39.帰りは一瞬
「リリア! 本当に何もされていないんだな?」
部屋につくなり、魔王に肩を掴まれ揺さぶられる。その目は真剣で、私は距離を取るのも忘れてただ頷くしかない。
「は、はい。大丈夫です」
「よかった……攫われた時は気が気ではなかったぞ」
魔王は深く息を吐くと、両手を離して一歩引いた。まだ額には汗が残っていて、どれほど騎士団と激しい戦いをしていたかが分かる。
「それと、あいつに変なことを吹き込まれていないよな?」
「いえ、とくには……姫将軍は、お姉様だったんですね」
魔王の話し方から身内とは思えなかったのでそう言えば、嫌そうに顔を歪められた。
「認めたくないけどな……酷い目に遭わされてきた」
「でも、芯が通っていてすごい方だと思いましたわ」
時々過激な発言はあったが、武を究めようという志は純粋にすごいと思ったのだ。
「騙されるなリリア……あいつは女子供には優しいが、男には鬼畜だからな?」
「こ、心しておきます」
魔王とヴァネッサ様の間に並々ならぬ溝を感じる。これ以上聞くのは止めようと半笑いを浮かべた時、ふと気づいたことがあった。
「あの、ヴァネッサ様との間に特に問題はなかったので、部屋に籠っている必要はなくなったのではありませんか?」
「ん? あぁ、そうか……。すまないな、振り回してしまって。明日からいつも通りに過ごしてくれ。こちらからも、スーに事情を説明しておく」
「はい、ありがとうございます」
こういう事務的な内容だと、普通に会話が成立するので根は真面目なんだろうなと思う。
ヴァネッサ様の反応を見る限り、昔から今みたいな感じだったようだし、今度話せることがあったら聞いてみようかしら。……あれ、もしかして、ヴァネッサ様もうまく味方につけたら、魔王様のストーカーを辞めさせることができるんじゃない?
すばらしい閃きに内心喜んでいると、それが顔に出ていたのか魔王が怪訝そうな顔になった。
「おいリリア……そういう顔をしている時は、昔からろくなことを考えていないんだが」
「さらっと盗み見ていた情報を混ぜないでください。ちょっとヴァネッサ様と魔王様との今後について話したくなっただけです」
今までの意趣返しを込めて、少し話をちらつかせると魔王は頬を引きつらせた。
「やめてくれ! あいつに本気を出されると城が壊れる!」
その慌てように少し胸がすっとして、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべてしまった。弱みを握ったみたいだ。
「リリアのレアな笑顔……じゃない。不満があるなら聞くから、交渉のテーブルにつくから、あいつをけしかけるのだけはやめてくれ」
ちょっと情けない顔になっている魔王がなんだか可愛くて、私は口元に手を当てて小さく笑ってしまった。遊ばれたのが面白くないのか、魔王はすねた表情になっている。表情がころころ変わるところは、姉弟でよく似ていた。
「それは今後の魔王様しだいです。……けど、今回は心配をかけてすみませんでした。それと、迎えに来てくださってありがとうございます」
今回は忘れずにお礼を言えた。魔王は一瞬虚を突かれたような顔をしてから、喜びを噛みしめるように口角を上げる。
「俺はリリアを守りたいんだ。だから、どこへでも駆けつけるよ」
向けられている蜂蜜色の瞳は甘くて、優しくて、私はもう一度頭を下げた。
「気にしなくていい。さぁ、今日は休むといい。シェラも気を揉んでいるだろう。送っていく」
あ、そうか。シェラさん、私が急にいなくなったから……。
また自分を責めているかもしれない。そして、今日の肌の手入れに倍の時間がかけられる未来が見えた。
そんなことを思っていると魔王がドアへと歩き出したので、私も続く。
「瞬間移動じゃないんですね」
魔王は瞬間移動を使ったり使わなかったりするけど、その基準がよく分からない。今日は使う魔力が残っていないのかもしれない。
何気なく聞いたら、魔王の顔が少し赤くなった。少しぶっきらぼうな口調になって、視線を向けられる。
「少しでもリリアと一緒にいたいんだ。察しろ」
そんな表情をされたら、こちらまで恥ずかしくなってしまう。飾り立てない素直な言葉に顔が熱くなった。
「さっさと行くぞ」
魔王がドアを開けて私を通してくれる。こういう気遣いはするのに、どうして覗くのをやめるという気遣い以前のことができないのか。
そしてやっぱり、立派なドアについた傷は目を引いて、まじまじと見てしまった。
「……気になるか?」
「あっ、え、その」
無遠慮に見過ぎたかと慌てて視線を外し魔王へ向ければ、ふっと落とすような笑いが返ってくる。
「若気の至りってやつだ。俺にも反抗期があったんだよ」
「なる……ほど?」
そういえば、前に茶会で品のいい夫人に息子が反抗期で壁に穴を開けたという話を聞いたことがあったなと思い出す。
それでも直せばいいのに……。
そんなことを思いつつ部屋へ戻れば、心配で顔を青くしたシェラが安堵の息を吐いて出迎えてくれたのだった。




