噛み噛み猫
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
猫や犬といったペットを飼っているとき、苦労することは何だと思う?
何より命を預かる行為だから、無責任なことは許されない。エサにしつけ、それらに必要な時間の用意。ペット自身が年取ってからの面倒に、事情が変わって飼うことが難しくなってしまってからの備え……と、周到にしようと思うと、いろいろなことを考える必要が出てくる。
僕も小さいころから、そんなことをたくさん考えちゃってさ。よそのペットをかわいがるのはいいけれど、自分で飼うのは嫌だ、という結論にいたったんだ。
特にこちらがそうけしかけたりしない限り、生きるも死ぬもそちらの責任。自分にとがめられる要素がないからこそ、文字通りの「猫かわいがり」ができる。
そうやって、自分にとってのおいしいところばかりをいただけるから、外で出くわす犬猫を愛でていた時期もあるんだけど……ある出来事がきっかけで、距離を置くようになってしまったんだ。
君の好きそうな話だと思うんだけど、聞いてみないかい?
僕が学校に通っていた時分は、まだ野良猫や野良犬の存在が珍しくない時期だった。
特に猫は、登下校のルート上で数匹を見かけるケースがよくあり、僕の場合も、道のり半ばで差し掛かる、とある家の薪置き場のトタン屋根。そこで丸くなっている、茶色の毛並みをした猫は毎日のように姿を見せていた。
首輪などはしていない。おそらく、この家の飼い猫じゃない。
距離のあるうちは目をつむっているが、通行人が近づくとたいていまなこを開き、こちらを見下ろしてくる。小屋とその手前の塀が低めなこともあって、僕たち学生も手を伸ばせば、塀の上へ手のひらを乗せるくらいのことはできた。
そうすると、猫は十中八九、手のそばへ降り立ってくる。手を引っ込めずにいると、誰に言われるでもなく、「お手」をしてきたり、鼻を寄せて、すんすんと嗅いできたりと、いかにも興味しんしんといった様子を見せる。
たとえ人同士でなくとも、反応があるのはうれしいもの。そして学校へ向かう途中だと、時間が限られるから、下校時によりふれあう楽しみが増える。
猫を気に掛ける人が少ないのか、それともめぐりあわせがいいのか。僕の帰り際には、たいていその猫も、件の定位置で丸まっており、気の済むまでふれあうこともできる。
エサになりそうなものや、猫じゃらしといった遊び道具になりそうなものを持っていったこともあるけれど、猫は関心を示さない。ひたすら、僕の手へ寄り、臭いをかいでいく。
何度も繰り返していくうち、とうとう甘噛みもしてくるほどになった。指先などを浅く口へ含み、軽く噛んでいく。
痛みはほとんどなく、他の人につままれたような感触だ。それが何より、自分が猫に気に入られた証に思え、ますます気をよくする僕は、引き続き、足しげく猫の元へ通ったんだ。
そうして甘噛みされるのに慣れたころ。
件の猫が、そばに黒猫をはべらせるようになったんだ。やはり定位置のトタン屋根の中央に、二匹並んで丸くなり、目を細めている。
まん丸に肥えた茶毛猫に対し、黒猫は何ともスリム。性別を確かめたわけじゃないが、お金持ちと、その彼女のような雰囲気だ。
僕が近づくと、二匹は一緒に頭をもたげて、こちらを見てくる。いかにも、僕へオーダーを伝えるように。
僕もそれにこたえてやる。いつもやっているように、塀の上へ手のひらを乗せてやった。
ほどなく、ぴょんぴょんと屋根から塀へ飛び移ってきた二匹は、僕の手をすんすんと嗅いでくる。やがてそれは頬ずりに、舌なめに変わり、とうとう親指と小指をそれぞれの口へ含むまでに。
これがまた、なんともくすぐったい。噛み具合が強まったのか、ついつい身をよじりたくなるこそばゆさを覚えてしまう。
指がよだれまみれになると、猫たちはおのずと口を離す。直後、いかにも旨そうに舌なめずりして、口のまわりを濡らしていくのが、なんとも無邪気。僕も気をよくして、休みの日にもつい足を運んでしまうようになった。
そうこうしているうちに、茶毛の猫がはべらす猫の数が増えていく。
一週間に一匹のペースかつ、自らより身体の小さい猫。またメスだろうか。
「お前、モテるんだなあ」と、ほほえましく見守りつつ、手を貸し出していた僕だけど、7匹になったあたりで、さすがに辟易してきた。
遠目にも分かる、トタン上の色とりどり。このころにはもはや、他の通行人に対して彼らは不動を保ち、僕にのみ動きを見せるようになっていた。
通りかかるや、こちらを向いて見開かれる14の瞳。そこに気味悪さを感じないほど、僕も鈍くはない。
登下校の道を変え、例の猫たちがまた現れないまま、日が過ぎていく。
彼らが追ってきたり、待ち伏せしないまま過ぎていく2カ月あまりに、僕はすっかり気が緩んでいたんだ。
そして忘れもしない、あの日の夜。
夏が近づき、半袖のパジャマへ袖を通すようになった晩のことだ。
うだる暑さに、布団の外へ出したままの両腕。それが夢を見ている最中にもかかわらず、急にくすぐったさを覚えたんだ。
意識を取り戻した僕がまず感じたのは、重み。薄めの掛け布団2枚を、上から押さえつけているのは、何匹もの猫たちだったのさ。
彼らは一様にうずくまり、僕の両腕を囲むようにして、うつむいていたんだ。
だが、問題は僕の両腕そのもの。
明かりを消した、闇の中だったから確信はない。
だがあのとき、僕は見慣れた腕の姿を見ることはできなかった。代わりに、腕の乗っかっているべき場所には、腕よりずっと細く、白い枝のようなものが横たわっていたのさ。
「骨!?」と、想像が頭をよぎるや、猫たちが一斉にこちらを向く。
一番顔に近いところにいたのは、例の茶毛猫。その背後、僕の腕を囲うようにして、らんらんと光る金色の瞳の数は、20を優に超えていた。
僕が腕を動かそうとするより早く、彼らは同時に、腕へおじぎ。その口からどろりと、液状の何かを吐き出してくる。
たちまちそれらは白っぽいものへ群がり、膨らみ、またたくまに見知った僕の腕へ変わる。それからようやく脳からの命令を受けて、両腕が跳ね上がったんだ。
先ほどまで骨しかなく、猫たちが吐き出したものが取りついてできた、その両腕がね。
腕の振り上げを合図に、猫たちは半開きになっていたベランダ近くの窓へ殺到。たちまち、夜の街の中へ消えていった。
すぐ明かりをつけた僕は、掛け布団に広々と、赤い血の海が広がっているのを見たんだよ。
それからどうも、猫は苦手だ。
いまだ僕はこの腕が、生まれついてよりの自分の腕なのかどうか、信じられずにいるのさ。