第四夜 楽屋にて、開封準備中
今日の戦場は横浜だ。
クリキャの本拠地、そして“聖地”とされる箱。
ここでのライブは、いつもより空気が張り詰めてる。
最前列の競争率はいつにも増して高い。
入場整理番号、ギリギリの数字。開場と同時に走って、ぶつかって、引っ張られて、それでも――私は最前の鉄柵を掴んでいた。
場所を取れた。それだけで手が震えた。
「今日、喰われるかもしれない」
そんな予感だけで、ろくに食べずに来た。
頭が少しぼんやりしている。でも、関係ない。
私は今日ここで、Masakiの目に焼きつけられる。
照明が落ちる。客席が揺れる。
イントロが鳴る。
私の呼吸が、音と重なる。
クリキャのライブは、もう“儀式”に近い。
音を浴びるっていうより、魂を焚かれるような感覚。
周りの女たちも、鉄柵を握りしめ、叫びながら神に縋っている。
だけど――後ろからの圧がすごい。
まるで“もっと喰われたい”という群れの欲望に背中を押されるみたいに、私は柵に押しつけられた。
胃が、鉄の棒に食い込む。
空っぽの腹に、何か重たいものが突き刺さる。
呼吸が浅くなる。指先が痺れてきた。
「大丈夫、大丈夫。耐えろ。私、今日ここで……」
視界が少し揺れる。脚に力が入らない。
意識が飛びそうだ。
それでも私は、顔を上げた。
Masakiがいた。目の前に、いた。
私のすぐ上で歌っていた。
汗の粒が、光を反射して跳ねていた。
目が合った――気がした。
心臓が跳ねた。鼓膜が焼けた。
叫ぼうとしたけど、声が出ない。
代わりに、視界が真っ白になった。
そのとき。
Masakiが、歌いながらスタッフのほうを見て、何かを指さした。
私だった。
ステージ横から、黒服のスタッフが走ってくる。
「立てる?」と声をかけられ、気づけば私はその手に支えられて、最前列の人混みから引き抜かれていた。
客席を抜けて、会場の横通路へ。
体は震えていたけど、意識ははっきりしていた。
――楽屋。
ここが、あの人たちの“裏側”。
モニターには、まだライブが映っていた。
ステージは続いている。
観たかった曲も、これから始まるかもしれない。
でも、私の中にはそれよりもずっと強い感情があった。
優越感。
他の女たちは、最前にしがみついている。
Masakiの汗も声も、全部浴びながら。
でも、私だけが“選ばれて”楽屋にいる。
しかもMasakiの指差しで、だ。
あの瞬間、私は“指名された”のだ。
頭がふらつく。
でも心は、異様に冷静だった。
このまま、ライブが終わったら――
Masakiはここに帰ってくる。
私がここにいること、きっと知ってる。
もしかしたら声をかけてくれるかもしれない。
「大丈夫だった?」って、あの低い声で。
そして、もしそのまま、ほんの少しでも目を合わせてくれたら――
その瞬間、私は賞味期限を迎えるんだ。
ずっと“開封待ち”だった私が、
ついに、封を破られるときが来るかもしれない。
スマホを取り出して、自撮りを一枚だけ撮った。
血の気の引いた顔。でも、ちゃんと笑っていた。
今夜、私が喰われるかどうかは、まだわからない。
でも、“喰われる女の準備”はもうできている。
私は椅子に座って、手を握った。
その中にあるのは、願望か、幻想か、それとも――
喰われる瞬間の、リハーサルだった。