第十五夜 この夜が終点
ライブ会場に足を踏み入れた瞬間、懐かしい匂いが鼻を刺した。
ドリンクカウンターの湿ったカップ、ケーブルの焼けた匂い、密集した汗と香水の混ざりあった空気――
二ヶ月ぶりだった。
けれど、記憶の中と何ひとつ変わっていない。
この空気が、私の神様を運んできた場所。
ここにいれば、Masakiに会える。
ただそれだけで、まだ生きてる気がした。
もう誰を喰ったとか、誰が喰われたとか、そんなのはどうでもよかった。
あの女がどこにいようが知ったこっちゃない。
ステージの上に立つMasakiに、私は“人生を賭ける”って決めた。
今日、ここで終わってもいい。
逆に言えば、今日で終わりにするために、私は来た。
手は冷たく、指先はしびれていた。
でも足は、迷いなく最前列へ向かっていた。
人の波をかき分ける。
誰かに睨まれても、押し返されても、気にならなかった。
あの光の中で、Masakiが歌う。
そして、私の方を見た時――
全部、終わる。
開演時間が近づく。
照明が落ちて、ステージが青く染まっていく。
ギターが鳴り、ドラムが響き、
私は、両手を突き上げた。
Masakiが、出てきた。
いつもと変わらない。
なのに、今日だけは違って見えた。
目が合った、ような気がした。
いや、絶対に合った。
それだけで、もうどうでもよかった。
ステージから何メートルも離れてない場所で、
私は心の中で、何度も繰り返していた。
「こっち見て」
「名前呼んで」
「もう何でもするから」
「お願いだから、私を喰って、いや、喰え!」
ライブが進むごとに、照明は眩しく、音は大きく、そして心臓の音もどんどん重くなる。
Masakiが、汗を飛ばしながら叫ぶ。
「ラスト、ぶっ壊れていけぇぇぇぇ!」
私は喉が裂けるまで声を出した。
拳を振り上げ、飛び跳ね、涙が止まらなかった。
この夜のために生きてきた。
それが、とうとう終わろうとしていた。
ライブが終わり、照明が戻り、会場がざわつく。
でも私は動かない。
そのまま最前で、Masakiがステージを降りるのをじっと見つめていた。
そして終演後、意を決して――
出口へ向かうMasakiの背中を、追いかけた。
もう、どう思われたっていい。
これで終わるんだ。
だったら、ぶつけるしかない。
「Masaki――!」
声が出た。
彼が振り向いた。
私の王子様。
神様だった人。
この人生の、すべての中心だった存在。
私はMasakiに、意を決して言った。
「今日……この後……私を喰ってください!」
言った。
言ってしまった。
もう止められなかった。
Masakiはほんの一瞬だけ眉を動かし、それから軽く肩をすくめた。
「……なんか、美味いもんでも食わしてくれるの?」
「え……いや……お金はありません……」
Masakiは、困ったように笑って、
ほんの少しだけ、首を横に振った。
「……飯を奢る金もないか…
まして、未成年に手は出せねぇよ」
まるで、前もって準備していた台詞みたいだった。
その瞬間、
どこかで、バキッと音がした気がした。
胸の中で、何かが砕けた。
背後から笑い声が聞こえる。
あの女だった。
Masakiのいる場所で、今日もあの位置から私を見下ろす女。
薄い笑みを浮かべて、見下すように、
Masakiの隣にいた。
Masakiは何も言わず、そのまま去っていった。
そして私は、ただその場に立ち尽くしていた。
終わった。
たったそれだけの夜だった。
だけど、人生最大の目的だった。