88.前提がない修羅場
魔王が姿を見せた瞬間、ロウは席を立つと片膝をついて臣下の礼を取った。私も慌てて立ち上がって頭を下げようとするが、その前に名前を呼ばる。
「リリア……急に見えなくなれば心配もする」
感情の読めない声が不安をさらに増幅させる。魔王は私を一瞥しただけでロウに顔を向けた。その横顔は無表情で、いつも感情が豊かなだけに恐ろしさが倍になる。空気が重い。まるで浮気を咎められるような空気であり、すでに熱くて痛い胃がきゅっとなる。
「ロウ・バスティン」
声とともに空間を魔力が伝い、窓ガラスが震えた。抑えきれない怒りと殺気が感じ取れて、全身の毛が立つ。まさに修羅場なのだが、ふと我に返る。
待って、そもそも私と魔王は恋人じゃないし、私がどこで誰と何をしていようが自由よね?
だが、それを訴える勇気は微塵もない。
「魔王様、お怒りはごもっともですが、弁明の機会を頂けぬでしょうか」
ロウは頭を下げたまま、芯の通った声で言葉を発した。私なら縮こまって相手の怒りが収まるまで耐えるしかできないのに、騎士だからか肝が据わっているのかもしれない。
「許す」
許可を得たロウは臣下の礼を取ったまま顔を上げると、私に一度視線を向け順序だてて説明を始めた。
私が店に来て、客が混んできたから知り合いと思われた店側に二階へ案内されたこと。互いの情報を交換する流れになったこと。そして、自分からは指輪と先祖の話、将来の展望を、私からはこの国へ来た経緯とケヴェルンでの出来事、向こうでの生活を聞いたと。
あの野望を将来の展望と言うには苦しい気がするが、私は何も口を挟まない。時々魔王が目で確認をしてきたので、全力で頷いた。
「リリア殿は魔王様のために情報を得ようとしていたようなので、詳細については彼女にお尋ねください」
突然“殿”をつけられて呼ばれたため、寒気がした。軽い拒絶反応が出る。しかもさりげなく後の対応を丸投げされた。
「そうなのか?」
無表情の魔王にそう問われ、私は首がもげるぐらい勢いよく頷いた。今の魔王は返答を間違うと爆発しそうな危うさがある。
「……わかった。リリア、帰ろう」
差し出された手にそっと手を添えると強く握られた。それだけで今の魔王が不安定なのが伝わって来た。ロウも少し心配だけれど今は視線を向けられない。慣れた浮遊感と同時に景色が切り替わる。
いつもの魔王の部屋、ではなかった。
「ひぇっ……」
整っていた彼の部屋は荒れ果てている。
窓ガラスが割れ、床には紙や本が散らばっていた。棚に並んでいたおもちゃたちも落ちている。暴れた後というのがふさわしい惨状に絶句してしまった。手を握っている魔王を怖々見上げると、眉間に皺を寄せていて不機嫌さが増していた。
「リリア、悪い。お前の部屋に行くべきだったな……」
声に力がなく、何かに耐えるようにさらに眉間の皺を深くした。明らかに様子がおかしくて、誠心誠意頭を下げる。
「いえ、それよりも申し訳ありませんでした! ゼファル様の心配というか、お怒りは甘んじて受けます!」
まずは怒りを鎮めてもらおうと謝罪したが、すぐに言葉が返ってこない。魔王なら言葉なり行動なりですぐに何かを示すはずなのに。不審に思って顔を上げると、その顔は痛みに耐えていて空いている手で頭を押さえていた。
「リリア……もう少し小さい声で頼む」
「……へ?」
「二日酔いなんだ」
二度目の絶句。急激に気が抜けて、口を開けた間抜け面で魔王を見つめてしまった。
え? 心配して損した!
魔王は指先で空間を裂くと、手を突っ込んで水が入ったコップを取り出した。それを一気に飲んで一息つく。
「昨日……ヒュリスとシェラと飲んでいたんだが、リリアの可愛さを語ったあたりから記憶がなくて、このありさまだ。頭が痛いし、気分も悪い」
典型的な二日酔いで、何やってるんだと脱力する。
「じゃあ、この状態は何なんですか?」
散らかった部屋に顔を向ければ、魔王は「あぁ」と苦々しい声を出した。
「最初に水晶を出した時、リリアが誰かといるって分かったから可愛いバツ印が来ると同時に消したんだ。……で、しばらくしてから見たら、リリアがいなくて、動揺したら魔力が制御できなかった」
魔力は術を使う時はもちろんだが、感情によって外に出ることもある。主に怒りや絶望など強い感情とともに、空気を魔力が伝って漏れ出るのだ。だが、周りにいる人が魔力を感じるくらいであって、部屋が荒れるほどではない。それだけ魔王の魔力量がケタ違いということなのだろう。
「そうだったんですね……」
頷くことしかできない。どうやら怒りはないようで一安心だ。魔王は私の手を引いて被害のない小部屋に入ると、席につくよう促した。以前もお茶を飲んだテーブルだ。
「お茶でも飲んで話をしよう」
痛みが少しましになったのか微笑みは浮かべているが、目は笑っていない。これはしっかり伝えないとまずい。魔王は隣の小さな厨房に入っていき、椅子に座った私は覚悟を決めるのだった。




