第十七夜 音が静まる
工事は、もう一週間も続いていた。
始まるのは午前八時。
ドガガガッとアスファルトを削る音、掘削機の地響き、怒鳴り声。
店の前に立つだけで頭痛がしてくる。
心が空っぽになった分、音だけが響き割れてしまいそうで、とてつもないストレスだった。
あれ以来、私はMasakiのニュースを見ないようにしていた。
何が新事実だの、ファンの証言だの、もうどうでもよかった。
スマホの通知は全部切って、音楽も聴かず、SNSも見ず、ただ日常をこなすだけ。
午前十時、工事の休憩時間になると、決まって誰かが飲み物を買いに来る。
だいたい若い下っ端の兄ちゃんが、缶コーヒーやお茶を十本ほど並べてくる。
今日もその時間だった。
私はレジの横で新商品の値札を差し替えていた。
「これ、全部ください」
その声に顔を上げると、いつもの兄ちゃんじゃなかった。
目が合った瞬間、呼吸が止まった。
Masakiだった。
ヘルメットをかぶって、反射ベストを着て、土まみれの軍手をつけていた。
額から汗が流れ、Tシャツの背中は汗じみで色が変わっている。
……Masaki?
でももう、あのときのMasakiじゃなかった。
私の王子様でも、神様でもない。
ステージの上で輝いていた人でもない。
ただの人だった。
土と汗と、疲れと、沈黙の中に立っていた。
Masakiはバツが悪そうに目を逸らした。
私は不思議なくらい、何も感じなかった。
怒りも、悲しみも、羞恥もなかった。
ただ――
“あ、Masakiって、こんな声だったんだ”
それだけだった。
缶コーヒー、お茶、スポーツドリンク。
レジに並べられた飲み物を、私は無言でスキャンしていく。
「ポイントカードは……」
言いかけてやめた。
別にどっちでもよかった。
袋に飲み物を詰め、レジ袋の口をギュッとねじって渡す。
Masakiは何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
ただ、レシートだけがパサリとカウンターに落ちた。
Masakiは袋を受け取り、小さく会釈だけして、何事もなかったように店を出ていった。
ドアが閉まり、冷房の風が揺れる。
そのときになって、私はようやくひとつ息を吐いた。
手は、驚くほど冷たくて、力が抜けていた。
「終わったんだな」
口には出さなかったけど、頭の中でそう思った。
神様は、ちゃんと人間に戻っていた。
そして私は――
ただのレジ係だった。
あれだけ騒音がストレスだったはずなのに、今はもう、何も聞こえなかった。
ドリルの音も、クラクションも、怒鳴り声も、
まるで透明になったみたいに、スッとどこかへ消えていった。
レジの液晶には、まだMasakiの買った飲み物の履歴が表示されたままだった。
私はその画面を見つめたまま、
次の客が来るのを、ただ待っていた。
……けど、
時間が経ってから、じわじわと胸に刺さってくるものがあった。
悔しい。
でもそれは、Masakiに対してというより――
あんなにも本気で追いかけてた夢が、あっけなく転がり落ちたことへの悔しさ。
自業自得とはいえ、きっとMasakiも悔しいよね。
あれだけファンがいて、デビュー目前で。
神様みたいに光ってたのに、今じゃ汗と泥にまみれて、誰にも気づかれず、ただ働いてる。
何を思ってるんだろう。
後悔してるのかな。
それとも、もう前を向いてるのかな。
知る由もないけど――
悔しいよね、Masaki。
たぶん、私も、同じくらい。