まばたきをする魚
とてもではないがきれいな海とは言えない。みなみが初めて港町に来たときに抱いた印象だった。都心に暮らしていた人にとって地元の人間以上に良く映るはずの町は、彼女が考えていたよりもどす黒く、寒いというだけだった。
新しい住居に向き合うということはもっと楽しくあるべきだと、海に対する第一印象のことは父に悟られないようにした。母がかつて住んでいた場所であり、その残り香を感じられる空間だということを彼女は理解していた。たしかに地元の人たちは笑顔が絶えなかったし、来客を手厚く出迎えてくれるところには好感がもてた。でも寂しいという印象だけが胸に沈み込んでいく海の家では、床板のきしむ音さえ心地よく感じる余裕がなかった。
みなみは姉を待ちわびていた。この町の名物が獲れたというので、みんな港まで見に行っていた。「ひとのこ」という珍しい魚で、ひと月に一度お目にかかれれば良い方だった。うまくいくと解体を見ることができる。そしてさばきたてを醤油につけて食べる。独特のくさみがあり、酒の肴になる。おいしい部位は尻だという。
誰も何も言わないけれど、その容貌は平べったいことを除けば、名の通り人間にそっくりである。手足が生えていて、指はそれぞれ五本に分かれている。内臓のつくりは違うしひれもあるけれど、写真で見た限りでの印象は間違いなく人だった。それを指摘する者はなく、黙々と、名物だからと食べられている。 この小さな港町でしか獲れないのに保護されることはない。一度見たことがある、また見に行きたいと言う父が、みなみには自分の親ではないかのように感じられるのだった。
姉は父の好奇心と母の高い鼻を受け継いでいたがみなみは違った。これは長いこと彼女を悩ませてきたが、十三歳になってようやく、受け入れつつある。自分は自分だと言い聞かせて父とも姉とも適度な距離感を保っていた。それが彼女の一番うまい生き方だった。歳は五つ違うので、料理を教わるにも髪を結わくにも困ることはなかった。しかしこの町に来てから、親しんでいた姉の様子がどこか、変わってしまった。
ドアが開いて姉が興奮気味に入ってくるのを、みなみは迎え入れた。持っているビニール袋のなかにパックのようなものがあるのを見逃さなかった。
「みなみ、お土産だよ」
取り出されたパックの中に真っ赤なものが見え、彼女の顔はひきつった。
「今夜のおかずね」
「食べたくない」
姉は変な子ね、と眉をひそめた。こんな珍味を食べるチャンスは滅多にないのよ、と続けたが、みなみは返事をしなかった。
「じゃあどうするの今日。ここにはコンビニエンスストアもないのよ」
「お総菜屋が駅の近くにあるから」
財布をジーンズの硬いポケットにねじこみ、みなみは外に出た。しばらく歩いてから、今日の夕食当番が自分だったことを思い出した。姉が父に愚痴をこぼしているようすが、彼女にははっきりと想像できた。
まだ二週間しか経っていないというのに、姉は交友関係を深めながらこの街と海について学びつつある。海のことを知り尽くしたこどもたちは少し大きくなると夜な夜な秘密の場所に繰り出して、お菓子を食べながら談笑するらしい。秘密の場所がどこだか、みなみにはわからない。十三歳になるまでに築き上げた関係を強みにした町の子の、よそ者に向ける目は鋭かった。新しく通うことになった学校は、以前の場所の四分の一ほどしか生徒がいなかったが、それでも学年で五十人はいて、みなみはそのほとんどに口を訊いてもらえなかった。皆それぞれに違う人間であるにもかかわらず、統一感があった。卑屈になっているからそう見えたのかもしれない。
惣菜屋は閉まっていた。シャッターを閉めるのがいつもより早いのは、ひとのこがうちあげられる日だからだと、みなみは張り紙で知ることになった。町にはほんの少しの灯しかなく、暗がりの中を歩くしかなかった。ときどき、ふいにかすかな気配が闇の中をたゆたっていた。風は冷たく、彼女を歓迎してはくれなかった。
海風に押しもどされて家に戻ると、父と姉は食事をすませてしまっていて、勝手に出て行ったと彼女に文句を言いつつも冷蔵庫にちゃんと、一人分残していた。青い皿に乗ってラップフィルムにかけられた刺身はてかてかと光っていて、ビニールに油が浮き出ていた。みなみは皿の中身をトイレに流した。便器の中がにおった。この、生ごみが酸化したようなにおいの元は流したひとのこに違いないと彼女は思った。それとももしかすると、父と姉が排泄したものからガスが出て、流しても落ちきらないのかもしれない。彼女の呼吸は荒くなっていった。
ひとのこのなまぐささは町全体に広がっていた。売店では売り子の口臭に顔をそむけなければならなかったし、道行く人からも風に運ばれてにおいが鼻へやってきた。学校も同様にくさかった。目のぱっちりした色白の女の子にも、血なまぐささがあった。皆でうちあげられたものを分けて、儀式のように食べきってしまったのだった。みなみはトイレに流してしまったことを、誰にももらすまいと心に決めた。
授業中にもにおいは漂い続けた。くさみが空気中に広がっていく。鐘が鳴ると同時にみなみは教室を走り出た。次の授業を受ける気にはなれなかった。半分仮病で、半分本当に気持ちが悪くて、早退させてもらった。父に連絡がいったが、家にいないようだった。ひとりで帰れます、と言ってしばらくはうつむきがちに歩いていたが、建物が小さくなったとたん走り出した。
こんなところは嫌だな。彼女は考えていた。でも父も姉もうまくやっている。病気で母を亡くして、叔母さまのとなりでお世話になることになったのだから、もっとこの町に馴染まないと。それはわかっている。でも、なぜだろう。ここの空気を肺が受け付けてくれない。胃もまた、ここの食べ物を拒否しようとする。ひとのこだけではなく、すべてのものに食欲がわかない。
魚屋では見たことのないものばかり並んでいた。肝や脳みそが皿の中でてらてら光り、目玉の袋詰めがぶらさがっていた。みなみが迷っている間、後ろから手が伸びてきてあれがほしいこれがほしいと魚を指さす。何なのかわからないものを食べるのは怖い。その思いから、彼女は一か月でクラスメイトが眉をひそめるほど痩せてしまった。
雨の日の夕方、みなみは堤防へおもむいた。何とはなしに散歩するつもりで、と自分に言い聞かせてはいたものの、本当はみんなが夜に集まる秘密の場所が知りたくて、ヘアピンかお菓子のかけらでも落ちていないかと下ばかり気にして歩いていた。
深いため息が聞こえ、みなみは驚いて顔を上げた。低い柵の向こう側に、男の子が立っていた。使い古したランドセルが足元に置いてある。彼は背を向けたまま、みなみの姿をみとめるまでもなく言った。
「おねえちゃんここのひとじゃないね」
みなみが息をのむと、彼は振り返った。まだ小さいけれど、ほりの深い顔つきはまるで長年の知識と経験を含んでいるかのように見えた。遠くを見据える表情がそう思わせたのかもしれない。みなみがしゃがみこんでこんにちは、と言うと、もう暗くなり始めているよ、と彼が返した。
「お母さんはどうしたの」
「ぼくそんな子供じゃないよ」
まだ小さいくせに、と思っていると、彼はそれよりも、と話題を変えた。
「ひとのこって知ってる? ここの珍味になっている生き物」
頷くと、食べたのか聞かれた。みなみは嘘をついた。
「ぼくは口に含んで出しちゃった」
実は私も、と続けようとしたみなみの言葉は、彼によって遮られてしまった。
「でも今にして思えば、良くなかったなって」
「どうして」
「捨てられた人間を残すのはおぎょうぎ良くないから」
みなみは何と返せばいいのかわからなかった。作り話を始めたのだろうか。それにしては趣味が悪いし、こんな小学生の口から出てくるとは思えない言葉だった。
「この町になじめない人間は、海に捨てられていくんだよ。海の底で平べったくなっちゃったのを打ち上げて、まるで深海魚みたいに扱っているけど、あれはぺしゃんこになった人間だよ」
彼女は思った。話はこうとうむけいだけれど、物言いは大人のそれである。彼は少しして、かあさんが言ってた、と付け加えた。
「どうしてそんなにこわいことを言うの」
「だってほんとのことだもの」
みなみは、彼がここの住人で、よそものの自分をこわがらせようとしているのかもしれないと考えた。こんな幼い子に負けていられないと意地になって、言い返した。
「そんなものはこの土地の作った人達が考え出した噂です」
「噂なんかじゃないよ」
彼は続けた。
「この町の昔ながらのやりかたをちゃかしに来るひとたちが捨てられて、ひとのこになって、それを聞いた人たちがめずらしいものがあるって町にやってきて、また捨てられて、それを見に来るひとがいるんだよ」
「なんてことを言うの」
「それに捨てられるのはこの町の人だけじゃないよ。町では成人の儀式を終えた女のひとたちが、自分に近い人とのこどもを産むから、町は同じ顔ばっかりになるんだよ。おねえちゃんも見たと思うけど、学校の人たち、みんな、どこか似てない?」
そういえば。みなみはあの、学校で感じる、妙な統一感のことを思った。しかし彼が語ることのほとんどは、彼が言う通り母からの受け売りだろう。もしその意味が理解できているのだとすれば、話すことをもう少しためらうはずだからだ。それにしてもそんなことを幼い少年に語る母とはどんなひとなのだろう。想像するだけで、彼女の腕に鳥肌がたった。
「人間はひとのこになって喋れなくなるけれど、本能っていうのかな、この町に戻ってくるんだ。ひらべったいまま、ゆっくり、ゆっくり上ってくる。もし急激に上がったら内臓が飛び出ちゃうからね。それを知ってて、漁師さんは生きたまま捕えようと網をはって待つんだよ。ひとのこは脳がつぶれてしまっているから、学習できなくて、いつも網にかかってしまうんだ」
これ以上気味の悪い話を聞きたくなくて、みなみはばからしい、と言いながら立ちあがった。すると彼は「ぼくもよそものなんだよ」と言った。みなみは歩み始めた足を止めた。
「今は大人達に守られてなんとか暮らしているけれど、そのうち守ってくれなくなる。かあさんはぼくを引き渡すしかなくなる」
「引き渡すって、誰に」
「お役所の人」
もう返事をしなければいいのに、みなみは先を聞かずにはいられなかった。
「何のために」
「ぼくらを海にはなすために」
しばらくの間、静けさが二人を包んでいた。波がせまりくる音だけが響いた。男の子は言った。
「ぼくは、ひとのこになるんだ」
彼の声は震えていた。しかし泣いてはいなかった。すくむ足を見てみなみはとっさに彼の腕をつかんだ。彼は、恥ずかしがりも嫌がりもしなかった。
「そんなこわいことを考えるのはやめなさいよ」
「こわくはないよ。でも、きっと誰にもぼくだってことわかってもらえないまま食べられちゃうんだろうな」
みなみはそっと腕を離した。彼は海底を見ていた。目には光が溜まっていた。
「おねえちゃん、ぼくを見つけ出して。港に小さな堤防があるでしょう。あの近くで泳いでいるから。もしわかったら、水槽に入れてかあさんのところに連れて行ってほしい。でなければ、ぼくを飼って。餌はどれほどいるかわからないけれど、パンを小さくして投げ込んでくれたら生き延びられる。間違っても水道水を使わないでね。死んじゃうかもしれないし」
「そんなの無理だよ。もしひとのこが昔捨てられた人達だったとしても、今ここに人として生きているあなたにはできない進化だと思うな」
みなみが笑うのを気にも留めず、彼は海を眺めている。
「仮にあなたがひとのこになったとして、見分けなんてつかないよ」
「大丈夫。きっと網をくぐり抜けて、おねえちゃんがわかるようにまばたきをするから」
みなみは形だけ頷いておいた。魚のまばたきなんて、見たことがないな。だってまぶたがないんだもの。
「もしそれもだめだったら、そのときは、残さないで欲しいな」
みなみは意味を深く理解しようとはせず、彼の目がまたたくのを見て帰った。長い睫毛にみとれていて、名前を聞き忘れたことに後から気付くのだった。
そうして、彼は本当にいなくなってしまった。父のもらってきたビラが見覚えのある少年の不在を伝えていた。みなみはそこに書いてある名前を何度も読み返した。三好渡。みよしわたると読む。挨拶の言葉のように、それは彼女の頭へと入り込んだ。
みよしわたるの家は、父が知っていた。働かせてもらっている町役場の事務仕事を共にしているのが彼の母親だった。みなみがその場所に行きたいと言うと、父は首を振った。みなみは彼と話したときのことを伝えようとしたが、思い直した。信じてもらえそうにはなかったからだ。
その後捜索の話に進展はなく、ひとのこのときと同じように、誰も何も言わなかった。みよしわたるはいないけれど、彼の顔はまだ鮮明にみなみの頭に残っていた。
彼は海にはなされたのだろうか。窓から見える暗い海の色に肩を震わせながら、みなみは考えた。でもあの落ち着きよう。戸惑うのは自分ばかり。彼女にとって、彼の冷静さは町の人のものと同じように見えた。町と海の、あるがままの姿を受けいれ、運命と向き合う姿勢を見せていることが、自分とはまったく違うところだと思っていた。
それともまさか。みなみの脳裏に、考えたくもないことが浮かんできた。自ら身を投げ入れたのでは。可能性は十分にあった。自分だって例外ではない。
年に数回しか食べられないひとのこの味を知り、また世には出回らない珍しい魚を食べ、それを受け入れた人達だけが町の人間だと認められる。中学校を無事に卒業できたとして、高校ではまた同じ人たちと生活をするようになる。ひとのこのくさみを味わうことができなければ、いずれ自分も身を投げるしかなくなる。みなみは震えていた。
彼女は港に通った。小さな堤防で何時間も過ごすことがあった。学校で上履きや体操着がなくなることなど気にしなかった。夕方になってまばたきをする魚に出会えることだけを待ち望み、いつしか待つことそのものが好きになっていた。彼を待つあいだだけは、さみしいと感じずにすんだからだった。
みよしわたるがいなくなってから一か月と半月、ひとのこがかかったという噂が町に広がった。みなみは学校へ行かず、港まで走った。するとひらべったい、ひれのある人間がブルーシートの上に乗っているのだった。
これがひとのこの姿。写真で見た通り、平べったいがずんぐりした体に、水かきのついた五本の指を持つ手足、異様に短い腕、頭のてっぺんの部分に口、鼻はなく、目は人間並みの大きさだった。
小ぶりだな、という声がどこからかした。大人たちを押しのけて一番前に出た。向けられた視線には目もくれず、ただ一点を見つめた。もう死んでしまったのだろうか、まばたきをしてはくれなかった。目の上を観察すると、皮が余ってひだになっている。
「死んでるんですか」
みなみが青い頑丈なエプロンをした男に聞くと、
「まあ完全にとは言わないけれど、もうじき動かなくなるだろうね」と返ってきた。
「ひとのこは、まばたきをしますか」
男は答えた。
「いちおうまぶたらしいものはあるけれど、見たことがないね。大昔には機能していたのかもしれないね」
解体を見ていくかと言われ、みなみは一度首を振りかけたが、ひとのことは一体どういうものなのかを確かめるために、見ておかなければならない気がした。これはあの子ではない、と思いながら彼女はひとのこが動かなくなるまでを見つめていた。
台の上に乗せられたひとのこの頭部には、穴が開いていた。解体ショーといえど、皆そこまで盛り上がるわけではなく、粛々と始まった。感心して頷いているか、見守っているというような雰囲気で、頭と四肢を切り落とされるという最初の手順にみなみが驚き目を閉じるのがむしろ、異様に見えるほど落ち着いていた。
腹が割かれるときには、彼女ももうそれをただの塊という程度に認識することができたが、ふと横に潰れた人の頭部が転がっているのを見て、やはりこれが人の変わり果てた姿なのかもしれないと思うと、とたんに気分が悪くなってきて、席を立った。出がけに手土産を持たされたが、彼女にはもう中身を見る自信がなかった。
手も足も二つずつあった。顔は、変わり果ててはいるけれど人のものに限りなく近い。これが、気味悪がられもせず食べられているということが、彼女にはどうしても納得いかなかった。
陽が落ちてきて、みなみは小さな堤防の脇を通りながら帰ろうとした。すると、海面にうっすらと影を見つけた。大きなシルエットだった。みなみは自分の手を、もう片方の手で強く握りしめ、海の中を覗きこんだ。
ゆがんだ、短い手足と人のような顔が浮かび上がってきた。みなみは息をのんだ。それはまだ海水の中にいて、生きていて、泳いでいた。みなみが近づいてもずっとその場にとどまっていて、それどころか泳ぎさえもしなくなってしまった。
「みよしわたるくんなの」
みなみはひとのこにそう聞いてみたが、相手は魚、答えられるはずもなかった。まぶたのひだをじっと見たけれど、まばたきをしてはくれなかった。でもなぜだか、疑いようもなくこれこそが彼であると、彼女は思うのだった。
いままでは半信半疑で待っていたから、何の用意もしていなかったが、いよいよ水槽が必要になった。しかしひとのこを入れるほどの大きな水槽を手に入れるなんて現実には不可能だった。仮に売っていたとしても目立ちすぎるし、ひとりでは運ぶこともできそうにない。無理矢理岸にあげたとしても、息絶えてしまう。
みなみはまだ手をつけていないお弁当の、サンドイッチのパンを海に投げ込んだ。ひとのこはしばらく周囲をたゆたい、ふやけたパンのかけらを吸い込んだ。
もし陽が落ちていたら、とみなみは思った。もし陽が赤く海面を照らすことがなければ、きっと影に気づくことができなかっただろう。とにかく早くなんとかしない限りには、町の人につかまってしまう。そして身を散り散りにされて食べられてしまう。陽が落ちて迫る闇が、どうか彼を隠してくれるようにと、願いながらみなみは家へ帰った。
姉はもうすでに帰っていた。みなみが帰宅すると、「どういうわけでしょうね」と迎え入れた。
「あなた早退したそうじゃない。迎えに行ったらいないんだもの。同級生さんに聞いたわよ」
みなみは唇を噛みしめつつ部屋まで直行しようとしたが、ふいに姉の方を、もったいぶりながら振り返った。そのかしこまった振る舞いに姉は何かを感じ取ったのか、黙って彼女を見つめていた。
「お姉ちゃん、ひとのこがなんなのか、知ってる?」
「海に飛んだ人の慣れの果てって話?」
自分から聞いたにもかかわらず、さも当たり前のように飛んできた姉の言葉が刺さり、みなみはしばらく凍り付いてしまった。
「あんなの迷信に決まってるでしょ。こういう町にはつきものよ。都会人たちがああだこうだ言いたがって、本のネタなんかにするのよ」
自分があたかも元々この土地に住んでいた人間かのように、彼女は言った。
「でも、それがもし本当だったら?」
姉は「冗談はよして」と笑った。「そろそろこの土地に慣れたら」笑い声の合間にそう言う。
みなみは姉の方へ歩み寄り、手を取った。
「ちょっと前にみよしわたるって子がいなくなったの、知ってるでしょ」
姉は急に真顔になって、「ええ、そうね」と言った。こういうときの切り替えのはやさは、みなみも見習いたいと思うところだった。もし彼女がばからしい話をされたあと、急にものものしい雰囲気に持って行かれたとしても、ついていけそうになかったからだ。
「海の中に見つけたの」
姉は目を広げ、忌まわしそうに首を振った。
「めったなことを言うものじゃないわよ」
みなみはすぐ、死んでいないよ、と付け足した。
「魚になって、この町に戻ってきてるの」
姉がばかばかしい、ととり合おうとしなかったので、みなみはその手を引き、今から港へ行こうと言った。
「やめてよ。何かおかしいわよ」
姉は地にしっかり足を根付かせ、一歩たりとも玄関へ近づこうとしなかった。
そしてみなみの手を引き剥がすと、彼女からも距離をとった。
「あなた疲れてるのよ。寝たらいいわ」
「でも明日の朝になったら、誰かにとられちゃう」
「もともとあんたのものじゃないでしょ。ひとのこはみんなで食べるものなんだから、勝手に獲ったらそれこそいけないんじゃないの」
みなみは、話している間、どうしてこんなことに必死になれるのか、自分でもわからなかった。でもあの場所でたゆたっているのは、やはり彼だとしか考えられなかった。ふたたびジャケットをはおると、姉がどこにいくのと呼び止めた。みなみが答えずに出ようとすると、待ちなさいよ、と玄関先まで追ってきた。
「みなみ、私達はここでやっていこうって決めたよね。慣れないことばかりあるけど、少しでも早くなじもうって、父さんも私も努力してるのにさ。あなたはどうしていつもそうなの。もう中学生になったのよ。ふらふらしてないで、家のこと手伝って」
「じゃあお願い。一度でいいから、ひとのこを見に来て。今一緒に来てくれたら、ご飯の用意だってお洗濯だってなんだってするから」
みなみは、姉の瞳がわずかに震えているのを見た。彼女の思いが鏡のように自分へと跳ね返り、寒気がした。自分が言っているにもかかわらず、信じられないほど忌まわしく感じられた。不気味なひとのこの姿が海に浮かんでいて、それが行方不明の男の子だなんて。
陽はすっかり落ちて、二人は家を出た。姉は髪を整え、カーディガンを羽織っただけだった。ちょっと出て、見たらすぐに帰るという意思の表れだということは見るにあきらかだったが、みなみは彼を岸へひきあげ、彼に頼まれた通りにするまでは、彼女を返すつもりはなかった。
小さな堤防で、まだひとのこは泳いでいた。周りにはパンが浮いている。姉はこれをみて、後ずさりした。
「ひとのこって海の中にいると結構不気味ね」
「これが、例の、みよしわたるなのよ」
みなみが追い打ちをかけると、いやなこね、と姉の顔が白くなっていく。
「あなた、学校でうまくいっていないんじゃないの」
姉が仕返しのように言った。みなみは答えなかった。代わりに、ちゃんと聞いて、と姉の目を見つめた。
「ここで、みよしわたると会ったの」
姉は地面に座り込んで、耳を傾けた。
「彼は、ひとのこがなぜ生まれたのか、ということを教えてくれたの」
「海に飛び込んだ人が町に戻ってくるっていうんでしょ」
姉が遠慮なく口をはさむので、みなみはむっとしながら続けた。
「うん、でも、そのほとんどはね、この町にやってきたよそものなんだって」
姉はするどいまなざしをみなみに向けた。
「みよしわたるは、自分もひとのこになるって言ってた。彼もまた、よそものだから。私たちと同じように」
みなみは海の中でちゃぷちゃぷ音を立てるひとのこの姿を見下ろす。
「それでね、もし自分がいなくなったら、探してほしいっていうのよ。それで見つかったら、水槽に入れて、お母さんに会わせて欲しいんですって」
そんなの。こらえきれなくなったのか、そこまで聞いた姉が口を開いた。そんなの、いたずらに決まってるでしょ。
「そうかもしれないけれど、あの子、網から逃げて、この小さな堤防で待ってるって言ってた。それで実際、網にかからないでこうして堤防に留まっている魚がいるのよ。もしこれでまばたきを見ることができたら」
「できたら、なんなのよ」
固唾を飲む音がした。みなみには、姉の向ける視線が痛かった。本当に、心配されているのがわかるし、怖いと思われてもいる。それはわかっていた。しかし、姉が緊張しているのはそれだけが理由ではないように見えた。みなみの話し方がうまかったわけでは決してないのに、どこかで、信じようとしているようにも感じられたのだ。
「もし彼だったら、私、どうしても約束を守らないといけないの。できることなら、水槽に入れてお母さんに会わせてあげたい」
「何を考えているの」
姉が声を張り上げた。
「そんなことしてみなさい、みんなの笑いものになるわよ。いいえ、笑ってもくれないわ。人が一人いなくなっているのに」
いつもにこやかな姉の表情には、今まで見たこともない皺が刻まれていた。
「あなたがこの町に馴染めないのはわかるけれど、そんなふうに人の気を引くやりかた、私は好きじゃない」
当然、みなみはそんなつもりではなかった。しかし背を向けて歩いていく姉を引き留めることはできなかった。うしろで、水音を立てているひとのこ。涙を溜めた目がもう一度覗きこむと、暗がりの中で、たしかに、彼はまぶたを閉じた。
みなみは息を止めた。漏れ出そうな声を喉の奥におしとどめた。彼はゆっくりと目を開けた。そして今度はもう少し早く、目を閉じ、また開いた。まぶたのひだが動くとき、みなみは思い切り息を吐いた。
「わたるくん、わたるくんだよね」
自然とそう呼んでいたが、なんだか気恥ずかしくて、みなみはもう一度、「みよしわたるくんだよね」と苗字から言い直した。でも、ひとのこはしゃべることができない。代わりにもう一度、まばたきをするのだった。間違いない。これは彼以外のなにものでもない。
「ごめんね。水槽を用意することができなかった。あなたのお母さんをここに連れてきたいけれど、そんなことしたら悪ふざけだと思われてしまうんでしょうね」
ひとのこが、水をかいて泳ぎだした。平たい体が、海の表面を漂って、小さな堤防から離れだしたのだ。この場所にとどまっていることが、彼であることの証だったのに。みなみは慌てて彼を追った。
「あなたは本当にひとのこになれたんだから、きっと私もなれるでしょうね。でも虐げられていた人たちがこの町に戻って来ようとするかしら。ひとのこになったら、それでも恋しく感じるものなのかな」
ひとのこは答えなかった。何度もまばたきをした。そして、岸から遠のいていく。
もしひとのこになったら、彼と話すことができるだろうか。まばたきを合図にして。そして町に戻ってきたときは父と姉が探してくれる。それまで、町の人たちに捕まらないように、網をかいくぐり、私たちは海上に顔を覗かせたい。引き寄せられるように、みなみの体は向かい来る暗雲へと向かっていった。雲が集まってきて、雨を降らした。海面には波紋が浮かんだ。
父のまさると姉のかなえは、その日もみなみのことを思いながら海辺に立っていた。
これは漁師さんが教えてくれたんだけどね、とまさるが重い口を開く。
この港では昔、多くの人が身を投げたという。その場所でしかとれないひとのこは、海底から上がってきた人間の姿だという言い伝えが沸いた。噂は港に飛び込むとひとのこになるというものに変わっていき、津々浦々に広がった。人生に嫌気がさしたものは、みなこぞって飛び込んだ。町の人はそれを止められず、ひとのこが獲れるたびに、畏怖の念を込めてそれを食べきるのだった。
ひとのこの姿で生まれ変わろうなんて都合が良いわ、とかなえが言った。ただ命を無駄にしただけなのに。
まさるは眉を下げながら笑った。でもね、かなえ。もしかするとみなみは、まだこの海の奥深くにいるのかもしれない。ほら、わたるくんのおかあさんも、この港に来ているよ。かなえは、血色が悪く、化粧気のない女性が小さな堤防の先に立っているのを見た。しかしその顔はなぜか凛として、艶やかにも見えた。
かなえは学校で聞いていた。みよしわたるは落とされたのだ。自分から落ちたけれど、それよりもっと前に、おまえを海に落とすと、のろいの言葉を何度も聞かされた。彼は頭が良くて、本をたくさん読んでいた。この町の伝説をこわいようにうそぶいていた。都合が悪くなるとおかあさんのせいにした。その振る舞いがみんなを怒らせた。噂はこどもたちだけのものだけれど、かなえは、父にだけはちゃんと話したのだった。
こんなくだらない伝説が人を殺すなんて。かなえは言った。くだらないかな、とまさるは言った。みなみが見つけたひとのこは、きっとわたるくんではなかっただろう。一説によれば、はるか昔の人だと言われてもいる。もし伝説が本当だとして、今ここにひとのこの姿で現代の人間が現れることはないだろうね。そうとわかったら、おまえはここに立つのをやめるかい。
かなえは、みなみの残した手紙を握りしめて、遠く海を臨んだ。
小さな堤防で、まばたきをする魚を探してください。もしだめだったら、残さないでください。
ふたりは毎日、夕暮れ時になると儀式のように港に立った。ひとのこがうちあげられると、町の人と同じように平らげた。
気が付くと風は温かくなっていて、春の訪れを告げていた。