98.王都の夜景
「リリア、帰る前に少し歩かないか?」
店を出た後は、馬車に乗って帰るのかなと思っていたら、魔王はそう言って手を差し出してきた。
「それもいいですね……きゃっ」
深く考えずにその手を取れば、浮遊感に襲われ驚いて声を上げてしまった。この辺りを歩くと思っていたので、瞬間移動に対する心構えはできていなかったのだ。
「ちょっと、いきなりどこに……」
せめて声をかけてほしかったと恨み言のように呟いて、左右に首を巡らせる。辺りは暗く、遅れて斜面に立っていることに気付く。暗くてよく見えないが、足の裏の感触は石が混じる土だ。
「……山?」
風で葉がこすれる音が大きく、風にも土の匂いが混じっている。
「あぁ、王都のはずれにある山で、王都が一望できるんだ。あと少し歩けば展望台がある」
夜なのと体力がない私を考えてか、あと少しで山頂というところまで来ているようだ。
魔王は空間から手持ちのランプを取り出すと、火も取り出して蝋燭に灯りをつけた。辺りがほんのりと照らされ、足元が見えて歩きやすくなる。
「ここは俺が魔王に就任当初、政務が嫌になって逃げていた場所でな。ヒュリスがこの道を馬で駆けてきたこともあった……」
ランプを持つ右手を前に出し、左手で私の手を引く魔王は懐かしそうにそう話した。思い出の場所のようだが、それよりもヒュリス様の苦労に同情してしまう。
「ゼファル様はもう少しヒュリス様を労わってさしあげたほうがいいのでは?」
「え、いや、労わられるのは俺だろう。昨日なんかデートしたいならって、明日の朝の分まで決裁をさせられたんだ。とことん人のやる気につけこんでくる」
昨日は急に仕事をすると魔王がやって来て大変だっただろうに、転んでもただでは起きないというか、ヒュリス様は強かだった。
「さすがは政務を主導的にされている宰相様ですわ」
「リリア……俺だって頑張ってるんだからな?」
そうやって気安くおしゃべりを続けて山道を登りきると、一気に視界が開けた。ぼんやりと奥に手すりが見えていて、そこが展望台のようだ。
「足下に気を付けて」
そう言って魔王は優しく慎重に手を引いてくれる。地面が平らになり、柵が、そしてその向こうが視界に入った瞬間思わず声が出てしまった。
「うわぁ、きれい」
大通りに沿ってキラキラと夜を照らす光が集まっていて、住宅地にもぽつぽつと灯りがある。目線を上げると城があり、たくさんの窓から漏れ出る光がその存在感を浮き立たせていた。ケヴェルンでも夜景を見たが、それよりも規模が大きく光が力強い。
「素敵だろう。この景色が好きでな、気が塞いだ時はここから町を、国を眺めていた」
「たしかにいいですね。うっとりと、いつまでも見ていられます」
魔王の手を離して柵に掴まり、思いっきり深呼吸をした。夜の空気はひんやりとしていて気持ちがいい。しばらく夜風に吹かれて夜景を眺めていると、隣に立つ魔王がこちらに顔を向けた。
「なあ、リリア。ミグルドを好きになってくれたか?」
いつになく真剣な声音で、足元に置かれたランプがうっすらと照らす魔王の表情は強張っているようにも見えた。
「はい、好きですよ。居心地がいいですし、たくさんお世話になった人たちがいますから」
そう答えると魔王は嬉しそうに相好を崩す。
「それは、リリアが優しいからだな。いつも全力で自分ができることをしてくれる。だから、リリアの周りには自然と人が集まるんだろう」
噛みしめるように魔王は言葉を口にする。
「こちらに来てから、色々なリリアを見た。人間研究部で働くリリア、休日を友人と過ごすリリア、ケヴェルンで働き一人で暮らそうとしてみるリリア、劇を見るリリア……どれも可愛くて、愛しくて、時間が経てば経つほど手放したくなくなる」
魔王の熱がこもった蜂蜜色の瞳に当てられたのか、私の顔も熱くなる。色気のある声もいつもと違って、胸をざわつかせた。
「あの、魔王様? どうしたんです?」
酒に酔って部屋に突撃してきた時のことを思い出すけれど、今日は飲んでいないのをしっかり確認している。私が戸惑っていると、左手に手を重ねられ内側へと滑り込んだ彼の手で引き寄せられた。その左手は私の胸の高さまで上がる。
「リリア、俺はリリアの考えを大切にしたい。リリアに今までできなかった分、自由に選んでほしい。……でも、俺の隣にいて欲しいとも思うんだ」
「ゼファル様……」
一言一言、魔王は大切に丁寧に紡ぎだす。今まで向けられてきた、降り注がれてきた気持ちが言葉を纏う。
どうしよう、何て言えば。いや、私はどう……。
私が適切な返しを思いつけずにいると、彼はこちらを気遣うような微笑みを見せた。
「今は聞いてくれるだけでいい。だけど、俺の隣で生きる道があることを考えてほしい」
一拍あって、魔王が身を屈め私の手に顔を近づける。
「絶対、俺が幸せにするから」
吐息が手にかかり、口づけを落とされた。その瞬間、頭が弾け飛んだみたいに思考が停止する。心臓が走った後みたいにバクバクしていた。
「え、へ、ひぇっ!?」
アイラディーテではダンスの前に男性が女性の手の甲に口づけをする。だが、ほとんどが口づけたふりで、手袋もしているから感触はないのだ。
慌てふためく私に、身を起こした魔王は堪えきれないといった様子で笑いだした。
「リリアは本当に可愛いな。これだからずっと見ていたいんだ」
魔王は上機嫌で、じっと甘い視線を逸らさず私の手を握り込んだ。獲物に狙いを定める肉食獣のようで、ヴァネッサ様の影がちらつく。
「そ、それは嫌です!」
そう叫ぶのが精いっぱいで、せめてもの抵抗と顔を背けた。薄暗がりでよかった。たぶん、顔は真っ赤になっている。
そしてしばらく砂糖菓子のような甘い空気が残り、耐えかねた私は「帰りましょう!」と根をあげたのだった。




