第四話 海蛇の病 ③
治療室に担ぎ込まれた海龍は、抵抗する隙もなく、ベッドに縛りつけられてしまった。縛りつけられてからも必死に抵抗するも、縄の縛りがきつく、藻掻こうにも藻掻けない。
そんな中、鎮守府の主は注射器と、謎の液体を用意していた。液体の瓶を開け、それをシリンダー内に充填する。
液体をシリンダー内に充填した司令官は、アルコール綿と注射器を持ち、ベッドに縛りつけた海龍に近づいた。海龍は恐怖からか、拘束から逃れようとより暴れる。
だが、それは、司令官にとっては何の関係もないことだ。注射針が折れないよう、海龍の腕を押さえつけた後、アルコール綿で注射する箇所を拭いた。
「提督、待ってください!! せめて、もう少し副作用の弱いものをお願いします!!」
「申し訳ないが、これ以下のものでは効果が見込めない。我慢してくれ」
海龍の訴えは、軽々と取り消されてしまった。それは、これから始まる、地獄ともいえる苦しみの幕開けを告げるものだ。
海龍の表情が、より濃い絶望に染まる。だが、同時に、この拘束からは逃れられないと諦めがつき、抵抗をやめてしまった。
しかし、海龍の心境は、明らかに恐怖に支配されている。呼吸が荒くなり、触れている腕からは心臓の鼓動が速くなるのが分かる。
鎮守府の主は、海龍がこれほどまでに注射を嫌がる理由が分かっている。海龍が恐れているのは、注射本体ではなく、シリンダーに充填された液体なのだ。そして、目の前で涙を流す少女に、地獄のような痛みを味あわせてしまうと考えると、心が痛んだ。
しかし、これは変えられず、避けられない運命なのだ。そうしなければ、炎は徐々に海龍を蝕み、やがてその命をも灰に変えてしまうだろう。それを避けるためには、これしか方法がなかった。
鎮守府の主は深呼吸をすると、手に持っていた注射器の針を、少女の華奢な腕に突き刺した―――
―――少女が目を覚ましたのは、夕暮れ時だった。頭部には、金槌で叩かれたような痛みが走り、とても起き上がれる状況ではなかった。しかし、彼女は自分の身に何が起こったのかを知るべく、無理をして、体を起こした。
周囲を見渡すと、そこは、鎮守府の療養室だった。電気もつかず、夕日のみが照らす療養室は、実に不気味だった。
ふと、体の感覚が回復してきたのを感じると同時に、右手を握っているものがいるのに気づいた。見てみると、隣では、妹の煌龍が手を握り、眠りに落ちていた。
何があったのか把握できていない海龍は、この光景を不思議に思うも、妹の寝顔を見ていると、じっとせずにはいられなかった。先ほどから重たい左腕を動かし、妹の頭を優しく撫でた。
その次の瞬間、突如として左腕に、激しい痛みが走った。あまりの痛みに、思わず叫びそうになるも、妹が隣で寝ているため、叫ぶのを必死に堪えた。
数秒もすると痛みは治まったが、海龍は、左腕に違和感を感じていた。肩の関節だけを使い、左腕を顔の高さまで持ってくると、いつの間にか着せられていた病衣の袖を口で捲り、痛みの発生源を確認する。
そこにあったのは、青くなった痣と、何か細いもので刺されたような跡だった。それを見た海龍は、全てを思い出した。提督に体を拘束され、患った病の特効薬を打ち込まれたのだ。
それを思い出したからか、海龍の呼吸が自然と荒くなる。あの時の痛みが、フラッシュバックを通して体に伝わり、現実から目を背けたくなる。しかし、患った病が故に、それは叶わなかった。
すると、突如として療養室の扉が開かれた。療養室に入ってきたのは、鶏の串焼きを食べている氷龍だった。本来、療養室に漂ってはならない焼鶏の香ばしい香りが、療養室を包み込んだ。
その香りを感じ取ったのか、眠っていた煌龍が目を覚まし、氷龍の方に目を向けた。
氷龍は二人の元へ近づくと、近くにあった折りたたみ椅子を開き、その上に座る。
「目が覚めたようですね」
「え、ええ……」
「やはり、あの薬への恐怖は消えませんか」
妹の言葉に、海龍は黙り込んだ。確かに、薬の副作用は恐ろしいものだ。だが、それよりも恐ろしいものを、海龍は知っている。
「薬よりも、あなた達を失う方がよっぽど恐ろしい」
「……そうですか」
姉の言葉に、氷龍は、たった一言だけ返した。姉の心的外傷は、姉妹全員が知っていることだ。
姉が最も恐れていることは、置いていかれることと、失うことだ。氷龍も、姉を残してしまった一人であり、姉が失った一人だ。
だからこそ、姉が落ち込んでいる時は、なるべく側にいるようにしている。それが、姉にとっての幸せの時間なのだから。
ふと、もう一人の姉を見ると、目覚めて間もないからなのか、まだ目が完全に開いていない。しかし、その視線は、はっきりとこちらを見ている。
そして、氷龍は気づいた。もう一人の姉が、何を見ているのか。
「念の為と思って、六本ほど拝借してきました。よければどうぞ」
氷龍はそう言って、持ってきた袋の中に入っていた、パック詰めされた鶏の串焼きを取り出した。それを見たもう一人の姉は、頭を下げてそれを受け取った。
海龍は、その光景をみて微笑ましいと思いつつも、妹の言動について頭を悩ませていた。頭が回っておらず、いつもなら簡単に予想のつくことも分からなかったため、妹に直接聞くことにした。
「氷龍、その串焼きはどこから取ってきたの?」
「提督の夕食から拝借してきました」
妹の言葉に、姉二人の時が止まる。もう一人の姉に至っては、衝撃の事実のあまり、パックを落としかけてしまうほどだ。
しかし、すぐに海龍は我に返り、氷龍の肩を掴んだ。
「それは拝借って言わない。夕食泥棒だから」
「すいません、言葉足らずでしたね。提督から、事前に許可は取ってます」
妹の言葉を聞き、姉二人は安堵した。倫理観を重んじる氷龍が、まさか、夕食泥棒になるなどとは思えないが、万が一のことがあるため、不安になっていた。
ふと、氷龍は現在時刻を見た。現在時刻は十九時近くで、そろそろ、鎮守府全体の夕食が始まる頃だ。一足先に夕食を取った氷龍は関係ないが、しばらく療養しなければならない姉の献立を考えねばならないと、椅子を片付け、療養室を去ろうとした。
しかし、直前で姉が氷龍を呼び止めた。
「氷龍、少し、わがままを言っても良いかしら」
「何ですか?」
「夕食、できれば白米と味噌汁を御願いしたいのだけれど……良いかしら?」
姉の消え入るような願い。それは、献立を考える氷龍へと気遣いか、それとも、自分が食べたいだけなのか、それは分からない。
だが、氷龍の答えは瞬時に決まっていた。
「なんだ、そんなことですか。良いですよ」
氷龍はそう言うと、療養室を去った。
廊下は電気がついており、療養室の空気とは一変して、妙な安心感があった。近くの曲がり角を見ると、疲れ切った暗龍と黒龍が、食堂へ向かう姿が見えた。
何の変哲もない、ごくごく普通の生活。唯一違うとすれば、ここが檻のような存在であること。それでも、鎮守府に住んでからは、その感覚も麻痺してしまった。
だからだろうか、何か大切なものを失った気がするのは。それが何かは、氷龍自身も分かっていない。
それでも、何かを求め、何かを失った感覚は、常に心につき纏っているのは分かる。心の中に巣食うそれは、ある意味で何かの病なのかもしれない。
しかし、そんなことを気にしても仕方ないと、氷龍は歩き出す。歩く動作で僅かに揺れる白衣は、どこか暗く、寂しげであった―――




