六時限目『 八重紅御前 』【バルーンアート写真付き】
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《 ある古い時代、ある小国の、とある浜辺に漂着した船の中から見つかった手記より 》
恨み、怨み、憎しみ、呪い、嘆き、悲しみ、痛み、悼み、八つ重ねて人を穢す。
其は、不壊の泡。
其は、黄泉帰りし・・[判読不能]・・のかげろひ。
其は、綿津見より来たる厭魅の極み。
・・・[判読不能]・・・
ざわめきとなり 波となり 海霧をまとい、
白き闇の奥よりあらわるは、深き紅の御方。
霧の夜、家から出てはならない。
海原へ、船を出してはならない。
われらは間違った。挑んでしまった。もうもどれない、もう安らかな死は望めない。
・・・[判読不能]・・・
・・・[判読不能]・・・の術が力をなくせばここを引き出される。もうじきだ。かき削る気配はもう、足もとにま ……
── 無人の難破船は、大小のかき傷が外に数え切れないほど刻みつけられ、汚れた人爪が板目にめり込んでいた。
甲板や帆柱、船室の打ち破られた扉、そして、船の底にまで。
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◎ 概要
八重紅御前と彼女に従った軍勢は、昔語りが伝える、東の国の最大級のアンデッドです。
死霊の姫は、波を踏みしだいて歩く巨大な大蟹に運ばれ、白墨のような濃霧と亡者の大群とともに海辺の人々を襲いました。
いかなる妄念をいだいて海の上を彷徨い、人を害したのかだれも理由を知りません。
海の狂気は200年もの年月、東の国を脅かし、幾度か斥けられながら、『百の村と千の大船、万の兵と民が霧の中に滅した』と伝えられます。
しかし、八重紅御前の災いは何百年も昔のことで、今世の東の国の民はその名前も所業も忘れつつあります。
大きな事件もなく突然、八重紅御前はいずこかに消え去り。アシュラの大乱の混乱期、その所業を伝えるさまざまな記録文書、地方の伝承が失われました。散逸した昔語りの一部は、別の怪物の伝承や小説歌曲の創作物に混淆してしまい、実態を分かりにくくしています。
また、八重紅御前は、遠く離れた大陸中央諸国で専門家に意外なほど注目されました。ある著名な魔獣学者は自身の著書で、八重紅御前をラミア、スキュラ、アルケニーとならぶ『進化した魔獣』の一体と記しています。
これは「東の国の大蟹の妖女」が半人半獣(大蟹)、と誤ったイメージで広まった為で、どうした訳かアンデッドであることも正しく伝わりませんでした。
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◎ 八重紅御(東の国の海の死霊)
■異称;夜深御前、黒藻の海姫、霧のキキ(鬼姫?)、フカキさま
■種別:東の国の海の死霊(高位アンデッド)
■出現数と頻度:単独、まれ
■サイズ:人間大
■危険度:大
■知能:人間なみ?
■人間への反応:攻撃
■登場エピソード:なし
■身体的特性とパワー
八重紅御前は、東の国の伝承の海の死霊の姫です。
見た目は十代後半〜二十前後の黒髪の貴人で、『穢海ノ大船』と呼ばれた巨蟹のアンデッドの頭(甲羅)上につねに座し。亡者の大群を従えて、東の国の沖の海を彷徨いました。
▷八重紅御前の容姿
八重紅御前の容貌をはっきり証言できた者はいません。無貌の化け物とも絶世の美姫とも噂されて、当時、いくつも絵姿まで描かれましたが想像の図です。
いくつも不可解な目撃談が残されています。
死霊の姫はつねに巨蟹・穢海ノ大船の上の高い所に有り、夜の暗さと濃い霧のため、本来なら地上の人間は気づくことも難しいはずでした。
しかし、化け大蟹に遭遇したものは頭上の死霊の姫に即座に気づき、黒髪が風になびくさま、鮮やかな衣の色を仔細に語るものさえいました。
同時にその顔は「目にしても見定められなかった」と声をそろえ、影が差したり曖昧模糊としていた等、言葉を濁しました。
八重紅御前の討伐に臨んだ勇士も、同様の不自然な証言をしました。伝統信仰の祭司や魔術師、死霊術師、それに名のある武人で、その中には大蟹の上に斬り込み、姫の至近に迫ったものさえいましたが容貌は証言出来ていません。
しかし、姫は断じて魔法の幻影では無かった。異様な強い気配(いびつな精霊の気配?濃い呪詛?)を放ち、確かに存在していたと語っています。
八重紅御前が声を上げた記録はありません。
立ち上がったことはなく、手指、腕を上げる身振りすら見せていません。また、どれほど人間に攻め寄せられても、魔法や特異な力を示しませんでした(異説あり)。
こうした点は、八重紅御前の昔語りが遠国へ伝わったとき、『女と大蟹の半人半獣』と歪む下地になったようです。
▷ はじまり
八重紅御前の生地や素性、死霊と化した経緯は分かっていません。呼び名も人間がつけた仇名でした。
「八重」「紅」とは坐乗する巨大蟹「穢海ノ大船」に因み、その大バサミを含む八本の殻脚と、深い暗い紅色の甲殻に拠るとされます。
しかし、別の伝承は、大妖の八つの隠滅の情念(恨み、怨み、憎しみ、呪い、嘆き、悲しみ、痛み、悼み)を示して『八重紅』と解きました。
辺土の沿岸部には、さらに幾つもちがう呼び名がありました。
死霊の姫を倒す手がかりをもとめて、東の国のさまざまな個人や組織が軍勢の所業を辿り、全国各地を調べました。しかし、ルーツはつかめず、暴虐の動機も不明のまま終わりました。
最初の被災地も、未だにはっきりしません。
古えの東の国では、国の辺縁は事実上、ろ法の支配の外で、魔獣災害や海賊山賊の害、その他の天災も数知れず。孤立した島や小さな集落の人々を根絶やしにした海の死霊は、かなりの期間、不確かな噂でした。
沖の海を行きつ戻りつするさまも撹乱になったようです。
東の国の有力者に確かな知らせが届いたとき、既に亡者は三千近い大群でした。
その後、八重紅御前と巨蟹・穢海ノ大船、そして海を歩く軍勢に対して、東の国の勇士や国軍は何度も戦いを挑み、何度か大きな成果を上げました。しかし、拡大する勢いは止まらず、霧の海原を万の軍勢が征く光景が出現しました。
▷ 視線
八重紅御前の「こころ」を知る手がかりと目されたのは、ある特定の生者への異常な執着でした。
死霊の姫は、しもべたちがどれほど無残に人々を蹂躙しても微動だにしません。
しかし、陰なす顔より、ときに焼き切るような視線をまわりに向けました。強く惹きつけられたのは、若く美しく、幸福な婚姻を間近にした娘でした。
嫉妬、羨望、渇望、妄執、狂疾 ──
八重紅御前の異常な情念は、標的ではない人間にも視線の『圧』── 熱い毒気とからみつく冷気を感じさせました。
さらに、死霊の姫は軍勢を暴走させ。大蟹と数千の亡者たちは、数瞬前まで襲っていた民衆や討伐の軍勢さえも放り出して哀れな娘に殺到しました。
海を歩く軍勢は何度か力を削られたことがあり。勇士たちに、姫の間近まで斬り込まれたことさえありました。それはいつも、突然の人狩りに狂奔したときでした。
そして、霧の中に連れ去られた娘は亡骸さえ見つからず、その後どうなったか分かっていません。
▷ 忘れられた魔性
八重紅御前と霧の軍勢は最盛期に二万を超えましたが、最後は唐突でした。
活動時期の末。突然、東の国に四つ腕オーガ(アシュラ)の大群があらわれて国都を攻め滅ぼしました。以後百年余、アシュラが支配する大乱(亡国)時代でした。
八重紅御前は、前代未聞の異変に際して何故か姿を隠しそのまま歴史から消えました。理由は謎です。人間に討伐された記録は無く、陸のアシュラたちとの交戦も確認されていません。
東の国の人間勢力は後年、アシュラを斥けたものの、犠牲は大きく、力を増していた海の魔獣に国の沿岸部を明け渡しました。現在も、東の国の人間の生活圏は山間部に押し込まれたままです。
八重紅御前と海を歩く軍勢は、現在も消えたままです。不明の点の多かった情報はふたたび失われたり、変質しています。
■ 最近の動向
近年、八重紅御前の伝承を調べ直す動きがみられます。
東の国で表立って動いている者はさまざまで、落魄した名族、新興の学術組織、著名な歴史家、演劇作家など。それぞれ異なる支援者や協力組織がついています。今日、残された古い伝承は、地方の旧家と識者が守っていますが新しい動きに関係していません。
一般の関心は低かったものの、危険な沿岸部の港の遺構へ発掘隊が送り込まれて、多数の遭難者と行方不明者を出す事件が起き、あらためて黒幕の正体や活動目的に疑いの目が向きはじめています。
一方、最近、八重紅御前の古い文献が廃城の地下でみつかり、大陸の西の聖都の魔獣研究組織に高値で買い取られました。
亜人型魔獣に関する学術交流の最中、偶然先方に発見情報が伝わったのですが、海と縁の無い遠い土地の者が、なぜ消えたアンデッドの伝承に関心を示したのかと話題になりました。
前述の調査活動との関連は不明です。
問題の発見物は一冊の手記と描きかけの絵巻で、八重紅御前と「死告の鳥」の風変わりな異伝でした。
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関連項目
△穢海の大船
△海を歩く亡者と赤鎧の無眼たち
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□□SS(その2)□□ 不死物語
「……そして、乙女巫女のすがたは白く濁った海霧にとけるように消えました」
「……死に物狂いで駆けに駆けて、追いに追って。男が行きついたのは、かれの気勢を笑うようにおだやかな白砂の海辺 」
「婚約者だった男はそこに立ち尽くし、海の彼方を睨みました。消えた霧を探すように。
しかし、明るくなった朝空の下にはひとかけの靄もありません」
「亡者の群れも巨蟹も赤い姫も。村を襲った災厄のすがたは何処にも無く。海べりはゆるやかに波打つばかりでした」
「男は静かに涙を流しました。
その手に、乙女のために選んだ銀糸の婚礼衣装を握りしめて」
・ ・ ・ ・
「 ── これが東の国の『八重紅御前』の伝承。死の海霧、亡者を従えた悪霊の姫の昔語りです」
「「乙女巫女様、かわいそう……」」
ウィラーイン伯爵家の子供たちのいつもの授業。
今日はクノイチのクチバが彼女の故郷・東の国の伝承を語った。
とくに昔語りのひとつ。霧の大蟹と死霊の姫の無情な伝承は双子の姫を怯えさせた。
カラァとジプソフィは怖がって泣き出し、男の子のフォーティスにはりついて右左の腕をひしっと抱いた。三人の子供たちはギュッと身を寄せ合う。
ならんで聞いていたルブセィラ女史は、子どもたちとは反対に茫とした表情で、びっしり書き込んだ自分のノートから顔を上げて眼鏡の位置を直した。
「東の国の海のアンデッドですか……、波の上を歩く死霊たちとは独特ですね」
「そーですね。スピルードル王国と比べると、海や川に臨む土地がとても多いのが東の国です。犠牲者を水面の下に引き込む化け物、海からあらわれる怪異の話は多くなりますね」
「結婚式を目前にした花嫁を攫った、というのは?」
「死霊の姫は生きていたとき、ひとりの男に妄執した大貴族の娘だった。愛を拒んだ男が別の女性と結婚した日に自殺し、妬みと怨みで悪霊になった、とか。
不実な婚約者とその恋人に命を奪われた神楽巫女が、恨みを晴らす為、不死の神に乞い願い、闇に堕ちて甦った、とか。いくつか違った話がありますね」
「真逆じゃないですか ── 動機を付け足したみたいです」
「ちがう逸話が混じったり恨みを晴らす為に想像が付け足されたり。昔語りなので、そーいうのもあるでしょうね、
八重紅御前は古い伝承ですが、いろいろあって失伝した土地が多くてあまり史料も残っていません。おかげで、後付けかそうでないか判断がつけにくいんです。
あれですよ、アルケニーやラミアのように ── 怖ろしい存在と語られていても、ちゃんとした史料はあまりない類いです」
怯えるカラァが、フォーティスの腕にしがみついたまま、潤む瞳で問いかけた。
「巫女様は? 巫女様はどうなったの?」
「連れ去られて二度と帰ってきませんでした。大蟹に乗った悪霊の姫と亡者の群れは、どこかの海へ去ってそれっきり」
ジプソフィが、ひ、と息を飲む。
「そんな、幼馴染みとの結婚は? その男の人は?」
「帰らぬ乙女を待ち続けて、アンデッドに襲われた故郷で慰霊碑を守り続けた、という話です」
「「ひどい、二人ともかわいそう……」」
しくしく、と泣き始めたカラァとジプソフィ。しがみつかれていたフォーティスはカラァとジプソフィの手を握る。
「大丈夫、どんなアンデッドが来ても僕がカラァとジプを守るから」
安心させようと笑顔を見せると、カラァとジプは「フォウー!」と呼びながら更に強くしがみつく。
クチバはそんな子どもたちを微笑ましく見つめながら、
「……どう見ても、守られるのはフォーティスくんだと思うのですが」
「それはどうでしょう? カダール様もゼラさんに守られながら、肝心なときにはちゃんとゼラさんを守る為に戦ったのですから」
ルブセィラ女史は眼鏡の位置を指で直し、自分の大切な教え子を自慢するように。
すると、カラァが流れた涙をフォーティスの服の袖で拭き、顔を上げる。
「八重紅御前って、半人半獣の凄く強いアンデッド、なの?」
「そーですね。半人半獣だったかどうかは分かりませんが、勇敢な戦士や討伐の軍隊を何度も打ち破ったそうです。遥か昔のことですから、どんどん恐ろしく話が変化した、とも考えられますが」
「ママもアシェもクインも、伝承の魔獣、よね?」
カラァの言うことにジプソフィがコクコクと頷く。
「だったら、そんなに珍しくなくて、伝承の怖いアンデッドや魔獣って、アチコチにいるっていうこと?」
「「フォウー! こわいよー!」」
カラァとジプソフィはプルプルと震える。
「どう説明したものでしょーね?」
アルケニーのゼラと人のカダールの間に産まれた双子、カラァとジプソフィ。
歴史上初めて生まれた、進化する魔獣と人の混血。これまで存在しなかった幼いアルケニー。
双子の姫は伝承の怪物たちより、それこそ、クチバの昔語りの死霊などより、よほど珍しく貴い。
しかし、双子の女の子たちは今は無慈悲な死霊の話のせいで、プルプルカタカタ、と蜘蛛の下半身ごと震えるばかりだった。
「どうしたら分かってもらえるでしょう。
今のこの領主館で暮らしながら、伝承の進化した魔獣の不思議と稀少さを納得する?
領都以外の土地では、目撃の噂ですらめったに無いというのに ──」
部屋の扉がカチャリと開く音に、ルブセィラ女史の言葉が止まった。
「 ── そろそろ授業は終わったかしら?」
扉をそっと開けて顔を見せたのはアシェンドネイル。
伝承に語られる蛇身の半人半獣。美しい女の姿で男を惑わし、人を食らうと伝わる魔法使いの魔獣。
街の子供たちを怖がらせる昔話に出てくるラミアは、フォーティスとカラァとジプソフィを見て優しい笑顔を見せた。
「おやつの用意ができたのだけど」
「「「アシェー!」」」
子供たちはてんでに早口で何か訴えながら、いっせいに美しい乳母へと駆け寄った。
「あのねあのね、アシェ、東の国にはとっても怖いアンデッドがいるの」
「大きなカニに乗って巫女様をさらっていっちゃったの」
「海は深くてね、広くてね。追って行けないんだ」
「そう。でも、大きなカニならハイアディが喜びそうね。ほら、三人ともおやつの前には手を洗うのよ」
「「「はぁい」」」
去って行く子供たちと乳母の話し声。クチバとルブセィラは顔を見合わせ、よく似た苦笑をうかべた。
……
「大蟹の海の妖女」のイメージは、『過去の暴虐な半人半獣の魔獣』です。ラハドのラミア(既出記事)に続くものでした。
ショートストーリーは今回二編。NOMAR様、有難うございました。
小説『蜘蛛の意吐』は、異世界恋愛ジャンルの異類婚姻譚です。半人半獣の魔獣(作中:進化した魔獣)は、人を脅かす怪物の中でもとくに危険で魔法を操ると伝えられています。
しかし、幻の存在でもあり、過去の所業も具体的に説明されません。
既出記事の「ラハドのラミア」は、過去の『暴虐な半人半獣の魔獣』の一例目で二次創作物です。今回の「八重紅御前」は二例目(第2弾)になります。
前者はラミア型の戦闘ロボット、後者は半人半獣と誤って広まった海のアンデッドでした。本物?の半人半獣の魔獣がふつう?に暴れる過去事例は、まだコレクションされていません。




