157.一人の夕闇
一人になった。ヴァネッサ様は廊下に両親の姿がなくなったのを確認すると、「ゆっくりおやすみ」と言い残して隣の部屋に向かった。
体から力が抜けて、ソファーから動けそうにない。心身ともに疲れ切った一日だった。周りに人がいないのは久しぶりだ。
先程の興奮がまだ冷めないからか、頭はぐるぐると回転を続けている。さっきの両親とのやりとり、両陛下との謁見の場面が飛び飛びに頭を駆け巡っていく。だがそこに、魔王様の顔が浮かんだことで思考が止まる。
ゼファル、様……
一度思えば止まらない。急激に不安に襲われた。
ゼファル様は無事?
反乱が起こってから息をつく間がなくて、移動中は常にヴァネッサ様が一緒にいた。気を張っていた部分があったんだと思う。
瞬く間に抑え込んで表面に出ないようにしていた感情があふれ出して、あっという間に流されてしまう。胸が苦しい。心配で、心配でたまらない。
「うっ……」
息を止めて堪えようとしても無理で、涙が零れ落ちる。ソファーに脚を上げてうずくまった。
「ゼファルっさま」
呼べば、来てくれるんじゃないかと。水晶が浮かんでいるんじゃないかと。周りを見回しても何もなく、アイラディーテ様式の調度品が遠くにいる事実を突きつけてくる。
これでよかった? 本当はすぐにケヴェルンに行った方がよかったんじゃないの?
分からないことがこんなに怖いなんて知らなかった。ヴァネッサ様の下には毎日朝と夕に、魔鳥による報告が来ている。王都とケヴェルンにいる部下からのもので、状況を知らせてくれている。だから何かあれば分かるようにはなっているけれど、そこには3日の時差がある。
ミグルドは、どっちなんだろう……。
見えるはずもないのに、窓へと顔を向けた。外はすでに日が落ち始めていて、茜色の空がゼファル様の赤い髪を思い起こさせる。その色は滲み、嗚咽が漏れる。
もし援軍が断られたら……。
私は軍事に関して表面的な知識しかないけれど、今の状況が不利だと言うことは理解している。いくらゼファル様の魔力が膨大で強くても、数に敵わないこともあるだろう。
いや、だめよ。まだ弱気になっちゃだめ。援軍が無くても、ゼファル様の側に行くって決めたじゃない。
自分で自分に言い聞かせても不安は拭えず、私はさらに身を縮める。
会いたい……。ゼファル様に、みんなに会いたい。
膝に顔を埋め、しゃくりをあげる。泣いてもどうしようもないことは分かっている。それでも、涙が止まらなかった。
窓の外はいつの間にか薄暗くなっていて、夕闇が広がっている。地平線にわずかに残る茜色が苦しいほど胸に迫った。一人の夜は始まったばかり。私はまた、身を縮めた。
落ちていく夕日が闇を連れてくる。地平線に淡い茜色が一筋刷毛で引かれたように残っている。あと3週間もすれば、城砦の自室から見える平原を敵兵が埋め尽くすだろう。
ゼファルは時間があれば窓際に置かれた安楽椅子から地平線を眺めていた。反乱が起こり、ケヴェルンを拠点にしてから5日が過ぎようとしている。脇のサイドテーブルに置かれた水差しからガラスのコップに注いだのは、水ではなく魔法薬だった。それを一気に呷る。
(微々たるもんだな……)
ゼファル本来の魔力量からすれば、魔法薬で回復する量はたかがしれている。だがそれでも、今はわずかでも消費より回復を増やさなくてはいけなかった。
(明日はもう少しこの部屋の術式を改良するか)
何から手を付けようかと、ゼファルは部屋を見回す。四隅には水晶が設置され、床には魔法陣が書かれている。守護障壁を維持する負担を減らすために急ごしらえで作ったものだ。奇しくも子どもの時の部屋と似た状態になっていて、皮肉な笑みを浮かべた。違うのは、魔力を吸い取る対象をゼファルに限定したため、他の人が部屋に入っても問題がないということぐらいだ。
(魔力を増幅させる術式を組み込んで……いや、守護障壁の術式から無駄を省いたほうがいいか)
王都の部屋にあったものに比べればかなり荒く効率が悪い。余計な魔力がかかっているのだが、王都の守護障壁は10数年をかけて改良したものなので、今日明日で同じ精度のものができるはずもなかった。
そのため、ゼファルはこの部屋から動けず、もっぱら指示と裁決を行えば一日が過ぎる。実務はヒュリスとケヴェルンの首長が中心に取りしきっていた。ケヴェルンはもともと人間が攻めてきた時に、最初の防衛線が期待される町だったので守備が固い。都市を囲む高い城壁と、中央にある高い塔は有事を見越して作られたものだ。
その塔はゼファルの部屋からも見える。何気なく視線を向けた瞬間、思い出が蘇り眉をひそめた。心臓が掴まれたように苦しくなって、きつく目をつぶる。
「リリア……」
ケヴェルンを訪問した時に、一緒に登った場所だった。頂上からの景色に驚く顔。夢を語ったときのキラキラした顔。そこで交わした言葉。昨日のことのように覚えていて、ゼファルは安楽椅子の背に身を預けると、深く息を吐いた。
体はずっと気だるく、気持ちも浮上しない。臣下がいる時は君主として相応しい言動を心がけているが、独りになるとダメだった。何を見てもリリアを思い出し、何も映らない大きめの姿見に目をやる。
(もう五日だ。リリアはどうしているだろうか。今のところ王都でもケヴェルンでもリリアを見たという報告は来ていない……。どこかに身を潜めているのか)
ゼファルは昨日、魔力に少し余裕ができたから姿見を使ってリリアを探したのだ。守りの小部屋に入っていることを念頭に、お守り代わりに持ち歩いているリリアの髪入りの匂い袋を握りしめてリリアの魔力を探った。だがリリアの魔力は非常に薄く、遠くにあるようで方角も分からなかったのだ。さすがに当てもなく探すわけにもいかず、リリアの捜索は一度断念している。
(ここから遠いというのは安心できるが一人でどこにいったのか……。姉上のところにいるのなら安心なんだが)
もしそうなら、秘密裏に姉が一報入れてくれるはずなので、望み薄だと思いつつも願わずにはいられない。
「リリア……会いたい」
その名を口にして、顔を思い浮かべるだけで心がかき乱される。
「もう、五日も見ていない」
彼女がアイラディーテにいた時は、毎日鏡で見ていた。ミグルドに来てからも、ほぼ毎日その顔を見て、声を聞いていた。
(アイラディーテにいた時より、遠いな……)
思わずため息が出て、視線を外に向ける。日が暮れ、夕闇に染まった空。そこに薄く張られた障壁に、飛んできた雷魔法が跳ね返された。数時間に何度かある攻撃はまだ続いていた。
「これで、よかったんだよな」
ふとした時に考えるのはそればかり。ケヴェルンに連れて来て、守ったほうがよかったんじゃないか。今頃一人で寂しく不安に思っているのではないかと。
(いや、よかったんだ。だって今朝も敵のスパイを見つけた……ここは少しも安全ではない)
毎回そうやって自分に言い聞かせていた。ゼファルはズボンのポケットから匂い袋を取り出し、その香りを嗅ぐ。リリアがよくつけていた香水を染みこませていて、目を閉じれば隣にいてくれているような錯覚に陥る。
「リリア……待ってて。絶対に見つけて、迎えにいくから」
何度もその言葉を繰り返す。リリアへの一方的な約束。ゼファルは静かに息を吐くと、日が落ちた外へと視線を飛ばすのだった。