第十三夜 底はまだある
女子会の帰り道、少しだけ息がしやすかった。
笑った。毒を吐いた。
「わかる~」って言い合って、ぶどうジュースで乾杯した。
Masakiのことを笑って語れる女たちの中にいられるだけで、
自分が“まだ誰かでいられる”ような気がした。
だからこそ――
玄関の靴箱に、あの人の靴がないのを見て、ホッとしてしまった自分がいた。
二度と帰ってこなければいいのに。
そう思った瞬間、少しだけまた呼吸が楽になった。
「……真依、いる?」
ドアの向こうから、母の声がした。
開けると、母はいつになく沈んだ顔で立っていた。
手にはスーパーの袋。
それなのに、どこか帰ってきたというより、帰れなくなったような雰囲気だった。
「ちょっと、話があるんだけど」
リビングに座ると、母はため息をひとつついて言った。
「あの人、入院したって」
「……は?」
「現場で脚立から落ちたらしいの。腰の骨、折ったって。
動けないって。しばらく、仕事できないって」
目の前が少しだけぐらついた。
「あの人名義のアパートだし……
今後のこと、考えなきゃって。
ごめん、真依。協力してくれない?」
母の言う“協力”の意味なんて、すぐわかる。
あれだけ殴られて、財布から金を抜かれて、
それでも今、いなきゃいないで、また生活が壊れる。
私は、また引き裂かれる。
あの人がいなければ、何かが始まる気がした。
でも、あの人がいないと、何も始まらない世界だった。
数日悩んで、私は決めた。
学校をやめる。
この家には、これ以上の余裕がない。
母は昼も夜も働いてるけど、それでも足りない。
私はもう高校生を演じる余裕すらない。
制服は脱げる。でも、推し活は脱げない。
……と思ってた。
でも、現実は甘くなかった。
退学が決まって、最初に頭に浮かんだのは、
「ライブ、行けないな」だった。
チェキも、遠征も、グッズも。
全部が、遠ざかる。
Masakiが遠いなんて、今に始まったことじゃないけど、
チケットさえ買えない距離になるなんて思ってなかった。
“喰われたい”なんて、もう笑えない。
Masakiに触れられるどころか、
顔すら思い出されないまま、
私はこの街の生活に、喰われていく。
「死ぬかも」って思った。
本当に、ふっとそう思った。
生きてるって感じ、ないし。
喰われる前に、腐って消えるだけかもしれない。
コンビニのレシートと、冷えた水とおにぎり二つ。
それが今日、私に与えられた唯一の支払い可能な祈りだった。
夜、天井を見つめながら、私は心の中で呟いた。
あーあ、また神様から遠ざかった。