第四話 海蛇の病 ①
鎮守府本部の裏に設置された巨大な水槽。それは、世界大会などで使用されるものと、ほぼ同じ広さを有している。しかし、その風貌は、フィールドグリーンに染まった鉄格子に囲まれ、学校のプールのようにも見える。
だが、ここは泳ぐための施設ではない。海上で戦う者達の艤装訓練の使用で使われるのがほとんどだ。しかし、それよりも頻繁に行われているものがある。
それを示す水しぶきが上がる。水槽の水の一部は紅く染まり、周囲に溶けいるようにして無色に戻る。その水槽から姿を現すのは、鎮守府で特注される鋼色の軍用水着を身に纏い、海水に濡れた数人の女だ。その体は、ところどころ紅く染まっている。
周囲に立つ女達は、水槽から上がってきた女達にタオルを渡す。女達はそれで体を拭き、先ほどで狭い場所にいた猫のように、のびのびと背伸びをした。
「お疲れ。疲れたでしょ」
「ええ。ですが、爆雷の規則が読めしまいましたから、この訓練は意味がなくなってくるかもしれませんね」
訓練の内容に触れる女達は、この訓練の機械に対して愚痴を零した。しかし、変わらないものは変わらないとして、受け入れている部分もある。
そんな彼女達は、旧大龍帝国海軍の唯一の潜水艦である、海龍型潜水艦の姉妹達だ。人に成ってから、全盛期では一日で十数隻の敵輸送艦を撃沈するなど、大きな戦果を上げていた。
しかし、時の流れは残酷であり、対潜技術象徴とも言える逆電波探知機や、爆雷の性能が向上した敵艦が登場してからは、敵艦へ近づくことすら困難になってしまった。
今は、誰一人として欠けないようにするため、日常的に爆雷の回避訓練を行っている。しかし、この訓練は、生存性を向上させる苦肉の策だった。本来ならば、装備の性能を上げるべきなのだろうが、鎮守府の財政状況を考えると、贅沢は言えなかった。
女達が話している中、一人の女は、少し離れた場所から、その光景を見ていた。その表情は、とても穏やかで、優しい目をしている。
女の紺碧色の長髪は、地上を照らしつける日光と、海から絶え間なく送られる潮風に吹かれ、美しく靡いている。
すると、まだ水槽に残っていた一人の女が、紺碧髪の女の元へと上がってきた。髪に染みた水を振り払い、そのまま、碧髪女の隣に隣に並んだ。
「お疲れ様、深龍。かなり上達したじゃない」
「ええ、海龍姉さんの教えが良いからですよ。それより、いつまでこの無駄な訓練を続けるつもりですか?」
海龍型の長女、海龍は、妹の言葉に黙り込んだ。穏やかな表情は、自然と消え失せていた。
海龍自身も、分かっているのだ。この訓練が苦肉の策だと言うこと、根本的な解決に至っていないことを。それ故に、この訓練を正当化する理由が見つからなかった。
「そうね……私たちがやっていることは無意味に近いかもしれない……」
「事実、そうでしょう。旧日本海軍が建造した潜高型潜水艦、またの名を伊201型潜水艦の真似事に過ぎません」
深龍は、旧日本海軍の潜水艦と現状を比べた。事実、海龍型の速度は、潜高型潜水艦の初期計画速度と変わらない。二十五ノットの水中速度は、海龍型の強みでもある。
そして、潜水艦潜水艦は、速度の向上によって、生存能力を向上させようとした型だ。最終的な水中速度こそ十五ノットとなってしまったものの、構想自体は生きている。
しかしながら、潜高型潜水艦が実戦投入され、敵艦と戦火を交えたとしても、生存能力の向上は実感できなかったかもしれない。その理由は、電池に問題があったとされるが、それ以前の問題として、爆雷を回避できたのか不明という点がある。これは、海龍型が現状抱えている問題だった。
だが、海龍は、この意味のないかもしれない訓練に対し、強い信念を持って挑んでいた。だからこそ、この訓練を、無駄だと思いたくはなかった。
「知ってるかしら。『怠惰の痛みより努力の痛み』という格言を」
「……ええ、知ってます」
「この格言は、今の状況に当てはまるんじゃない? 少なくとも、何もしないよりかは良いと思うわ」
姉の言葉に、深龍は黙り込んだ。姉の言葉は、この訓練の意味を問う核心に近いものだった。いつかは報われるかもしれないが、報われないかもしれない。未来とは、そういうものだ。
しかし、深龍は知っていた。怠惰に身を投げ、後悔した者の姿を。記憶に残るそれは、海龍の言った格言を具現化したものだ。
だからだろう、深龍は自然と納得せざるを得なかった。
「そうですね。確かに、何もしないよりかは幾分か」
「そう信じたいわね」
「言った本人が不安にしてどうするんですか」
海龍は僅かに笑うと、深龍の頭を撫でた。理由は特にないが、やはり妹の可愛ささらか、反射的にそうしてしまった。
深龍は海龍の手を振り払うと、不機嫌そうに明後日の方向を向く。しかし、その頬は僅かに赤らんでいて、恥ずかしさを隠しているようだ。
その直後だった。海龍は、心臓付近に激しい痛みと、異常なほどの熱を感じた。反射的に胸を押さえ、痛みのあまり、その場に膝をついた。
それを見た深龍は、海龍に何が起こったのかを理解し、近くで話し合っている姉妹に向かって、こっちに来るよう叫んだ。
状況を理解した姉妹は、走って海龍の元へと駆けつけた。海龍は激しく咳き込んでおり、口を手を押さえている。それは、何度も見た、命の危機を感じさせるものだ。
「暗龍、黒龍、今すぐ手分けして氷龍を探してきて。響龍、霞龍は今すぐに薬と水入りの水筒を取ってきて」
「「分かりました!!」」
三人の妹に指示を出した次女は、咳き込む姉を横向きに寝かせようと近づく。
しかし、それよりも早く、海龍が吐血した。口を押さえていた手の手袋に染みた血は、重力に従って下へと伝い落ちる。
次女である女は、姉を横に寝かすのを諦め、先に、腹の中に溜まった血を吐き出させることにした。このままでは、薬を飲ませようにも飲ませられないからだ。
「煌龍、私なら……大丈夫だから……」
「大丈夫じゃない。無理せず、全て吐き出して」
煌龍は、姉の言葉を信じず、血を全て吐き出させようと、姉の背中を擦った。姉は相変わらず咳き込み、手ですくう水の倍の量の血を吐き出した。
そして、海龍が息も絶え絶えになった頃、響龍と霞龍が、薬を持って戻ってきた。煌龍は、妹から受け取った薬の容器から、錠剤を三錠取り出すと、それを姉の口に入れ、水で流し込ませた。
数分もすると、海龍の容体は安定し、荒かった呼吸も正常になった。しかし、その容体は、未だに油断を許さない状況だということを、海龍の妹達は分かっていた。
ふと、海龍が目を開けると、そこには晴天の空と、周囲に集まった妹達の顔が見えた。また、やってしまったと思いながら、海龍は立ち上がろうと、震える足を動かした。
「海龍姉、まだ動いちゃ駄目。安静にしてないと」
「いいえ、服を洗わないと、しみになってしまうから、早く行かないと……」
姉の言葉に、煌龍は驚きを通り越し、呆れた。これまでにも、何度も、何度も、このような光景を目の当たりにしてきた。それでもなお、姉は自分の体よりも、周囲のことを気にしている節がある。
今回も同じだ。自分のことよりも、鎮守府の財政状況を考え、新しい服を仕立てる代金を無くすため、血で汚れてしまった服を洗うべく動こうとしている。
とは言え、海龍自身が、体のことは一番分かっていた。食べ物が喉を通らない日もあれば、一日中寝込んだ日もあった。そんな容体の安定しない中動くことは、本来自殺行為に等しいのだろう。
だが、変わらない意思はあった。なるべく、自分のことは自分で何とかしようと。これまで、患った病の関係で、何度も妹達や、提督に迷惑をかけてしまった。だからこそ、自分の体を見た上で、行動するようにしていた。
「私なら大丈夫。二人が帰ってきたら、すぐ戻るって伝えておいて」
海龍が妹達を安心させるために放った言葉は、その場に沈黙を残すだけだった。無理もないだろう、海龍の行動は、結局周りに心配をかけさせているのだから。
そんな中、数いる妹達の中からたった一人、海龍に近づく者がいた。それは、深藍の長髪で、黄蘗の瞳をした女だ。女は海龍の横を通り過ぎる刹那の間に、海龍の肩を叩いた。
「姉さん、念の為、氷龍姉さんの元へ行ってから戻ってきてください。そうでもないと、姉さん達も、妹達も眠れません」
女はそう言い、訓練水槽へと飛び込んだ。それと同時に、訓練用爆雷が投下され始める。
一見すれば、女の行動は姉をあまり心配していないように見える。しかし、海龍がすれ違い際に見た妹の顔は、不安に満ちているものだった。
海龍は、またもや心配をかけさせてしまったと、心から悔やんだ。それと同時に、ここまで気遣ってくれる妹達を、誇りと思った。
「ありがとう、靂龍。気をつけるわ」
海龍は、訓練水槽に潜った妹へ向け、感謝の言葉を呟くと、血に染まった手袋洗うため、訓練水槽を後にした。その背中を、海龍の妹達は、不安そうな眼差しで見ていた―――




