110.褒賞は戦いの始まり
場が固まった。そう表現するのがふさわしい状態だ。
え、えぇ!? なんで!? 新手の嫌がらせ!?
ロウの真意が全く掴めなくて私は食い入るようにロウの横顔を見つめるが、私にわずかの視線もくれなかった。見据える先は魔王で、そちらの反応も怖くてゆっくりと顔を向ける。
ひぃっ。
ゾッと寒気がして肩が跳ねる。
表情の抜け落ちた顔。二日酔いでロウと一緒にいたところに割って入ってきた時よりも、恐ろしさが増していた。直視できず、救いを求めてヒュリス様に視線を向ければ、困った顔でこちらを見ていた。
微動だにできない緊迫感の中、声を発したのは魔王だった。
「ロウ・バスティン。なぜ、リリアに婚姻を申し込む? 人間を嫌っていると記憶しているが」
不気味なほど平坦な声。王座のひじ置きの上では、拳が固く握られている。重圧を感じて、今すぐ頭を下げたくなった。だが、ロウは一切顔色を変えずに魔王の眼光を正面から受けている。
「人間は嫌いですが、全てを否定するわけではありません。そしてリリア殿は、私に面と向かって立ち向かってくれる数少ない人です。彼女が伴侶となれば、私は驕ることなく夢に向かって邁進できると考えたのです」
開いた口が塞がらない。
え、ちょっと待って。あれ口喧嘩よね? こいつの頭の中どうなってるのよ。
唐突さだけなら、これほど困惑はしなかったと思う。相手がそんなそぶりも微塵も見せなかったロウだからだ。実際、アイラディーテで第二王子と婚約した時は、何も心が動かなかった。
そんな私を置いて、ロウは一歩前に出ると言葉を続ける。
「それに、魔王様に利もあります。我がバスティン家が人間を嫌っているのは周囲の事実であり、王都の過激派をまとめる立場でもあります。その跡取りが人間を伴侶に迎えれば、大きく情勢が変わることになるでしょう」
しかも政略面まで説くので、ますますロウの意図が分からなくなる。
え? 国のため? 人間との友和にでも目覚めたの? 嘘でしょ。
ロウに聞きたいことも言いたいことも山ほどあるが、この重い空気の中でなかなか口が開けない。何より、魔王の出方が分からず下手に口を挟めなかった。
そんな状態で魔王と目が合ったから、目で助けを求める。
「……リリアは驚いているようだが、合意があっての話ではないのだな?」
私は全力で頷く。
「合意……が必要でしたでしょうか。リリアはまだ婚約をしておらず、魔王様の庇護下にありますので魔王様の許諾をいただきたく」
貴族の娘にとって婚姻は義務で、親同士が家の利権を踏まえて決める。政治道具の一つでしかない。それを目の前でやられ、怒りがふつふつと湧いてきた。
私は物じゃないわ!
キッとロウの頭を睨めば、気配に敏感な彼は振り返って不可解そうな表情を浮かべてから顔を戻した。その横っ面を張り倒したくなる。
魔王は不愉快そうに顔を歪めると、低く重々しい声で言葉を刻むように話し出した。
「リリアは、俺の庇護下にあるが、所有物ではない。戦の褒賞として望むのは俺も、リリアも不快だ。選択権はいつだってリリアにある」
ゼファル様……。
乾いた土に水が沁み込むように、その言葉は私の心に入り込んだ。選択権は私にあると言ってくれたことが、私の心を温める。
そこで一度言葉を切ると、私に視線を向けて柔らかい声で話しかけてくれた。
「それで、リリアはどう思っている?」
そう気持ちを言葉にするようきっかけをくれるのが、魔王の優しさだ。ロウがこちらに体を反転させ、視線が絡み合う。ロウの向こうに魔王たちが見えた。その存在が心強い。
私は小さく深呼吸をしてから、声を喉から振り絞った。
「……正直、婚姻は考えられません」
ロウはわずかに瞠目したように見えたけど、瞬く間にいつもの落ち着いた表情になっている。
「不快だったか?」
「いえ……不快とか以前に驚きました。一度もそういう対象として考えたことがなかったので」
嘘のない本心を伝えれば、心が少し軽くなった気がした。ロウは「なるほど」と呟き、顎に手を当てる。
これで諦めてくれるかしら……。
「なら、口説き落とせばいいということだな?」
「なんでそうなります?」
一度本心を出したからか、つるりと言葉が滑り出た。それに対してロウは自信に満ちた表情を崩さない。
「お前に選ばれればいいのだろう?」
「いや、無理ですって」
「この私が本気になれば、できないことはない」
どこまでも偉そうな言い方だ。まるで自分の勝利を確信しているようで負けず嫌いが刺激される。私にだって絶対靡かない自信がある。
「悔しがるのはそっちよ。その高い鼻をへし折ってやるわ」
そう返せば、ロウは楽しそうに口角を上げた。挑戦的な勝負師の顔。
「最高だリリア。私から逃げられると思うなよ?」
こっちだって引くわけにはいかない。
「受けて立つわよ。やれるもんならやってみなさい!」
そう言い返してから後悔した。視界の端で、魔王の顔が強張ったのが見えたからだ。ヒュリス様も頭を抱えている。
やっちゃったわ! これじゃあ、ロウの思うつぼ!
バッサリと「あんたなんて願い下げよ」と断ればよかったのだ。
だが、言い繕う間もなく、内側の近衛兵に退室の時間を告げられた。最初から謁見の時間は決まっていたのだろう。すぐに扉が開き、退室を促されれば従うほかない。
頭を下げた時に見た魔王は、さっきの表情の変化が嘘だと思えるほど自然な王としての顔をしていて背筋が寒くなる。だけど、言葉を発することはできず、後ろ髪を引かれる思いで謁見の間を後にした。
ゼファル様……。
扉が大きな音を立てて閉まった瞬間、何かが閉ざされてしまったような感覚に陥る。
どうしよう。どうするべきだった!? ゼファル様に何て言えば。
今すぐ事情を説明して許しを請いたい。突如心を支配したのは罪悪感だった。その気持ちの名前は分かっても、何に対するものかははっきりしない。
ただ、とてもいけないことをしたような、泣きそうな気持ちになっていた……。




