75.お仕事再開
月が変わり、スーが出張へ行って一週間が経った。スーの仕事の一部を引き受けることになったので、各部署からの問い合わせに分かる範囲で答えたり、本や資料を届けに行ったりと、すっかり王宮での仕事が板についてきた。
なんだかすっかり女官になった気分。
アイラディーテに比べると、ここの王宮では文官も兵士も女性の割合が高い。おそらく世襲制の貴族階級が少なく、茶会や夜会といった令嬢が必要とされる場がほとんどないからだろう。
廊下を歩けばすれ違う女官が挨拶をしてくれる。私もケヴェルンに行く少し前から、文官の服を着ていて廊下で浮くこともない。ただ魔族の中に人間が一人いるので目立つと言えば目立つけれど、物珍しい視線もだいぶ減った。
部屋に戻ったら、返却された資料を整理して棚に戻さないと……。
次の仕事を頭に浮かべながら廊下の角を曲がる。
うぇ……あれは。
その姿が視界に入った瞬間、思わず数歩下がって身を隠してしまった。
黒髪で背が高い騎士とくれば、ここで会うのは一人しかいない。
ロウ・バスティン……嫌なやつと会ったわ。
名前を知ったのはヴァネッサ様が功績を称えた時だったけど、それより前に人間呼ばわりされて嫌悪感を隠さない言葉を投げつけられたことがあった。その後もなぜかちょくちょくすれ違ったり届け先にいたりしたのだが、睨んでくるわ小さく舌打ちされるわで印象は最悪だ。
いなくなってたり……しないわ。
期待を込めて覗くが、まだ立ち話をしていたので顔を引っ込める。しかもこっちを向いているから、気づかれずにすり抜けることもできない。研究部につながる廊下はここだけなので、避けて通れなかった。
近づけば嫌味でも言われそうなので、ここは一つ穏便に済ませることにする。廊下に人目がないことを確認すると、ドアを閉めるイメージをして術を唱えた。
「守りの小部屋」
術が発動した感覚がしたので、周りからは見えなくなっているはずだ。一日一回しか使えないけど、常は使わないから気にせず使用する。
あ、身につけていたもの置いとかないといけなかったけど……すぐだからいっか。
魔王との約束では消える前に何か置いておくように言われたけど、今は見ていないし短い時間だからと省略する。
廊下の角から出ると人の行き来を確認し、速足で進んでいった。誰も私には目もくれず歩いている。すり抜けるから避ける必要はないのだけど、習慣的に人の間を縫ってしまう。人の中を通るのは気持ちのいいものではないからだ。
え、動き出したわ。
彼との距離が半分ぐらいに詰まった時、話が終わったのか軽く手を挙げて別れ、こちらに歩いてきた。見えていないと分かっていても避けたくて、廊下の端へと寄る。彼は前だけを見ていて、すました顔が鼻につく。
なによ、人間を見下してそれでよく騎士が務まるわね。
その顔を見ているだけで腹が立ってきて、どうせ見えないんだからと思いっきり舌を出してやった。淑女教育の先生が目にしたら卒倒しそうな行儀の悪さだ。だけど、なんだかこいつには負けたくないと思えるのだ。
してやったりと満足した私が視線を外そうとした瞬間、目が合った。そんなはずないと分かっていても驚いてしまって、反射的に顔を外す。
うわ~心臓に悪い。
「人間。この私を侮辱するとはいい度胸だな」
「え?」
そのまま通り過ぎようとしたら声がして、思わず顔を向けてしまってから後悔する。先ほど舌を出した相手が立っていて、バッチリ目があったからだ。
うそっ、術が解けてた!?
魔王と練習をしていた時を含めて、今まで術が勝手に解けたことはなかったから動揺してしまう。頭が真っ白になって硬直している私を見下ろし、彼は嘲るように鼻で笑った。
「なんだ? バレないと思っていたのか? あんな間抜け面嫌でも目に入るに決まっているだろ。これだから……」
いつもの調子で滔々と馬鹿にしてきたが、途中で彼も私も周りの様子がおかしいことに気付く。廊下にいた人たちは遠巻きに私たちを見ていて、ひそひそと何かを話していた。その中の一人が恐る恐るといった感じで近づいて来て、気づかわしげな視線を彼に向ける。
「あの、ロウ殿……。お疲れなのではありませんか? 最近激務だったと伺っていますし、少し休まれては?」
「別に私は疲れていないが?」
「あ、そう……いえ、それでも、時に休息は必要ですよ」
それなりに面識がある人のようで私のように邪険に扱うことはしていない。この隙に立ち去ろうと一歩踏み出せば、軽い身のこなしで先回りされた。その行動に周りがどよめく。さすがに彼も何か変だと思い始めたのか、鋭い眼光を周りにめぐらせている。
「あの、ロウ殿……そこに何かございましたか?」
「ん? 何かって……」
彼は私へと視線を向けるが、その視線の先を追ったもう一人の男は怪訝な顔のままだ。私とも目は合わず、見えていないと確信する。
え、待って。それ逆に、こいつにだけ見えてるってこと!?
たまに幽霊や精霊が見えるという人がいると聞くが、まさかこの男はそのたぐいなのかと目を丸くしていると、彼も同じ答えにたどり着いたようで人を殺しそうな視線を向け顎をしゃくった。
ついてこい、とはっきり声が聞こえた気がする。
私は嫌そうに顔を歪めたけど、全く許してくれそうにない雰囲気なのでしぶしぶ頷いた。
そして彼は怯えた視線を向けている文官の男に顔を向けると微笑む。
「怖がらせてしまって申し訳なかった。見間違いだったようだ。言う通り少々疲れが出たのかもしれないから、気分を変えてくるよ。皆もすまなかった。少し恥ずかしいので他言は控えてくれると助かる」
うまくその場を収めると、人当たりのいい微笑みのまま歩いていく。私はその後ろを連行される囚人の気持ちで付き従うのだった。




