59.暗転
真っ先に襲われた感情は、恐怖だった。ここはミグルド王国、魔族の国のケヴェルン。アイラディーテではないのに、あの国の第二王子がいる。銀色の髪に深緑色の瞳、女性を虜にするような甘い顔立ちだと評されていた元婚約者。常に一流のものしか身につけていなかった彼が、今は町の人たちと同じ質素なシャツとズボンを着ている。
何かの術? さっきまで侍女だったのに。何が起こってるの?
手が震えて寒さを感じる。逃げようにもドアは鍵をかけられ、第二王子は阻むように立っていた。浮かべている笑みは、傲慢で見慣れたものだ。
「俺は運がいい。こうも早く見つかるなんてな。あのバカ女に騙された時は終わりかと思ったが、俺はここからのし上がる」
彼の目には狂気が映っていて、助けを呼ぶために声を出そうとしたら口を手で塞がれた。
「叫んでみろ。国境に待機させている軍を動かすぞ。魔王が王子の婚約者を攫ったんだ。開戦には十分だろう?」
あくどい笑みを浮かべ凄まれると、何も言えなくなった。こんな素敵な町が戦場になると考えただけで足がすくむ。それと同時に、卑劣なことを平気で口にする王子に吐き気がした。
こいつ、本当に自分勝手ね! 何よ。婚約破棄して国外追放したのに、何の用があるのよ!
罵倒したいのに、押し付けられていた婚約者としての仮面が本心を殺す。喉を掻きむしりたいような苛立ち。逆らえない自分にも腹が立つ。
「相変わらずだんまりか。まあ、黄色い百合の言葉に価値はないからな」
そう侮辱を込めて吐き捨てると、何か気になったのか私を上から下まで見た。
「……念には念を入れるか」
独り言のように呟くと、指を鳴らす。瞬く間に王子の姿が、魔族の青年へと変わった。驚いて目を丸くしていると、彼は得意げな顔になった。
「公にはしていないが、王族は代々幻術の適性が一番高いんだよ。見られると面倒だからな。お前の姿も変えておく」
腕を掴まれた瞬間、ぞわっと体の中を何かが通り抜けていった。何が起こったか確認する間もなく、王子は私の腕を引っ張って窓際へと進んでいく。目に入った黒い窓ガラスには赤い髪の魔族の少女が映っていた。
姿を変えて見せる幻術なのね……。
5年ほど婚約者として接していたのに、何も知らなかった。そして王子は窓を開けると、私を抱きかかえた。ここ3階、と思うと同時に彼は窓枠に足をかけ飛び降りる。危うく叫びそうになった。着地する直前、ふわりと風が吹いて衝撃が吸収される。遅れて、彼は風の適性があったことを思いだした。
どうしよう……。嫌、行きたくない。
すぐに下ろされ、自分で歩かされる。分かっているんだ。ああ言えば、この町を盾にすれば私が従うって。
宿が遠ざかる。魔王が助けに来ないということは、まだシェラと話しているのだろう。いつもは覗かれて嫌なのに、今だけは見ていてほしかった。
魔王様! シェラ!
行きたくないのに、足を止めることは許されない。ここで逃げることはできる。だけど、その後攻められたらと考えると恐ろしい。ヴァネッサ様たちが強いのは知っている。それでも、救援の軍が着くまでに多くの住民が犠牲になるだろう。
優しい人たちを危険な目には合わせられないわ。
町を歩けばお酒を飲んで騒ぐ人々の声がする。家から漏れる灯りは、そこに暮らしがあることを教えてくれる。
今は、私が我慢したらやり過ごせる。魔王様とシェラには悪いけれど、迷惑はかけられないもの……。
何故私を連れ戻すのか理解できないが、第二王子が探しにくるということは相当な事態なのだろう。魔王からは解決したと聞いていたけど、そんな雰囲気ではない。
処刑、されるのかしら。
無言で歩いていると不安がどんどん押し寄せてくる。裏路地に入り、月明りだけ。その薄暗い道が、まさしく私の運命のような感じがして寒気が止まらない。昼間、暑さを感じて氷菓子を食べていたのが夢のようだ。
「乗れ」
短く命じた王子は、顎で先に停まっている馬車を指した。長距離用の馬車で、近くに馬に乗った護衛が四人見える。一度乗ればもう戻れない檻だ。
魔王様! シェラ!
悲しくて、悔しくて。奥歯を噛みしめて振り返っても、もう宿は見えない。
「さっさとしろ」
ここに私が選べるものは何もない。馬車に先に乗り込んでこちらを見下ろしている王子が滲んだ。
ごめんなさい。魔王様、シェラ、スー……。
皆の顔が浮かぶ。私は袖口で涙を拭うと、覚悟を決めて馬車に乗り込む。中には蝋燭に火が灯されたランプが備え付けられていて、見たくもない王子の顔がよく見える。
大丈夫。私は黄色い百合令嬢よ。何があっても、この国に危害は加えさせないわ。
馬車が動き出す。すぐに検問があったが、王子の魔術で魔族の姿に見えているため止められることもなく出発した。もう戻れない。
私は深呼吸して心を落ち着かせると、姿を戻した王子と対峙するのだった。




