第十一夜 祈って、隠れて
ライブハウスの入り口は、いつもより静かに感じた。
騒がしいはずの開場のざわめきが、耳の奥で鈍く響く。
私は、入場列の最後尾で小さく呼吸を整えながら、鞄の中のチケットを何度も確認していた。
折れ曲がったままの紙片。
昨夜の地獄をくぐり抜けた、それでも生き残った祈りの証。
いつもなら、前のバンドのラスト曲に合わせて会場へ飛び込み、最前を狙う。
少しでもMasakiに近づくため、誰よりも光を浴びるため、靴音を鳴らして走った。
でも今日は、そんな気になれなかった。
開演五分前、バンド差し替えの隙にそっと会場に入る。
できるだけ目立たないように、帽子を深くかぶって。
昨日の“私”を、誰にも気づかれないように。
中列付近の隙間に滑り込み、肩をすぼめて立つ。
そして――
視界の端で見つけてしまった。
昨日のあの女。
後ろの壁にもたれかかり、腕を組み、笑っていた。
表情に余裕がある。
前に出る必要すらないとでも言うような、“見守ってます感”。
「昨日、私、Masakiに喰われました」
それが、彼女の全身から漂っていた。
知らなきゃよかった。
見なきゃよかった。
でも、見てしまった。
その顔、その立ち位置、その空気。
癪に触る。
私はもう一度、帽子を深くかぶって視線を落とした。
見つからないように。見られないように。
だけど、ライブが始まった瞬間、
音がすべてを切り裂いた。
ギター。
ドラム。
照明。
そして――Masakiの声。
一音目で、全部がどうでもよくなった。
やっぱり、Masakiは神様だった。
叫んで、笑って、跳ねて、泣いて。
周囲の視線も、昨日のことも、頭の奥へ押し込まれていく。
この人の声が、今も私を生かしてる。
それだけは、誰にも奪わせない。
曲が終わるたび、照明が切り替わるたび、
私はただ、光を浴びる観客のひとりに戻っていた。
けれど、ライブが終わったあと――
その魔法は、あっけなく解けた。
出口に向かう途中、後ろから声が飛んできた。
「……あ、昨日の援交女じゃん」
ぞくっ、とした。
心臓が凍るような音が、耳の奥で鳴る。
だとしても――
こんな場所で言うか?
Masakiの声を聴いた直後だった。
祈りの空間が、また汚された。
私は顔を上げなかった。
上げたら、泣き出してしまうのか。
それとも、殴りかかってしまうのか。
もう、自分でもわからなかった。
足早に会場を出る。
物販の列には並ばない。
というより、買う金がない。
Masakiの声だけは、今日も受け取った。
でも、それだけだ。
それしか、なかった。
手に何も残っていない気がした。
帰り道の自販機で、110円の水を買って飲んだ。
それが、今日の唯一の“記念品”。
夜の町田の風は冷たかった。
けれど、ポケットの中のチケットの半券は、まだほんのり温かかった。
あの女がいなければ、完璧な夜だったのに。
そう思ってしまう自分が、誰よりも嫌だった。