5.魔王様はちょろい
お城ってどこも変わらないのね、というのがヒュリス様に連れられて歩いた感想だった。廊下の窓から見える月がさらにそう思わせる。先ほどいた部屋は魔王の私室だったそうで、この区画は王族が私的に利用しているため人通りが少ないらしい。
一人侍女らしい人とすれ違ったけれど、宰相の姿を見るなり頭を下げて廊下の脇に下がっていた。頭の上に角がある以外、違いを感じないことに逆に驚いてしまう。
魔族って言ったら、言葉も通じなくて野蛮ってイメージだったものね。
大昔は交流もあったらしいけれど、侵攻を受けるようになってからは断絶したと聞く。
「こちらの部屋をお使いください」
通された部屋は、私が伯爵家で住んでいた部屋の三倍は広く、調度品も格式高いものだった。物を壊さないか心配になってしまう。
キョロキョロと落ち着きなく見回してしまい、ヒュリス様に小さく笑われて顔が赤くなった。
「素敵なお部屋だと思いまして」
慌てておすまし顔を作れば、ヒュリス様は目を細めて微笑んだ。
「ここが一番人間の様式に近いと思いましたので。何か必要なものあれば、言ってくださいね」
「いえ、十分すぎるほどです」
数度だけ入ったことがある継母の部屋よりも大きい。いまだに夢かなと思えるくらい、信じられないことの連続だ。奥には寝室があって、ベッドの柔らかさと手触りに驚く。
「気に入っていただけたようでよかったです。食事は人間のものと大きく変わらないと聞いていますが、何か食べられないものはありますか?」
「いえ、お気遣いありがとうございます。私、何でも食べられることが取り柄なので大丈夫です。それに、ヒュリス様もお仕事があるでしょうし、私はここで大人しくしていますので」
ずっと抱えられたままの書類に目をやると、ヒュリス様は呆れ顔で首を横に振った。
「構いませんよ。魔王様に少し確認したいことがあっただけなので、ここで待つ方が早く捕まります」
「おい、ヒュリス。いつから名前で呼ばれるような仲になったんだ」
突然低い声が聞こえて、私はびっくりして振り返った。寝室の戸口に、ケーキとティーセットが乗ったトレーを片手に持った魔王が立っている。眉が吊り上がっていて、トレーを投げつけてきそうな雰囲気だ。
「魔王様、余裕がない男は嫌われますよ」
「何、そうなのか!? リリア、お前は余裕がある男がいいと思うか!?」
急に魔王の顔がこちらに向き、切羽詰まった表情で訊かれた。その状態がすでに余裕がなくて、半目になってしまったが、ここはヒュリス様に乗っかっておこう。
「そーですね。余裕がある男の人はかっこいいと思います」
「そ、そうか。余裕、余裕な。それくらい容易いことだ」
ちょろい。ふと、子どもの時に下町で聞いた俗語が頭に浮かび、ふっと笑ってしまった。悪の魔王がこんなんだって知ったら、貴族や王族も目を剥いてひっくり返りそう。
「あぁ、リリア。リリアは笑っていたほうが可愛い。もちろん、何をしていても可愛いけれど。ほら、紅茶を淹れるからケーキを食べよう」
嘲笑に近いものだったのに、魔王は上機嫌で窓の近くにあるティーテーブルに茶器を並べていく。丸いテーブルには可愛い柄のクロスが引かれていて、ちょうど三脚椅子があった。魔王がケーキを切り分けている間に、ヒュリス様のエスコートで椅子に座る。
「ちっ……俺の役目だったのに」
魔王は舌打ちをすると、羨ましそうな顔で私の前にケーキを乗せたお皿を置いた。木の実が入った固めのケーキで、見ていたらお腹がすいてきた。
夜会ではろくに食べられなかったんだったわ。
テーブルの脇に立った魔王がカップに紅茶を注ぐと、かぐわしい香りが広がる。
静かに集中してお茶を淹れる魔王の所作はきれいで、王子との付き合いで参加したお茶会で見た王宮の侍女たちのようだった。
へぇ、こっちではお茶が淹れられるのが教養の一つなのかしら。
国では花嫁修業の一環としてお茶の淹れ方も学ばされたけど、完璧においしく淹れるというよりは、侍女たちのお茶の腕を見極めるためって感じだったし。
すっと差し出されたカップの中で揺れる、透き通った紅茶の色を見ていると心も落ち着く。
「こうやって、リリアにお茶を淹れるのが夢だったんだ。ヒュリス、お前のはついでだ」
「はいはい、魔王様からのお茶をいただき光栄ですよと」
魔王は自分の分も淹れると、椅子に座った。私の右手側にヒュリス様が、左手に魔王がいる。国では王族との茶会に参加したこともあったけど、それを上回る存在感だ。特に顔面からの圧が強い。
目のやり場に困って、ケーキを食べようとフォークを手に取る。
「リリアは木の実が入ったものが好きだろ? ぜひ感想を聞かせてくれ」
さらっと好みを把握されているのが怖いのだけど、今頭は甘い物を求めている。私はそこには触れずに、装飾が細やかなフォークをケーキに刺し入れた。しっとりと固めで、様々な木の実が入っている私好みのケーキだ。
一口に切り分けて口に入れれば、ほろりと崩れて優しい甘さと香りが広がる。噛めば木の実の食感と味わいが楽しませてくれて、もう一口と手が伸びた。
「おいしいですわ。王都の有名店にも劣らないぐらいです」
ごくたまに茶会で口にすることができた、人気店のケーキのようだった。おいしすぎて、給仕の侍女にお店の名前を聞いたからよく覚えている。
紅茶も一口飲めば、非常においしくてついカップの中をじっと見てしまった。香りはよく知っているものだから、茶葉は同じ種類だと思うのだけど味が全く違う。
魔王の腕がいいと言うことなのかしら……。
もう一口とカップに口を付けたところで、魔王にずっと眺められていたことに気付いた。満足そうに微笑んでいる。
「口にあったようでよかったよ。前にお茶会で気に入っていたケーキ屋があっただろう? そこの厨房を覗いて、うちの料理人に作り方を覚えさせたんだ」
むせそうになった。
何をやっているの!?
「力の無駄遣いですね……そんなことに使わずに、国防に使ってくれればいいのに」
ヒュリスさんは表情を変えずに紅茶を飲んでいた。さすが宰相、動じない。
魔王が危ない人にしか見えなくて、好感度は最低値を更新し続けている。目を合わせるのも怖くて、黙ってケーキを食べるしかない。おいしいはずなのに、刺さるような視線が気になりすぎて味がわからなくなってきた。
そして、ケーキを食べ終え一息ついたところで、ヒュリス様が「さて」と話を切り出した。