第七夜 叫びと逃げ足
町田ライブの前日だった。
明日は、Masakiに会える。
それだけを糧に、私はこの1ヶ月を生きてきた。
制服のままバイトから帰宅し、真っ先に部屋の隅に積まれた古雑誌の山に手を伸ばす。
中ほどのページをめくると、そこに――あった。チケット。
でも、それだけだった。
チケットが一枚、ふわりと落ちたその下には、何もなかった。
一万円札が二枚。なければならないはずの、それが。ない。
「……え?」
雑誌をひっくり返して、何度も確認する。
床も机の下も探す。でもない。
記憶を辿る。隠したのは一昨日の夜。確かにあった。
なのに、今はもうどこにもない。
頭の中に、ゆっくりと憎悪の影が忍び込んでくる。
――犯人は、わかっている。
母がそんなことをするはずがない。
私が推し活のために毎日バイトしてることも知ってる。
理解してるとは言わないけど、応援はしてくれてる。
でも、あいつは――
あのクソオヤジだけは、違う。
何度もやられてきた。
財布から数千円抜かれるのなんて、もう慣れっこだった。
だけど、このお金だけは違う。
これは、喰われるための金だ。
私の祈りそのものだ。
ガタッと椅子を鳴らして部屋を出る。
居間のテレビはつけっぱなし。
テーブルにはビールの空き缶が3本と、開きっぱなしのコンビニの袋。
義父はソファでだらしなく座っていた。
怖い。
でも、聞かなきゃ明日、私はMasakiに会えない。
「……お義父さん、さ」
喉がひりつく。
言葉がつっかえる。
でも、絞り出す。
「お金……盗った?」
沈黙。
テレビの音がうるさくなる。
義父はゆっくりこちらを見た。
「あぁ? ……あー、ごっつぁんです」
そう言って、笑った。
空き缶をカランと鳴らしながら。
その顔に、罪悪感なんて一ミリもなかった。
心臓がドクンと鳴った。
喉が熱い。手が震える。
「……何してくれてんだよ、クソオヤジ!!」
思わず、叫んだ。
その瞬間、空気が変わった。
義父の顔から笑みが消える。
ゆっくりと、しかし確実に、視線が鋭くなる。
背筋に氷の柱が落ちてきたような感覚。
殺される。
そう思った。
直感だったけど、間違ってなかった。
カタン――!。
テーブルの上にあった空き缶が、私の額を掠めて飛んだ。
鈍い音と、火花のような痛み。
皮膚が少し切れたのがわかった。
声が出なかった。
怒りでも、悲しみでもなく、恐怖で。
私はそのまま、何も言えず、家を飛び出した。
外の空気は、7月とは思えないほど冷たかった。
財布もない。スマホとチケットだけ握りしめていた。
アパートの階段を駆け下りながら、涙がこぼれた。
それは痛みのせいじゃなかった。
怒りのせいでもなかった。
悔しかった。
Masakiに会いたかった。
そのためにバイトして、我慢して、節約して、やっと用意した“祈りの結晶”だった。
それを、あの男はビール三本とツマミに変えた。
何もかもがバカらしくなりかけた。
でも、ポケットに手を入れると、チケットがそこにあった。
その存在だけが、私を現実に引き戻す。
まだ終わってない。
私には、このチケットがある。
これを握っている限り、私は“喰われるチャンス”を失ってない。
夜の街を、制服のまま彷徨う。
どこへ行くのかも決めてない。
でも、家には戻らない。
あの男がいる限り、あそこは地獄だ。
明日、Masakiに会いに行く。
そのためなら、今夜どこで眠ってもかまわない。
私は、喰われる側。
食べ物は冷蔵保存しないと腐るんだ。
だったら今夜だけは――冷たい空気で自分を保つしかない。