれたい”だけだった。
“売られる”ためにここにいるんじゃない。
「……ごめんなさい」
その一言が、やっと絞り出せた。
男が立ち止まる。
その顔が、少しだけ歪んだ。
「は?なんだよ、ここまで来て――」
私はもう、聞いていなかった。
全力で手を振り払おうとしたが、男が服を掴んで離さない。
「やだ……離してっ!」
泣きながら、叫んだ。
ぐちゃぐちゃな顔のままで、喉を引き裂くように。
やがて、通りの端に人だかりができ始めた。
誰かがスマホを構え、「ちょっと」と男に声をかけた。