84.先祖と藍色の指輪
逃げたい。今まで何度か逃げたいと思ったことはあるけれど、これはまた別の危機感だ。じわじわと自分の手で首を絞めているような息苦しさ。今にも割れそうなガラスの橋を渡っているかのように思える。
だけど、逃げるわけにはいかないのだ。バスティン家は王都の過激派をまとめる筆頭と聞いた。つまり、情報を得て彼を抑えられれば、ゼファル様の役に立てるかもしれない。
要は、私の情報をうまく出せばいいのよ。致命的なところは伏せて、隠し通す!
頭の中で対策を立て、静かに息を吐いて椅子に腰を下ろした。深く座り直して、堂々と前を向く。好戦的な視線が交わり、ロウは満足げに頷いた。
「では、まずは私からだな」
最初に手札を切ったのはロウで、左手で右手の手袋を外すと手の甲を向けて二つの指輪を見せた。
「この指輪の話をするには、ご先祖様の話からせねばならない」
ロウは黒い皮手袋を嵌めた左の人差し指で、右手の中指に嵌る藍色の宝石がついた指輪を撫でた。苦手な歴史が始まると身構える。しかし、何としてでもロウの弱みを握らなくてはいけないため、一言一句聞き逃すものかと集中した。
「我がバスティン家は代々騎士を輩出していて、五代前からは軍務卿の地位をいただいている。その初代の軍務卿がいたのが200年ほど前で、ちょうど最後の戦争があった時だった」
200年前の人間と魔族の戦争は、人間側が休戦協定を破棄し宣戦布告をしたことで始まった。その目的は領土の拡大。当時は今よりも食糧の生産性が低く、人口の増加が問題となっていたのだ。
「あの戦争で魔族側は当時の魔王と、私の先祖である軍務卿を失ったことで敗戦。国境線を大河まで後退させたと歴史ではなっている」
「……はい。こちらも同じように伝わっていますわ」
結果はアイラディーテの勝利。魔王を倒した話は有名であり、子供向けの絵本にもなっている。劇も色々な種類があった。
だが、領土拡大という目的は達したものの長い戦争で疲弊し、また得た土地は戦場にもなったことから開拓は進まなかった。むしろ、戦争による人口減と技術革新による生産性の向上で、食糧問題が改善したのだ。そのため、今は緩衝地帯として一部の部族が住むだけになっている。
ロウは一度頷くと、話を続ける。
「だがな、ミグルドの敗北は事実だが、その方法は卑劣で我らの誇りに反するものだった。よく聞け人間。お前らが仰ぐ人間の過ちを」
その声は苦々しく苛立ちを含んでいて、はるか昔の話なのに自分の身に起きたように話すロウからは、並々ならぬ思いがあることが伝わって来た。私は大人しくお茶を飲みながら耳を傾ける。
「言うまでもなく、魔族は正々堂々と正面からの戦いを好む。奇襲や策も使うが、それは最後に力を持って威を示すことが前提だ。そうでなければ、勝ちとは言えない」
その価値観はヴァネッサ様や、他の魔族からも感じることがある。
「勝敗が決した時のことを息子である後の二代目軍務卿が、手記に一部始終を残していた。それによると、その日は大河を超えた平野で向かい合って陣を構え小競り合いを続けた10日目だった。早朝に布陣をした両陣営からはこの日が決戦となるという、痺れるような緊張感が漂っていたという」
ロウは詰まることなく、すらすらと語る。きっと何度も読み直していて、内容を全て覚えているのだろう。
「そして、二人の将軍が先陣を切り開戦した。力は拮抗し、膠着状態へと入る。本陣では当時の魔王と軍務卿が地図を広げ、兵のコマを動かして戦術を練っていた。二人とも武闘派で、戦場に出るタイミングを計っていたのだ」
ロウの語りに引き込まれ、頭の中で戦場の景色が広がっていく。そして一呼吸置くと、眉間の皺を深くした。声に鋭さが増す。
「魔王が指示を出していた時、突然それは起こったという。我が先祖である軍務卿が突如、魔王の首をはねたのだ」
「……え?」
思わず声を出してしまった。突然の裏切り。書き手が息子であったなら、父親が突然反旗を翻したことになる。
「手記には、何が起こったか理解できず、誰も動けない中魔王の首だけが転がったと書いてあった。そして、その首を掴み上げた軍務卿の姿が一瞬で変わったと」
似たような状況を知っている。じわりと嫌な汗が背中に滲んだ。
「その姿は、アイラディーテの王子だった。卑劣にも、上に立つ王族でありながら我が先祖に扮し、騙し討ちをしたのだ。そして、高笑いをするとこう言い放ったという。くだらない矜持にこだわるのは馬鹿のすることだ。戦いはどのような手を使ってでも勝ったものが正義だと」
あの馬鹿王子もそんなことを言っていたわ……。そういえば、王家は代々幻術に適性があるって。
遠い昔と今がつながる。不思議な因縁で、それに関係するらしい藍色の指輪に視線を向けた。
「怒り狂い捕えようとした兵士たちの前で、王子は姿を消したらしい。手記には、軍務卿に姿を変えたのも消えたのも幻術だろうとあった。その後、軍務卿の遺体が森の中から見つかったらしい。だから、二代目はその人生をかけて、この指輪を作ったのだ。幻術を無効にする指輪をな」
「なら、それがあれば幻術を見破れるのですか?」
「あぁ。つけていれば幻術は効かない」
素直に欲しいと思った。それがあれば、次に第二王子が誰かに化けて近づいて来ても、未然に気付くことができるからだ。この情報は魔王にも有用だろう。
「他に同じものってありませんの?」
前も聞いたが、今回は意味合いが違う。警戒しているのではなく、対抗策として持っていたかった。だが、ロウは前回と同様横に首を振った。
「聞いたことはないな。探せば多少幻術の効果を打ち消すものはあるかもしれないが、これほどの精度はないだろうし、相当値は張るだろう」
「ですよね……」
もともと望み薄だったが、それでも残念だと思ってしまう。落ち込む気持ちをお茶で流し込めば、空になったカップにロウがお茶を注いでくれた。自然な所作で、ゼファル様を思い出す。魔族の男性は相手のお茶がなくなったら淹れるのがマナーなのかもしれない。
「この件以降、我がバスティン家はアイラディーテの王族に報いを受けさせることを宿願としている。だから、俺も人間は好かない」
なるほどと、温かいお茶に口をつけて納得する。ロウが人間を嫌う態度が頑なで、わずかに憎しみを感じた理由が分かった。それと同時に、魔王が立ち向かっている問題の根深さに直面する。
「……だから、五年前人間との開戦が協議された時に開戦派となっていたのですね」
「当然だ。戦となれば、戦場に出てきた王族を葬ることができるからな」
潔いまでに筋が通っている。これでこの話は終わりだと言わんばかりに、背中を椅子に預けて足を組んだ。鋭い視線が向けられる。
「さあ、次はお前の番だ。そうだな……お前がこの国に来ることになった経緯を話してもらおうか」




