第六十八話 終を迎えし風 ②
―――水しぶきが舞う空間で、神風の風の字は危機感を覚えていた。紅い流星に不意を突いた一撃を与えたとはいえ、この程度の攻撃で沈むのであるならば、敵は艦名だけで呼ばれていることだろう。
無論、神風の風の字の予想は的中し、紅い流星は水しぶきの中から黒い影を覗かせた。紅く光るその瞳の輪郭は、強者としての威厳を見せつけている。
そして、水しぶきが晴れた時、両者は再び睨み合った。
「先ほどの攻撃、見事であった。我でも気づくことができなかったのだ、誇りを持って散るがよい」
「そんなこと言ってて大丈夫? お前の正体、今こそこの目で確認したわよ」
神風の風の字の視線は、紅い流星の胸元をはっきりと捉えている。その視線の先に映るのは、僅かに見える紅い光だ。
複数の爆雷が爆発したことにより、体を覆っていた漆黒のローブの一部が裂けたようだ。その隙間から見える紅く光る何かは、紅い流星の心臓部を意味しているのだろう。
元より、紅い流星はこれまで刃を交えたどのような敵とも違う。ましてや、これまでの敵に骸骨の敵は存在しなかった。それが突如、骸骨となって現れたとするならば、何かしらの仕掛けがあると考えるのは自然なことだろう。
しかし、紅い流星はそんなことを意に返さない。それどころか不気味に笑い、神風の風の字をより強いまなざしで見つめる。
「そんなことを知ってどうする? 貴様が死ぬことに変わりないのだぞ」
「誰がこんな場面で死ぬのよ。私は神風の風の字、自然災害以外で命を落とすことはない」
なんと言えば良いのか表しようがない。決して油断しているわけではない。それでもなお、両者は本気を出していないように見える。
だが、それと同時に未来を見据えるその瞳は、明確な光を宿していた。
そして、神風の風の字は前に踏み込み、紅い流星を斬るべく動き出した。この先の未来は二つの道がある。または第三の未来があるのかもしれない。それでも今は、賭けに出るしかない。
紅い流星は両手を広げ、脇腹付近に赤黒い靄が出現させる。それは、神風の風の字が徨龍剣術を使用した際にも見た死の具現化。その未来は予想していた。
次の瞬間、赤黒い靄の中から数本の閃光が伸びる。それは尾を引きながら、神風の風の字をこの世から消す軌道を進む。
神風の風の字は予想していた未来を回避するべく、持ち前の機動力で迫りくる死に対応する。その分速度は失われるため、大きな隙を生んでしまう。そして、それを紅い流星が見逃すはずがない。即座に追撃の閃光を放つ。
神風の風の字は明確な殺意を孕んだ閃光を避けるべく、回避を行おうとする。だが、ここで己の冒した無謀とも言える判断が牙を剥いた。
腹に走ったのは、何かが裂ける痛みと生暖かい液体の滴る感覚。鉄錆の匂いを発するそれは、自身に制約を課した忌々しいものだ。それは同時に、体の動きを一瞬だが封じた。それが刺すことは、殺意を孕んだ閃光を躱すことが困難であることだ。
神風の風の字は必死に体を捻る。損傷を最低限に留めるためには、軋む体を必死に動かすしかなかった。
しかし、その努力も虚しく閃光は体に突き刺さり爆発を起こす。左肩に命中したそれは、多連装噴進砲を完全に破壊し、腕を斬り落としたくなるほどの痺れを残した。
「対艦誘導弾……その攻撃は本当に厄介ね……」
「なんとでも言うがよい。我の真骨頂はこれなのだ」
神風の風の字は左肩を押さえながら言い、紅い流星は赤黒い靄を発生させながら言う。手のひらで踊らされる感覚は途絶えず、心理戦が続く。
だが、その結果は神風の風の字の劣勢に傾きつつある。腹の傷が開いた今、眼前の死に打ち勝つことはほぼ不可能に近くなった。
それでもなお、神風の風の字は戦うことをやめない。残っている右肩の多連装噴進砲から、対艦弾頭の噴進弾を数発発射する。閃光とまではいかないが、それは十分な速度を持っていた。
しかし、紅い流星はそれさえも軽々と躱してしまう。攻撃を受けずに一方的に神風の風の字を追い詰めるその姿は、まさに怪物と言っても過言では無いだろう。
紅い流星はそれらを躱すと同時に、神風の風の字の懐を侵略する。それはまさに電光石火。先ほどよりも速くなった速度に、神風の風の字は僅かな遅れを取る。
次の瞬間、再び火花が散る。紅い流星の攻撃を神風の風の字は受け止めるが、それは本当に紙一重のところであった。今でさえ、若干紅い流星に押されかけている。
だが、この間合いは神風の風の字にとって好都合だった。瞬時に紅い流星を押し返すと、再び距離を確保するべく後方に飛ぶ。
その刹那の間に、神風の風の字は罠を仕掛けた。海中に投下したそれは、紅い流星の目がとらえることはできなかった。それはあまりにも致命的で、神風の風の字は手の中で踊らせる状況に持ち込もうとしている。
再び、神風の風の字は斬り合いから撤退し、安全圏へと避難する。
それを視認した紅い流星は、神風の風の字を追撃するべす瞬時に動く。
だが、それと同時に目に入ったのは、神風の風の字が握る何かしらの起動スイッチ。それは既に押され、何かが動き出していことが分かった。
―――海中から姿を現したものは、金属で造られた無数の鎖。その先端には鉤爪が取り付けられ、対象を捕獲するためには最適な作りをしていた。
神風の風の字の狙いはこれだった。例え効果はなくとも、ほんの一瞬だけでも、紅い流星の動きを封じるための時間が欲しかった。
鎖は狙い通り、紅い流星を四方八方から拘束し、互いに絡み合う。その効果によって、紅い流星は動きを封じられた。
立て続けに神風の風の字は発煙筒を放り投げる。それは紅い流星の視界を覆い、一瞬の内に白の世界作り出す。
紅い流星は身を捩り、鎖の強度を確認する。どうやら粗悪品の鉄が使われているらしく、本気を出せば破壊できないことはない。だが、それは今ではない。
次の瞬間、神風の風の字が視界に映る。一瞬の内に斬撃を入れ、紅い流星のローブが裂ける。それは身に届かずとも、核を覆う体には確実に負荷をかけている。
そして、その攻撃は何度も繰り返された。鎖が斬撃の邪魔をする中、何度も、何度も、これでもかというほど斬撃は撃ち込まれた。
しかし、攻撃に集中する内に神風の風の字は忘れていた。目の前の敵が死という強大な存在であるとを。
神風の風の字が再び煙幕に突っ込み、次の斬撃を繰り出そうとした瞬間、鉄の破壊される音が響いた。それは、紛れもない粗悪品のものが発する音だ。
そして、煙幕の中から紅い流星が飛び出す。神風の風の字は短刀を振り上げたばかりで体勢が悪い。それに対し、紅い流星は神風の風の字の懐を取っている。
この状況下において、神風の風の字が紅い流星の攻撃を躱す手段は存在しなかった。何が起きたのかすら認識できないまま、その腹を横一文字に斬り裂かれてしまった。
その一瞬の内に、紅い流星は回し蹴りを繰り出す。それは神風の風の字の脇腹に命中する。神風の風の字は自身の肋の骨が砕ける音を聞き、そのまま吹き飛ばされた。
幸いなことに、直前で受け身を取っていたため、神風の風の字は体勢を立て直し、水面に着地する。だが、視界に映る現実はそれを許さない。
眼前に映ったのは、既に懐を侵略した紅い流星だった。この距離からして回避は間に合わない。かと言って、紅い流星が致命傷を負わせられる距離でもない。
その僅かな時間の中、神風の風の字は答えを導き出す。
導き出された答えは、自身の左腕を犠牲にすることだった。その結果、繰り出された斬撃は左腕を深く斬り裂いた。痛いなどでは済まないその傷口からは、滝のように血が流れ落ちる。
しかし、これによって紅い流星の動きが僅かに止まった。この瞬間こそが、千載一遇の好機だった。
神風の風の字は短刀による横薙ぎを繰り出した。しかし、紅い流星はそれを軽々と躱してしまう。
だが、その横薙ぎは紅い流星を後退さる。その隙を利用し、神風の風の字は蹴りを繰り出し、紅い流星をさらに後方へ吹き飛ばした。
しかし、究極の選択は全く戦果を上げなかった。先ほどの傷は骨まで届き、筋肉の神経が切断されている。それは手た、に持っていた主砲を手放してしまうほどで、左腕が二度と使えないことを意味していた。
それに加え、出血多量と古傷が開いたことによる行動の制限は、神風の風の字を苦しめている。いつもなら受けない傷でさえ、今は受けてしまっている。
「くそったれ。二度と妹達を抱きしめられないじゃない」
「する必要もない。貴様はこの場でただの肉となる」
両者が言葉を交わす。殺意こそ明確なものの、ここまできてしまえば勝負は決まっているようなものだった。神風の風の字が重傷を負ったのに対し、紅い流星は軽傷どころかほぼ無傷の状態を維持していた。
そのような絶望的な状況下で、神風の風の字は迫りくる死をまっすぐな瞳で見ている。それは、どちらが狩る側なのかをも錯覚させるほどだ。
死が迫る中、神風の風の字は紅い流星目掛け、唯一の獲物である短刀を投擲した。悲しいことに、血を流しすぎた少女の体から繰り出される一撃を、死は軽々と躱す。
死はゆっくりと近づいてくる。重々しい空気が周囲を支配し、気を抜けば今にも呑み込まれてしまいそうなほどだ。それは、少女の僅か数メートルの距離まで迫っていた。
しかし、神風の風の字は諦めてはいない。この刹那の時間に頭に思い浮かんだ策を実行する。スカートに巻きついていた鉄製のベルトを解き、迫りくる死に鞭とほぼ同じ一撃を与える。
何が狙いなのか、死はそれを躱すことなく額で受けた。その一撃は骸骨の頭部に亀裂を入れるも、死の重圧を消し去るには足りない。
ベルトを振るったことで生まれた僅かな隙を突き、死は少女の命を奪う一撃を突き刺す。それは肉を抉り、臓器にも損傷を与えた。
少女は死の手から逃れるべく、後方に飛ぼうとする。だが、今刺された傷のせいか古傷のせいか、体の動きが一瞬止まってしまう。
死はそれを見逃さず、疎かになりつつある少女の意識の外を攻撃する。そこで繰り出されたのは目突きだ。片方だろうと視力を失えば、攻撃する隙が大きくなることを骸骨は知っていた。
少女はその動きに反応し、眼球を守るべく間に手を入れようとする。同時に目を閉じようともするが、血を流しすぎたせいか判断能力が鈍り、手を動かしてから僅かに時間が掛かってしまった。
無論、その僅かな隙が戦場では生死を分ける。その判断の遅れが導いたのは、左眼球の喪失だった。眼球は完全に潰され、残った空洞からは血が溢れ出す。そこに走る痛みは、この世のものではないように思えた。
その痛みを知ってもなお、死は少女に生きている苦しみを植え付ける。先ほどまで少女の腹に突き刺していた得物を抜くと、少女の意識がいっていないであろう膝にそれを突き刺した。
少女の悲鳴が静けさを保つ海に響く。痛みを我慢することも、抵抗することもできない。これほど苦しく、屈辱的なことがあっただろうか。記憶を掘り返しても、その言葉に引っ掛かる記憶は存在しない。
死は少女の眼球に突き刺していた指を引き抜くと、瞬時に少女の首を鷲掴みにする。そのまま力無き少女を宙に上げ、強く首を絞める。
「これで貴様は何もできまい。最後の選択肢を与えよう。吸血鬼になるか、龍として死ぬか。ここで選べ」
「……っ!!」
薄れゆく意識の中、少女は必死に頭を回していた。この場で死ぬことは、決してできない。元より死ぬ覚悟ではいたが、残してしまう妹達のことを考えると、死ぬことはできなかった。
そんな中、少女は思念を伝え、肩に取り付けられた多連装噴進砲の俯角を僅かに下げる。偶然だったが、骸骨の頭蓋骨を狙うことができた。そして、残弾はまだ残っている。生きるためにやるべきことは、一つだけだった。
少女は骸骨目掛け、噴進砲の砲弾を出し惜しみなく撃ち出した。狙い通り、骸骨は少女の首を絞める手を離した。その隙を使い、少女は煙幕を放とうとする。
だが、それよりも早く死の閃光が飛んだ。少女は反応できず、閃光の直撃を受けてしまった。体は吹き飛ばされ、少し水面を転がったところでやっと止まった。
少女は体の感覚が無くなりつつあるのを感じた。顔が腕に乗っているにも関わらず、その重さと痛みを感じることができない。それどころか、腕が若干冷たい気さえもする。
視界は霞み、周囲が少しづつ黒くなりつつあるのが分かる。さっきまで考えていたことすら忘れてしまい、意識がありとあらゆるところに点在している。
しかし、少女は立ち上がる。明確な理由はどこにもない。ただ、己が背負った名に恥じぬようにと、自然と体が反応していただけだった。
「驚いたものだ。その傷でまだ立ち上がるか」
煙の中から、骸骨の形をした死が現れる。目の前に映る神風の風の字の姿は、足元のおぼつかない一人の少女のようだ。焦点が合っておらず、体のあらゆるところが震えている。
少女は眼前の骸骨が何を言っているのか分からない。風が肌を触る感覚、波の音すらも感じることができない体は、既に限界を超えていた。
それでもなお、背負った重石が少女を動かす。
「私は、神風の風の字……誰にも負けない。自然災害以外では、絶対に、沈まない……」
弱々しくも重みのある言葉。己の絶対的な自信と大切なものを守るための言葉は、骸骨の心に何かを投影させた。その正体は分からず、ただ気に留めるだけであった。
そして、眼前の少女は死の選択を取った。ならば、その選択が導く終を与えなければならない。
骸骨の形をした死は、得物を空高く振り上げた。
「神風の風の字よ。貴様の勇姿、見事であった―――」
―――せめてもの情の言葉。それは、これから死に逝く戦死へ向けた鎮魂歌の代わりだった。
血しぶきの雨が舞い、自然へと帰る。それは、一輪の花が枯れゆくための必要な過程だった。
少女は赤黒い空を見ながら、自身の意識が消えゆくのを感じ取る。感覚のない体を動かし、胸である場所に手を当ててみる。その手を視界に移すと映るものは、大量の血だった。
少女は全てを悟り、その顔に笑みを浮かべた。
「はは……これが、限界まで足掻いた人生の……結末か……」
言葉は震えていた。既に視界の大半が暗く、目の前すらまともに見えていない状態だった。
脳裏にはこれまでの記憶が駆け抜ける。世に言う走馬灯と呼ばれるものなのだろうそれには、あやふやになりつつあった兵器時代から、今この瞬間までの記憶が駆け巡る。
己の生涯を振り返った少女は、心の奥に眠る靄を感じ取る。後悔はどこにも見当たらない―――はずだった。今もなお、残してしまう妹達のことを考えると、涙せずにはいられなかった。
もし、姉妹全員で生き残ることができたのなら、いつものように笑って過ごせたのかもしれない。
しかし、それは二度と叶わない夢。全ては記憶の中に溶け消えてゆく。
(提督、皆……先に逝く……次会う時は、また、笑って過ごせるれば……いい……な……)
少女の最期は孤独だった。看取った者は近くにいたが、それは殺さなければならない敵で、少女の命を奪った死でもあった。ゆえに、少女は孤独だと判断できた。
だが、少女にとってその事実はどうでもいいこと。願うのは残してしまう妹達の幸せと、いつか仲間に訪れるであろう平穏だった。
数々の戦場を駆け、自然災害によって一度はその生に終わりを告げた駆逐艦。人に成ってからは、僅かな幸せを噛み締めながら生きていた。
神風の風の字―――風龍は、迫りくる死との交戦の末、二度目の生涯に幕を下ろした。
少女を看取った骸骨は、目の前に転がる亡骸を見下ろした。だが、その目は何かが違う。軽蔑するわけでも、勝利をかみしめるわけでもなかった。
「ああ、何とも嘆かわしい。これほどの者が、なぜ死なねばならぬのだ。―――さえ無ければ、伸び伸びと生きられたであろうに」
風は骸骨の声を包み、発せられた言葉の一部を掻き消す。それは少女の抵抗のように思え、その場にいるだけで胸が抉られるような感覚を覚える。
骸骨は少女の亡骸の前に膝をつき、開いたままの目をゆっくりと閉じさせた。そのまま自身のローブを手に持ち、一部を破ると、その切れ端で可能な範囲、少女を赤く染める血を拭いた。
少しして、少女の亡骸から見える範囲での血が消えた。服に染みついた血は取れなかったが、これ以上少女が血に塗れぬようにと、能力で傷口を塞いだ。
最後に、どこからか取り出した白のカーネーションを少女の胸元に置き、手を握らせた。
骸骨は再び立ち上がり、紅く染まる空を見上げる。空は分厚い雲に覆われ、日の光が見えることはない。雲の向こう側には、きっと素晴らしい景色が広がっているのであろう。
だが、骸骨はその景色を思い浮かべるだけで、見る努力はしようと思わない。その決意は、見えない何かを背負った背中が語りかけている。
そよ風が吹く中、骸骨の身体は黒い霧に包まれていく。その霧は風に流されることなく、ゆっくりと骸骨を侵食していった。
そして霧が消えた時、骸骨はその場にいなかった。
紅が支配する空間には、そよ風が吹き続けている。少女の手に握られたカーネーションは、僅かに揺れていた―――




