第一話 やがてお掃除ロボットでさえ俺達を殺しにくるのか? 3
ブレーキ!
胸の下にあるバックルに内蔵された、リモコンのブレーキボタンを押した。
「止まれぇぇぇ!」
フルハーネスが圧縮した空気を一気に吐き出すコンプレッサーのような、かしがましい音を立てた。
待てよ。こんなスピードからブレーキをしたら、おもいっきりGがかかって、俺の体はバラバラになるんじゃないかーーーーーー。
ーーーという懸念を持つも、スピードが一気に殺される事もなく徐々に収まり、やがて虎ノ門の景色が元通り視界に広がった。
ただその光景にゾッとした。さっきまで結構な距離があったはずの東京タワーにほんのり近づいている。
どうやら自分自身が張り付いていたビルから、百メートル以上も東京タワーの方向へ吹っ飛んだらしい。
ワイヤーが長くて助かった。
でもなければ俺の体はワイヤーの張力とフルボディハーネスに引かれて、バラバラになっていただろう。
またはワイヤーが切れて、どこかのビルに激突しているかだ。
まぁ青森さんがブレーキ指示をしなかった場合だけども。
「大丈夫か! 次秀」
「はい! おかげさまで助かりました!」
「よかった。今のは危なかったけども、お前やったらすぐに慣れると思った。ホンマによかった、あの人形みたいにならずに済んで……」
あの人形。
ぶっ壊れた二体の人形のことか。
ん、待てよ……。
「……もしかして青森さん」
「ん?」
「壊れた人形って今、俺がやったみたいに……」
「え……?」
「リミッターを外してぶっ飛ばしたから壊れたんですか?」
「悪い!次……秀……ノ……イズが」
「いや、聞こえてるでしょ……?」
マジか。
この人、最初っから俺を実験体としか見てなかったのかよ!
「とりあえず、ワイヤーで引っ張るから……ごめんなさい。機嫌直して下さい」
「……いいですよ、もう。っていうか、あのですね……青森さんは俺にどうして欲しかったんです?」
「え、どうって?」
「俺がこの装置の操作に慣れて、自由自在に動き回れたら、メリットがあるのかどうかを訊いてるんですが」
「え? そりゃもちろん! そうなったら商品化に前進するはずやからな。特派の仕事だけやと間があるし、たまには開発にも携わりたくってやね」
「分かりました、協力しますよ」
「え!? マジで!? 怒ったんやないんか?」
「ちょっとムカついただけです。今度からこういう事は先に言って下さい」
「分かった! ありがとう次秀きゅんサイコー!」
俺が今やれる選択肢を渡しただけで、いきなりこうも態度を変えるのは、よほど困っていたんだな。
いきなり実験台にされるより、先に聞いていた方がいくらかマシだ。
それにこの浮かんでいる状態が結構、気に入った。
とりあえず青森さんは人に物事を頼むのが、苦手な人なんだ、よーく分かった。
そう納得して自己完結したところで、さっきの失敗を鑑みる。
この装置は軽いアクションを起こした程度だと、あまりに弱い力なので反応するのに少し時間がかかる。
かなり繊細な力加減がこの装置の要なのだ。
それが分かったところで、今度はさっきよりも少し強く、片手クロールで右腕を回したら。
『おっ』
なるほど、体が滑らかな並行移動を始めた。
時速二キロと表示されている。歩くスピードとほぼ同じだ。もう少し余力を付け足して、手で一回だけ扇いでみた。
さらにスピードが増して、時速六キロとなった。
まったりとしたジョギングぐらいの速さだ。
「早いな、もう慣れたか」
「青森さん。この装置は西条さんも開発に関わってるんですか?」
「そや。アイツと俺が二人で製作総指揮に当たったんやけど……なんでや?」
「いえ、ちょっと気になったんです」
それで分かった。
西条さんのあだ名”反社会性アインシュタイン”となぜ名づけられたのか。
安全性の課題ばかりが、かなり山積……いや、始めから安全性なんて考えもしていないのだろう。
安全かどうか、それを確かめる為に危険を伴う実験をして生き残れたら安全、と初めてそこで安全という言葉が示される飛び道具ばかり作っているからだ。
『それにしても……』
チラリと目をやれば、足元と目の前はコンクリートジャングル。
あまり考え過ぎると怖いので、ジオラマの中だと自分に言いきかせる。
ただこの状況。
地上や他のビルの中にいる人からすれば、かなりシュールで気持ち悪い奴。
と、きっと俺の事がそう見えているはずだ。
そう、客観的に考えればだ。
柔らかな陽光が、全身をユルユルに包む四月のお空。
そんな気層のひかりの底。
なんだあれ……と、誰かが誰かに声をかけられて見れば、下へと垂れるはずのワイヤーが、何故かダランと横に伸びて、その先にプカプカと浮かんでいる人間がいる。
そんな人間が虎ノ門のビルの隙間を子供の頃に遊んだ、突き挿さっている棒を動かして遊ぶ、サッカー盤の人形みたいに中空をスライドしている。
俺の事はクラムボンって事にしておいてもらおう。
ともあれ、本当に軽快に進む。
なんだかんだで最初の僅かな力だけで、等速運動を続けるこの装置の性能に驚くんだけど。
『と……』
どーでもいい事を考えている間にビルに戻って来た。
今度は前の方で軽く手を振って、ブレーキ代わりに減速をする。ハエや蚊などを追い払う動作だ。
目当てのリュウグウノツカイは、もう少し下の方向。
少し下降するために、今度は頭上を軽く払う。
慣れればこの装置、かなり便利だ。
「よーし、ありがとう次秀。上出来も上出来や。リュウグウに近づく時はブレーキかけてくれな」
「了解しました」
どんどんとビルの中ほどに、体が潜っていく。
いや……正確に言えば潜っているんじゃなく、地球の重力の方向へと落ちているんだけども、感覚が狂うなコレ。
『ここでブレーキと……』
体をゆっくり下降させたそこで、薄くて長い体を持つ、リュウグウノツカイの目の前に来た。
頭から尻尾までズラリと並んでいる、虫の触覚みたいな背ビレが全て異様に長い。
本物のリュウグウノツカイの長いヒレは頭部だけだけども、この長い背ビレが衣類を吸着する役割を果たしていて、衣類をその姿のまま干せるようになっている。
そして、風通しを良くするために、上下左右に一本、一本独立したヒレが開くように出来ていて、前から見ると魚の姿をした千手観音になっているはず……。
『しっかし……』
あの二人……青森さんと西条さんのセンスは、やっぱりおかしい。
”ド”が付くほどの三白眼の黒目がハッキリとしていて、文字通り”死んだ魚の目”が近づく俺とイヤに視線が合う。
虫の息となった魚に、恨みつらみの目を向けられているみたいだ。
コイツ……遠目からだと分かりづらかったけど。
近くで見ると、気持ち悪いぐらいに再現度が高い。
赤くて長いヒレはもちろんの事、ぬらぬらギラギラと銀色に光った体は、細かい血管までもが外皮に這っている。もう見ているだけで魚の匂いが漂ってきそうだ。
よく村井部長や会社も、商品化のゴーサインを出したものだ。
もしかすると特殊な付加価値でもあるのか?
「どうや回収できそうか? 次秀」
「あ、はい。今、抱きかかえて上昇します」
マジマジと観察するのを止めて、胴体の真ん中に手を伸ばすと。
何故かリュウグウノツカイがその身を反転させた。風向きが急に変わったフラッグのような動きだ。
気のせいか……俺の手から逃れるように見えたが……。
「青森さん。コイツ、無関係な人間から洗濯物を守る、窃盗防止の機能とか付いてます?」
「なんやそれ。いや、そんなもん付けてないけど。雨を携帯に知らせてくれるぐらいで、どうかしたんか?」
やっぱりセンサーの故障か。たまたまだよな。
「いえ、なんでもありません」
もう一度、胴体に手を伸ばす。
あんまり素早く手を伸ばすと、その動作で推進力となり、俺の方が吹き飛ぶことになるから慎重に。
そう考えて胴体を掴もうとすると、今度は明らかに胴体を引っ込めて顔を俺の方へと向けた。
「オイ、気安く触るな……人間め……」
「!」
三白眼の両面を向けて、俺に啖呵を切った。
「青森さん……コイツ……リュウグウに会話の機能って付いてます?」
「そんな高級なモンは付けてな……まさかソイツ何か言うたんか?」
「俺に”触るな”って言いました」
「ありえん……。それはペッパーミルが自らの胡椒でクシャミするぐらい無い話や。いや、まさか……」
「なんです?」
「こんなとこで徘徊してる事といい、誰か、魔改造した操縦者がイタズラしとるか……次秀、一旦、上昇して戻ってこい」
ふと。
ヒュン、と風を切る音がした。
さらに次にはパン!と、乾いた音がビルに反響して鳴り響いた。
その二つの音の正体は、俺の体がまたもやビルから突き放されている事で理解した。
リュウグウノツカイが尾っぽの部分で、鞭を打つように強烈な一撃を俺に喰らわせたんだ。
腹にもらった俺は息も出来ず、体をくの字に曲げたまま、後方にぶっ飛んでいるという事だけ把握できた。
「次秀!!」
さっき飛んだ時に感じたスピードよりもずっと速い。
ビル群の景色が視界の中で、ムンクの叫びのごとく歪む。
今度は俺のミスだ。
あぁ、俺、今度こそ詰んだな……。