29.助けられたのは二度目
ガキンと、固いものがぶつかりあう音がした。待ち構えていた衝撃も痛みも来なくて、恐怖で固くなった体は、ベッドに倒れ込んだ時のように何かに受け止められていた。微かに紅茶の香りがした気がする。
へ……?
とっさに頭をかばっていた両腕の力を抜いて目を開けると、視界は赤かった。それが髪で、蜂蜜色の瞳が見下ろしているんだとゆっくり理解する。
魔王……様。
それが誰か分かった瞬間、気が緩んで泣きそうになった。魔王は片膝をついて、私を抱き留めてくれている。
「リリア、無事でよかった」
安堵の息を吐く魔王を見てほっとしたのもつかの間、表情に滲む怒りを感じ取って背筋が冷たくなる。
「は、はい……」
なんとか声を出すと、魔王の瞳が揺れて安心させるように微笑んだ。そして、一度私を強く抱きしめると顔を上げた。その視線の先を追うと、棒を振り下ろしたまま固まる男がいて息を飲む。
この人、大通りで見た人だわ。
丸刈りの腕が立ちそうな人間の男だった。その形相は殺気立っていて目だけがギョロギョロと動いている。思わず身を縮ませると魔王は私を地面に座らせ立ち上がった。
「か弱いリリアを怯えさせた罪、万死に値する」
低い地をはうような声で、動けずにいる男の頭を鷲掴みにすると、男の表情が苦悶のものに代わり、腕がだらりとたれて棒が地面に転がる。
「シェラ」
魔王に呼ばれ、気を失わせた男を縛り上げたシェラは「かしこまりました」と棒立ちになっている男に近づいた。男から手を離した魔王に代わり、右手の人差し指をその額に近づけた。指先から細く黒い糸のようなものが出て頭の中へ入っていく。やがて男の目から生気が無くなり、ぼんやりとした顔を二人に向けた。
「私たちの問いに答えなさい」
「はい」
魔術に詳しくない私でも、それが精神操作に関する術であることは分かった。その分野は闇魔術に属している。シェラは鋭利な刃物のような口調で尋問を始めた。
「なぜリリア様を襲いましたか」
「……人間の女、それもいいところの出は珍しいから、高く売れる」
ぽつぽつとうわ言のように男は答えた。それを聞いた二人の眉間に皺が寄り、魔王が口を開く。
「高く売れるとはどういうことだ」
術は問いかけるのが魔王でも有効のようで、のろのろと首を魔王に向けて答えた。
「人間の奴隷は闇市で高く売れる」
「奴隷だと!? そんなもの許してはいないぞ!」
「だから高く売れる。人間を嬲り殺したい魔族はいい客で、俺たちは国外に出た人間を捕まえて、売っていた。その女は上物だ」
人間が、奴隷……?
ぞくりと寒気がして全身が総毛立つ。男の言葉に感情は入っていないが、意識があればイヤらしい笑みを浮かべ舌なめずりをしながら品定めをしていただろう。
「来たばかりの人間は、同族を見ると途端に気を許すから……」
「黙れ。これ以上はリリアが穢れる。その声を聞かせ、視界に入れるのも不愉快だ」
そう吐き捨てた魔王が右足のつま先で地面を叩くと、水たまりが生まれるように空間が開いた。黒く無限に続いているような穴に見えるそこに、魔王は無造作に男を投げ入れる。縛り上げられた男もその腕を掴んで引きずり、割けた空間へと落とした。
「これで終わりだ」
軽く手を打ちはたいた魔王がもう一度つま先で地面を叩くと、瞬きのうちにただの地面になっていた。一気に体から力が抜け、息を吐くと同時に大切なことを思い出す。
「スーは、スーはどこ!?」
あれが偽物なら本当のスーは!? 友達になったスーは! どこかで入れ替わったなら、怖い目にあったんじゃ。まさか、最悪の事態なんてことは。
「どうしよう、私の、私のせいで」
思考が恐ろしい結末へと転がり落ち、顔が青ざめる。そんな私の前で、魔王が片膝をついた。目線が合い、優しい手つきで頭を撫でられる。
「リリア、安心しろ。スーは無事だ。生活市場の人ごみで襲われたらしく、気を失って路地で倒れているのを衛兵が保護したと報告が来た。リリアが気に病むことはない」
「本当ですか!?」
「あぁ。そして、入れ替わりに気づけず救出が遅れてすまなかった。あと一歩遅ければと考えると俺は……。いや、わずかでもリリアを怖い目に合わせた自分が許せない!」
魔王は固く拳を握って自分を責めていて、私は激しく首を横に振る。
「そんな! 魔王様には二度も助けてもらって……」
続く言葉を口にする直前で、気づいてしまった。
私、最初に助けてもらったことのお礼、言ってない。
愕然としている間にも、魔王は言葉を続ける。
「辛い思いも、怖い思いもせずに過ごしてほしいのに。リリアを連れてきたのが間違いだったんだ。ケヴェルンで信頼できる人に託したほうが」
いつも自信満々で願望のまま突っ切っているように見える魔王が初めて見せた動揺と弱音を私は遮った。
「魔王様」
呼ぶことで生まれた間を逃さずに、私は魔王の目を見つめ返してはっきりと言葉にする。
「助けてくれてありがとうございました。それと言えてませんでしたが、国外追放になった私を救ってくれたことも、感謝しています。今日のことはびっくりしましたけど、私、こっちに来られてよかったと思っています」
この想いが伝わるようにと、感謝の気持ちを込めて言葉を紡ぐ。嘘の欠片もない、私の気持ちだ。
「リリア……」
魔王は甘い声音で名を口にすると、泣きそうな顔で笑った。美しくて、腹が立ってしまいそうな笑顔。
「その言葉だけで、僕は満たされるよ」
蕩けた、幸せと形容するのがふさわしい表情で、見せつけられたこちらが恥ずかしくなってくる。顔がいいって得なんだからと心の中で小さく悪態をつくと、魔王は私の手を取って一緒に立ち上がった。その目は打って変わって輝いている。
「シェラ! お前も聞いたな。今日を祝日としよう。リリアが俺に感謝した記念日だ。いや、初めての友達記念日でもある! そうだリリア、祝いの花火はどうだった? 思わず感動して5発もあげてしまった!」
張りのある美声で言い放ったのは、数秒前の雰囲気を台無しにするセリフで……。
「ちょっ、何言ってるんですか! というか、しっかりスーとの会話聞いてたんですね! しかもあの花火はあなたのせいですか! この変態! ストーカー魔王!」
路地には夕日が差し込んでいて、赤い魔王をさらに紅く染め上げる。いつの間にか魔王はいつもの調子に戻っていて、私は瞬間移動で城に帰ってからも、ヒュリス様に祝日の制定をもちかける魔王を必死で止めるのだった。




