162.一日、一日と時が進む
「リリアが、俺にがんばれって言ってくれてる……」
「とうとう幻聴が聞こえだしましたか? やはり魔法薬の過剰摂取には副作用があったのでは」
ケヴェルンを守る障壁の核となっている部屋で、ゼファルは机に山積みにされた書類の決裁をしていた。床や壁に刻まれた魔法陣は複雑になり、必要最低限の魔力で障壁を維持できるようになっている。同時に部屋は執務室兼私室に整えられ、会議も仕事もここでできるようになった。
「ヒュリス、俺は感じるぞ。リリアが俺のことを考えてくれているんだ」
書類に判を突く手を止め、窓の外に視線を飛ばしたゼファルの表情はぼんやりとしていて、覇気がない。魔法陣の改善で消費される魔力量が減り、徐々に回復しているとはいえ魔力量は全体の20%に過ぎなかった。緊急脱出に中距離の瞬間移動が一回使える程度の魔力量だ。
だが、今のゼファルの状況は魔力の消耗というよりは、気力、体力の摩耗だった。窓から見える平原には、軍勢が集結しておりここからでも夕日に揺れる第一王子と第二王子の旗が見える。斥候の知らせでは、右翼に第一王子が、左翼に第二王子が陣を張っているらしい。
「魔王様……」
見るからに危ういゼファルの様子に、隣に机を並べて書類を作成していたヒュリスは眉間の皺をもむ。文字を見すぎて目の奥が痛くなってきた。
「お気持ちはお察ししますが、くれぐれもその不甲斐ない姿を他の臣下の前では見せないでくださいよ?」
「わかっている……。が、もう20日だぞ!?」
窓からヒュリスへと顔を向けたゼファルは、拳を机にたたきつける。振動で魔法薬が入れられた水差しが音を立てた。目が座ったゼファルは拳を握ったまま捲し立てる。
「20日もリリアを見ていない。魔力を感じられるから無事だということはわかるが、この目で見ないと安心できない。もう限界だ。リリアの安全を思って連れてこなかったが、俺が耐えられない。というか、なぜリリアの姿を見つけられないんだ。王都、ケヴェルンをはじめ主要な町にいる密偵から報告はなし。反乱軍側がリリアを見つけた様子もない。保護してくれそうな肝心の姉上は屋敷にいないときた。これなら、リリアを連れてくればよかった。そして、守護障壁よりも頑丈な結界で何重にも守って、部屋から出さない。ずっと俺のそばにいてもらう。そうしたら俺は安心だ」
その勢いに気圧され、ヒュリスは鳥肌が立った。ゼファルは寝付けないこともあって隈が濃く、目が血走っている。そこにあるのは狂気で、愛の暴走だ。
ヒュリスは唾を飲み込み、主人にかける言葉を慎重に選ぶ。
「ゼファル様、不安になるのは当然です。魔力が著しく減り、外には敵の大軍、ケヴェルンの住民からの陳情に、籠城戦の準備。誰もが神経をすり減らしております。……ですが、ゼファル様にはリリア殿がいらっしゃらないことが、何よりも辛いのですね」
「当然だ。リリアは俺の全てだ。リリアのために俺はいる。だから……これは俺の我儘で、傲慢で、わかってはいるんだ。だけど、さ」
後半に行くにつれ声のトーンが落ち、ゼファルは顔を背けるように窓へと向けた。
「もし、もうリリアに会えないのだとしたら、あれが最後だったのだとしたら」
その声音は湿りを帯びていて、ヒュリスは胸が苦しくなり眉間に皺を寄せる。ゼファルが向こうを見ていてくれてよかった。その表情を知らないゼファルは、吹けば消える蠟燭の火のような声でつぶやく。
「俺はリリアに、何をしてやれたんだろうな……。押しつけがましいって分かってるけど、考えてしまうんだ。もっと、いろいろなことを一緒にやって、いろんな顔を見たかった」
声が震えそうになったヒュリスはぐっと喉を閉め、こみ上げる感情を抑え込んでから口を開く。
「何を弱気になっているんですか。迎えに行くんでしょう?」
務めて明るい声で、振り向いてくれるなと思いながらヒュリスは言葉を続ける。
「ゼファル様がリリア殿が応援してくれていると感じられたなら、本当に近くに来ているのかもしれませんよ? 実は守りの小部屋から今も見ていらっしゃるのかも」
おどけた調子の言葉に、ゼファルは「ははっ」と乾いた笑い声を返した。信じたいが信じきれない複雑さを感じ取ったヒュリスは、また喉を閉める。ヒュリスとて、反乱軍に負けるつもりは毛頭ない。だが、迎撃準備を進め、敵が見えてくればこちらが不利な現状を嫌でも知ってしまう。
心の奥底で、終わりへの覚悟があることも事実だった。
ゼファルが黒い軍勢を消すように目を閉じれば、瞼の裏には地平線に落ちようとしていた太陽が残っていた。そこにリリアの姿が重なる。黄色に近い金髪の長い髪が、太陽の残像を溶かしていく。思い浮かべるリリアはいつも困った顔をしているか、怒っているか。
(もっと笑わせればよかったな)
今になって後悔しても遅いとわかっていても、心残りが多すぎた。
夕日が沈みだせば夜の訪れを告げる涼しい風が窓から入ってくる。
「今日はこれくらいで終わりにするか」
「そうですね。いつ開戦してもおかしくありませんし、休めるうちに休まなくては」
ヒュリスがそう言って書類をまとめ始めたその時。
爆発音がした。
「ゼファル様!」
「もうか!」
音は下から聞こえた。とっさに立ち上がり身構えた二人の耳に飛び込んできたのは廊下を走る兵士の声。
「侵入者あり! 侵入者あり!」
ゼファルは表情を引き締め窓を閉めると、自分とヒュリスを囲う結界を張り、ドアを睨みつけた。