第五夜 未開封の優越
「大丈夫?顔、青ざめてるけど」
声をかけてきたのは、女の人だった。
スタッフTを着た細身の女性。前髪はきっちり揃えられ、爪もきれいに整ってる。
その人が誰かなんて、説明されるまでもなく分かった。
香織さん。
クリキャのマネージャー。Masakiの一番近くにいる存在。
噂では、初期からバンドを支えてきた“裏の母”的存在であり、“ラスボス”とも呼ばれている。
頭では分かっていた。でも、いざ目の前に現れると、胸の奥がズンと沈んだ。
私はMasakiに喰われたかった。
でも今、私の目の前にいるのは、Masakiを支える本物の“大人の女”。
たぶん、この人とMasakiは何度も同じ車に乗り、同じ楽屋で過ごし、同じ温度で夢を語ったことがあるんだろう。
“足元にも及ばない”
その言葉が、背骨のあたりにぴったりと貼り付いた。
「水、飲む?」
香織さんが、ペットボトルを差し出してきた。
「あ、それ、Masakiのステージドリンクだけど。予備のだから大丈夫。あげる」
私は一瞬、思考が停止した。
Masakiの水?
未開封の、透き通った500ml。
ラベルの折れ目すら美しいそれを、私は震える手で受け取った。
「……いただきます」
蓋を開け、口に含む。
冷たさが喉を滑り、胃の中へ落ちていく。
さっきまで鉄柵で圧迫されていたみぞおちが、少しだけ柔らかくなる。
でも、ほんの少し、残念でもあった。
未開封。つまり、Masakiの口はついていない。
“残り物”ですらない。
なんて贅沢な失望なんだろう。
でも、それでも嬉しかった。
だって私は今、Masakiの水を飲んでいる。
「ここ、部外者立ち入り禁止だから」
香織さんが、優しい声で言う。
「少し休んだら出ていってね。バレたら私たちが怒られるから」
――ああ、そうか。
Masakiは、今ここには戻ってこない。
いや、もしかしたら戻ってくるのかもしれない。
でも“私がここにいるうちには来ない”ということだ。
ほんの少しだけ抱いていた、夢みたいな期待。
あの人が帰ってきて、
「大丈夫だった?」って声をかけてくれるかもしれないっていう、そんな都合のいい妄想が、この一言で、ストンと音を立てて崩れた。
反論は、できなかった。
できるわけがなかった。
だって、私はただの“部外者”だ。
「すいません、もう大丈夫です。
ありがとうございました」
そう言って、私は水を両手で抱えながら、楽屋を後にした。
通路を抜けて、再び会場の入り口へ。
チケットをスタッフに見せ、今度は最後列の隅っこへ戻る。
さっきまでいた最前列は、もう遠く霞んで見えない。
でも、胸にはひんやりとしたペットボトル。
そこには、Masakiという名前の“優越感”が詰まっている。
照明がまた走る。
ギターが唸る。
Masakiの声が会場を震わせる。
私は、もう跳ねたり叫んだりできない。
でも静かに、ただ目で追いかける。
最前じゃなくてもいい。
私はもう、一瞬だけど、あの人の“少し隣”にいたから。
それだけで、少しだけ特別になれた気がした。
もらった水を握りしめながら、私は心の中でそっと呟いた。
――ごちそうさまでした。