第十六夜 穴の空いた世界で
あれから、一ヶ月が経った。
私はまた、日常に戻った。
コンビニの制服に袖を通し、無表情のままレジを打ち、ペットボトルを補充する。
廃棄のおにぎりを詰めた袋を抱え、ゴミ収集場まで運ぶ。
抜け殻みたいに。
全部、手順どおりに。
何も感じないように。
Masakiにああまで言われたあの日から、私はもうライブにも行っていない。
いや、行けるわけがなかった。
最前で、人生をかけて願った言葉を、まるで冗談みたいに返された。
「なんか美味いもんでも食わしてくれるの?」
「え……いや……お金はありません……」
あのやり取りは、私の中で何度も再生された。
夜中、寝る前、レジの最中、トイレ掃除の途中。
ふとした瞬間に蘇るあの温度差が、
私の“祈り”を笑い物にしてくる。
Masakiのライブに通っていた頃の私は、なんてバカだったんだろうって思う。
でも、あの頃が一番、生きてた気がする。
「お疲れー。今日から外、うるさいよー」
店長が何気なく言った。
今日から、店の前の道路で工事が始まるらしい。
うるさくて当然だ。
ガガガッと削る音も、ドドドッと地響きのような重機の音も、
全部、イライラのもとになった。
「うっせーな……」
私は小さく舌打ちして、事務所の椅子に沈んだ。
休憩時間にスマホを開く。
無意識にニュースアプリを開き、スクロールする。
いつものくだらない芸能ネタに混じって、あるタイトルが目に飛び込んできた。
【速報】人気インディーズバンド「Crimson Cat」ボーカル、未成年と淫行か
警察が任意聴取へ 事実上の解散報道も
心臓が止まった気がした。
目を疑って、でも何度読み返しても、そこにはMasakiの名前があった。
手が震えていた。
スマホを落としそうになりながら、それでも画面をスクロールする。
ファンのコメント。批判の嵐。
「やっぱりね」
「前から噂あったよ」
「喰われ女、量産してたらしいし」
嘘だろ、Masaki……
何やってんだよ……
怒りか?
悲しみか?
呆れか?
わからなかった。
ただ、胸の奥に空いた穴に、風が吹き抜けていた。
ものすごい音で工事が始まっているはずなのに、その音さえ、耳に入らなくなっていた。
私がずっと“喰われたい”と願ってたのに、未成年だからって断られた。
なのに他では、ちゃんと“喰ってた”って何それ――ふざけんなよ。
あの人が、ほんの少しでも“特別”を感じてくれてたらよかった。
私が、ただの一人だったとしても。
それでも、どこかに本物の祈りが届いていたらと、信じたかった。
でも、あの人は、全部を喰ってた。
私が一生分の勇気を出して言ったあの言葉も――
きっと、どこかの“食べ放題”の一部だったんだろう。
事務所の蛍光灯がチカチカと瞬く。
外の騒音はますます大きくなってるはずなのに、私は音も光も、何も感じなくなっていた。
空っぽ。
真っ白。
ただただ、虚しい。
喰われることすら拒まれ、でも、他の誰かは喰われていた。
私の祈りは、何だったんだろう。
スマホの画面を閉じた瞬間、
自分が深く息を吐いていたことに気づいた。