表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/18

第五夜 未開封の優越

「大丈夫?顔、青ざめてるけど」


声をかけてきたのは、女の人だった。

スタッフTを着た細身の女性。前髪はきっちり揃えられ、爪もきれいに整ってる。

その人が誰かなんて、説明されるまでもなく分かった。


香織さん。


クリキャのマネージャー。Masakiの一番近くにいる存在。

噂では、初期からバンドを支えてきた“裏の母”的存在であり、“ラスボス”とも呼ばれている。


頭では分かっていた。でも、いざ目の前に現れると、胸の奥がズンと沈んだ。


私はMasakiに喰われたかった。

でも今、私の目の前にいるのは、Masakiを支える本物の“大人の女”。


たぶん、この人とMasakiは何度も同じ車に乗り、同じ楽屋で過ごし、同じ温度で夢を語ったことがあるんだろう。


“足元にも及ばない”


その言葉が、背骨のあたりにぴったりと貼り付いた。


「水、飲む?」


香織さんが、ペットボトルを差し出してきた。


「あ、それ、Masakiのステージドリンクだけど。予備のだから大丈夫。あげる」


私は一瞬、思考が停止した。


Masakiの水?


未開封の、透き通った500ml。

ラベルの折れ目すら美しいそれを、私は震える手で受け取った。


「……いただきます」


蓋を開け、口に含む。

冷たさが喉を滑り、胃の中へ落ちていく。

さっきまで鉄柵で圧迫されていたみぞおちが、少しだけ柔らかくなる。


でも、ほんの少し、残念でもあった。


未開封。つまり、Masakiの口はついていない。

“残り物”ですらない。


なんて贅沢な失望なんだろう。

でも、それでも嬉しかった。

だって私は今、Masakiの水を飲んでいる。


「ここ、部外者立ち入り禁止だから」


香織さんが、優しい声で言う。


「少し休んだら出ていってね。バレたら私たちが怒られるから」


――ああ、そうか。


Masakiは、今ここには戻ってこない。

いや、もしかしたら戻ってくるのかもしれない。

でも“私がここにいるうちには来ない”ということだ。


ほんの少しだけ抱いていた、夢みたいな期待。

あの人が帰ってきて、

「大丈夫だった?」って声をかけてくれるかもしれないっていう、そんな都合のいい妄想が、この一言で、ストンと音を立てて崩れた。


反論は、できなかった。

できるわけがなかった。

だって、私はただの“部外者”だ。


「すいません、もう大丈夫です。

ありがとうございました」


そう言って、私は水を両手で抱えながら、楽屋を後にした。


通路を抜けて、再び会場の入り口へ。

チケットをスタッフに見せ、今度は最後列の隅っこへ戻る。


さっきまでいた最前列は、もう遠く霞んで見えない。

でも、胸にはひんやりとしたペットボトル。

そこには、Masakiという名前の“優越感”が詰まっている。


照明がまた走る。

ギターが唸る。

Masakiの声が会場を震わせる。


私は、もう跳ねたり叫んだりできない。

でも静かに、ただ目で追いかける。

最前じゃなくてもいい。

私はもう、一瞬だけど、あの人の“少し隣”にいたから。


それだけで、少しだけ特別になれた気がした。


もらった水を握りしめながら、私は心の中でそっと呟いた。


――ごちそうさまでした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女子高生 推し活 バンド 音楽 家庭崩壊 青春 病み 成長
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ