9.夢のような現実
体を横たえると、ほどよく沈むベッド。寝返りを打ってもきしむことはなく、寝返りどころか私が五人は寝られるぐらい広い。
灯りを落とした寝室の温度はちょうどよく、寒さに丸くなる必要もない。耳を塞がなくても静かで、お酒を飲んで騒ぐ使用人たちはいなかった。突然新しい環境になって落ち着かないでしょうと、湯あみが終わるとシェラはすぐに部屋から出て行った。何か用があれば、サイドテーブルに置いてあるベルを鳴らせば来てくれることになっている。
まだ信じられないわ……。朝起きたら、全部夢なんじゃないかしら。
仰向けになれば、見えるのは天井の染みではなく天蓋。よく眠れるようにと、いい香りがする花を置いてくれた。
あのあと、どうなったのかしら……。
瞼を閉じれば、婚約破棄を言い渡された瞬間が蘇り目を開けてしまった。王子の声が、人々の視線が、耳に脳にこびりついている。
家が処罰されることはないわよね。
婚約破棄にも国外追放にも異を唱えなかった両親にかける優しさはないのだけど、冤罪と魔王に攫われたことで罰を受けるのなら後味はよくない。
まあ、庶民になった私に対して国が動くことなんてないわよね。
今は、穏便に済ますようだと言った魔王とヒュリス様の言葉を信じるしかない。できれば、このまま忘れられて私はゆっくり過ごしたい。
でも、明日からどうしよう……。
この国のことは右も左も分からないし、自分に何ができるのかも分からない。
それに、魔王様のことも……どういうつもりなのかしら。私は何をしたらいいんだろう。
私を助けてくれた魔王に好意を持たれているようだけど、正直その手の話はよく分からない。敵意や悪意には敏感だけど、今までろくに恋愛をした経験はない。そういう話ができる使用人も、友達もいなかったものね。
というか、私を見ていたって……そんな魔術あるんだ……え、まさか今も見てる?
目を閉じて意識がぼんやりしてきていたのに、はっと開いて周りを見てしまった。仄暗い部屋にそれと分かるものはない。そもそも、今まで気づけなかったのだから、今さら分かるはずもない。
見られているのは嫌だわ。でも、嫌がったら追い出されるかもしれない……。お城から出ようとは思っているけど、何も分からないのに外で生きていける自信はないし。あぁ、本当に、どうしたらいいの……?
答えは出ないまま。私は眠りに落ちる寸前まで、今後について考えるのだった。
眩しさを感じて寝返りを打つ。ぼんやりと意識が覚醒した
掃除をしなきゃ……。今日の予定は……。
朝は毎日掃除から始まった。汚れが落ちなくなったお仕着せとも呼べない服を着て、朝から夜まで雑用をする。極力誰とも話さずに、家族と呼べる人には会わないように。だから、私の手は貴族令嬢のものとは程遠い、使用人のささくれた手になっていた。
起きたくないけど、早くしないと役立たずって怒られるわ……。
眠いなぁと思いながら目を開けると、いつもと違う景色に一気に目が覚めた。
そうだった。私、魔族の国にいるんだ……。
慌てて身を起こし、時間が分かるものを探すけれど寝室にはない。他の部屋でも見なかった気がする。
えっと、私はどうしたらいいの? こういう時令嬢ってどうするもの? あ、ベルを使うのか。
ベルを鳴らすにも勇気がいる。呼んだら何を言ったらいいのかも分からない。顔を洗う物? お茶? 朝食かしら。
しばらく考え込んでいると、寝室のドアがノックされてベッドの上で軽く跳ねた。びっくりしすぎて心臓が走った後みたいに早くなっている。
「リリア様、お目覚めでしょうか」
シェラの声で、私は深呼吸して気持ちを落ち着かせ、すまし顔を作ってから返事をする。
「えぇ、入ってちょうだい」
ここでは雑用係としてじゃなく、部屋の主として振舞わないといけない。
「おはようございます、リリア様。よく眠れましたか?」
部屋に入ってきたシェラは頭を下げて挨拶をすると、両手で持っていた陶器をサイドテーブルに置いた。
「えぇ、寝すぎたんじゃないかしら」
「いえ、もっとゆっくり寝ていらしてもよかったくらいですよ」
温かいお湯で顔を洗い、タオルでぬぐえばすっきりとして心地いい。冷たい水じゃないだけで夢のようだ。すぐさま顔と手に保湿のためのクリームを塗られ、軽くマッサージもされた。
そして、着替えのカジュアルドレスを手早く着せられ、寝室を出るとすでに朝食が用意されている。影人形が用意してくれたみたい。作りたてのようで湯気が出ていて、食欲をそそる香りが部屋を満たしている。素晴らしい段取りのよさだ。
朝ご飯をゆっくり食べるのなんていつぶりか分からない。余りものでもなく、パンは柔らかい。これなら一日中元気に働けそうだ。
だけど問題は、朝食を食べた後に起こった。