64.私は一人じゃない
「リリア……貴様!」
地面に顔を押し付けられている王子は私を睨みつけ、怒りを露わにする。押さえ込んでいるシェラから逃れようと必死に体を動かしているがビクともしなかった。王子はそこそこ背もあり力もあるのだが、顔色一つ変えずに無力化しているシェラがすごい。
私が反応できずに固まっていると、魔王が私の肩を一度軽く叩いてから王子に近づいていく。王子は仇を見るような形相になっていて、「邪魔をしやがって!」と食って掛かっていた。
「黙れ」
喚く王子を一蹴した魔王の声は低く、真剣のような鋭さがある。
「お前が王子でなければ、さっさと殺せたものを……」
口惜しそうな魔王に対し、王子は口端を醜く上げる。
「やれるものならやってみろ。戦争の始まりだ」
できるはずがないと高をくくっていて、その態度が腹立たしく奥歯を噛んだ。すると、王子は私に顔を向けて、苛立たしそうに舌打ちをした。
「お前、また俺に嘘をついたな。黄色い百合が。何が魔術は使えないだ。あれは高度な空間魔術じゃないか。おいリリア。俺を解放するように言え。そして俺とアイラディーテへ戻れ。じゃないと、分かってるんだろうな」
威圧的な脅し文句が意味するのは、ケヴェルンへの侵攻だ。国境付近まで軍を引き連れてきたと言っていた。
……どうしよう。私が行かないと戦争になってしまう。
もう婚約者ではなく、ここはアイラディーテでもないのに、顔色を伺っていた黄色い百合令嬢が出そうになる。
私が俯いて押し黙ると、王子は勝ち誇った表情になった。いつも私に向けている優越感に満ちた顔。それが、魔王の体で隠れる。
「リリア、脅されているのか。何を言われた」
魔王が割り込むように私の前に来たから、視界は全て魔王に奪われる。その赤い髪と蜂蜜色の瞳を見ると、呪縛から解かれたように心が軽くなった。
そうだ……私、一人じゃないわ。魔王様を、みんなを頼ればいい。
昔は一人で抱え込んで我慢していた。そうするしかなかった。だけど、今は助けてくれる人がいる。
王子が警告するかのように、「リリア」と低い声で私を呼ぶが、私は意を決して口を開いた。
「魔王様、王子は私がアイラディーテへ行かないなら、ケヴェルンを攻めると」
「くそっ、リリア! 人間を裏切る気か!」
暴言を吐く王子に対し、魔王から目で合図を受け取ったシェラが捻り上げる手に力を込めた。痛みに耐えかねた王子のくぐもった声が響く。
「我が国を攻める……身の程知らずが」
魔王は王子を一瞥すると、胸元から手のひら大の鏡を取り出して左手で持つと、右手の指を表面で滑らせていく。
「軍を配置するなら国境沿いか」
「そう言ってました」
的確な読みで、私が肯定すると「やはりな」と返してさらに指を動かしていく。きっと国境付近を見ているのだろう。偵察隊もいらない。つくづく敵にはしたくないと思う。
「お前……何を」
ただ一人魔王の行動が分かっていない王子は痛みに顔を歪めて零しているが、それに答える人は誰もいない。しばらく鏡を見ていた魔王だが、一つ頷くと王子に視線を戻した。
「嘘だな。今上空から国境付近と壁の辺りも見たが、野営の灯り一つない。護衛も少ないし、身一つでリリアを連れ戻せと言われたのだろう」
「なっ……」
その反応で軍の存在が虚偽だったことが分かり、私はほっと胸を撫でおろす。それなら、この場を上手く収めれば争いに発展することはなさそうだ。
魔王は鏡を上着の内ポケットに戻すと、王子と距離を詰め頭上から見下ろす。地べたから見上げるしかない王子の顔は屈辱に満ちていて、血走る目を私に向けた。
「リリア! お前が戻ってこれば、全部丸く収まるんだよ。デグーリュ伯爵も出て行ったことを喜んで許すと言っているし、王家にも迎え入れる。ゆくゆくは王の母だ。贅沢だってできる。得体のしれない国で魔族と暮らすよりはずっといい」
この期に及んでも私を説得しようとしている。それができると思っているのは、都合のいい婚約者だったからだ。王子の背後に黄色い百合令嬢だった“私”が合わせ鏡のように立っている。
それを打ち砕きたくて、眉を吊り上げた魔王が口を開くよりも前に言葉の剣を抜いた。
「馬鹿すぎません?」




