1.帰りの馬車でアクシデント
「ブヒヒヒヒーン!!」
「うわ!どうした?!落ち着け!おい、落ち着けったら!」
御者が必死になだめるも、馬は言う事を聞かない。
街道を進む1台の乗り合い馬車。もちろん普段は馬が暴れることなど無い。
「一体どうしたってんだ…うっ?!」
妙な殺気を感じて、道の左に視線を移した御者は、はるか遠くに見える森から何かが近づいて来ているのが見えた。
「ヤバい、オオカミだ!畜生!ここ数年オオカミが街道まで出てくるなんて事は無かったのに…」
逃げようにも、馬車のスピードでは迫りくるオオカミから逃げきる事は難しいだろう。
慌てふためく御者や馬の異変は馬車の中にも伝わっている。
「なんだ?何が起こった?!おい、アレってオオカミじゃないか?なんてこった、あんなにいたら逃げきれないな」
暴れる馬に気付いて外を見た男が、絶望するよう言った。確かに迫り来るオオカミは1匹ではなく、4匹いるように見えた。
そして、さらに絶望的なことに、そのオオカミは普通のオオカミでは無かった。
「でかい!あれはそこらにいる灰色オオカミじゃないぞ!ダイアウルフだ!最悪だ!」
「キャーーー!!」
現在、馬車の中には4人。
窓の外のオオカミを見つけた30代くらいの男性。20代前半と思われる女性。
そして10歳の少年テオバルドと、同じく10歳の少女ナタリア。
「どうしよう…テオ、私たちどうなっちゃうの?怖いよぉ」
テオバルドは思った。
『あのおじさんじゃオオカミと戦えないだろうな。お姉さんも無理そうだし、僕もナタリアもオオカミなんて倒せない。これは馬車の中で助けが来るまで耐えるしか無いだろうな』
テオバルドはダイアウルフを見たことがなかった。そうでなければ馬車の中で耐えるという選択肢に意味があるとは思えないだろう。
「もう、ママにも会えないのかなぁ。ねぇテオったら、ねぇどうしたら…」
ナタリアは恐怖を紛らわすように、小声でしゃべり続ける。
御者も、迫りくるオオカミがダイアウルフである事に気付いた。そして、咄嗟に思いついた僅かな望みに縋ることにした。
その僅かな望みとは、馬車を捨てて、自分だけが馬に乗って逃げることであった。
客を置いて逃げる?いや、これは見捨てるのではなく、助けを呼びに行くのだ。そう、ダイアウルフを相手に、このままではどうせ全滅は免れないのだから!私が行かないで誰が行くのだ!
罪悪感が無かったわけではないが、これは正当な行為なのだと自身を納得させた御者は馬車から馬を切り離し、馬に飛び乗ると、
「待っててください!助けを呼んできます!」
と叫んで一目散に駆け出した。
一方で残された馬車は地獄だった。
「畜生!あいつ、自分だけ逃げやがった!」
男は文句を言ったが、全く動けない馬車に取り残された4人は、オオカミが諦めるか、助けが来るか、そうでなければ死あるのみであった。
普通の灰色オオカミならともかく、体重500kgとも言われるダイアウルフ4頭に襲われたら、馬車など何分もかからずに簡単に壊されてしまうだろう。
「テオ…どうしよう助けて…」
真っ青な顔で、ナタリアはテオバルドに縋りつく。
「あ!あっちへ行ったぞ!」
オオカミの様子を見ていた男が言った通り、4頭のダイアウルフは馬に乗って逃げる御者に興味を持ったようだ。
遠ざかる馬の方向へとその進路を変え、まっしぐらに追いかけていく。
ある程度の距離があれば、逃げる馬に狼が追いつくのは難しいかもしれない。
瞬発力はともかく、持久力では馬の方が優れているからだ。
しかし、それは相手が普通の狼であった場合。
体格が普通の狼とは桁違いのダイアウルフから逃れるのは、馬であっても容易ではない。
鞍もついていない馬にしがみ付き、必死に逃げる御者であったが、ダイアウルフはみるみるうちにその距離を縮めてきていた。
馬も命の危機を感じるのか、必死に走る。しかし、追うダイアウルフには疲れる様子もない。
その距離3mほどまで迫った所で、1頭のダイアウルフが逃げる馬に向かって左後方から飛び掛かった。
「うわぁぁ!」
思わず悲鳴を上げる御者。寸でのところでオオカミの前脚を躱したものの、絶望的な状況に変わりはない。
すぐさま2頭目が飛び掛かるが、馬の蹴り上げた後ろ脚が邪魔になったのかこの攻撃も不発に終わった。
しかし、いつまでも躱していられるわけでは無かった。
「ガウァーーー!」
先頭を走っていたダイアウルフが吠えると、その威圧感のある声に500m以上離れているであろう取り残された馬車の中にまで戦慄が走る。
「ブヒヒヒヒーン!!」
「あっ!?あぁぁー!!」
至近距離での雄叫びに馬がパニックを起こし、跳ね馬のように前脚を高く上げて嘶く。
振り落とされた御者は地面に転がりながら、悲鳴を上げた。
「ガウォーーー!」
「ガウァーーー!」
2頭のダイアウルフは馬に襲い掛かり、残る2頭は哀れな御者に襲い掛かった。
「グガッ…」
「ヒッ!…」
さしたる声を上げる事も出来ずに、馬と御者は殺された。
ダイアウルフにしても、馬はかなり食べ応えがあるだろうが、御者と合わせても4頭が満足する量にはならないだろう。
「あぁ…」
「ナタリア、見ちゃダメだ」
テオバルドは言ったが、もう手遅れだった。あっという間の惨劇を見てしまったナタリアはガタガタと震えている。
「クソ!もうグズグズしちゃいられねぇ!おい!お前ら、とっとと馬車から降りろ!」
一緒に馬車に乗っていた男がいつの間にかナイフを取り出し、こちらに向けて言った。
「オラさっさと出るんだよ!もたもたしてると、動けないようにしてから放り出すぞ!」
「えっ?何で…?」
テオバルドが聞き返すと、男はイライラしたようにナイフを振りかざして叫んだ
「おめぇらが外に出て、ダイアウルフを引き付けるんだよ!多分ある程度腹は膨れてるだろうから、おめぇら3人が喰われてくれりゃそれで満足するかもしれねぇだろ?」
「そんな酷いことを…」
お姉さんも顔面蒼白でつぶやいた。
「オラ!とっとと出ないとオオカミが来ちまうだろうが!足を刺されて動けなくなってから放り出される方が良いのか?あぁ?」
血走った目でナイフ男が迫る。
「もうやだ!助けて~!」
「うるせぇ!ガキが!ぶっ殺されたくなかったら黙って外へ出ろ!」
ナタリアが叫ぶと、男はそれを一喝した。
「ナタリア、外へ出よう。走れるうちにここから逃げた方が、まだ助かる可能性があるかもしれない」
降りる決心をしたらしい子供たちを見ながら、
『外のオオカミより、あなたの方が危険そうですからね!』
そう考えた女性も一緒に外に出ることにした。
「とっとと外に出ろ!せいぜい遠くまでオオカミを惹きつけてくれよ」
ナイフをペチペチと叩きながら、男は言った。
外に出ようとするところを男に蹴り落されそうになったが、何とか怪我をすることなく馬車から出ることが出来た。
「全くとんだ災難ね。ダイアウルフもそうだけど、あの男も最悪よね。まぁどっちみち助かる可能性は低いからあまり違わないかもだけど…。それより彼女は大丈夫?」
「えっ?あ、僕の彼女って訳じゃ…」
ナタリアは震えながら僕にしがみついている。
トンチンカンな受け答えをスルーして、女性は続けた。
「聞いて。もうこうなったら逃げるしかないわ。オオカミたちと逆方向…もと来た道を引き返すのよ。あ、私はアンナ。普通の格好してるけど、これでも修道女よ」
「僕はテオバルドです。こっちはナタリア。ソラン村まで帰るところだったんです」
「状況は絶望的だけど、最後まで諦めちゃダメよ。神が見守ってくれると信じて…神の祝福を…HOL・AS・NU!」
アンナが最後につぶやいたのは祝福の呪文なのだろうか。淡い光が全身を包んで、テオバルドは身体の中から何かが込み上げてくるような感覚を覚えた。
「テオ…なんだか身体の奥から力が湧いてくる気がする」
ナタリアも同じように感じたのだろうか、恐る恐るテオバルドに告げる。
「よし、行こう!」
もと来た道を戻るように3人は駆け出した。
「さぁ、もう悠長に話している時間は無いわよ!草むらに隠れながら走ったとしても、どうせ見つかっちゃう!このまま道を走ってなるべくここから遠くに逃げましょう。そうすれば…」
アンナはチラリと馬車を振り返って言った。
「…あっちが先に標的になるかもしれないしね」
祝福のお陰なのか、テオバルドはいつもより自分が速く走れている感じがしていた。気が付くと、ナタリアやアンナを置いていきそうになり、ちょっとペースを落とさなくてはならないほどだった。
「テオ!私、なんだか身体が軽くなったみたい!これなら逃げられるかも!」
「全然まだまだ足りないわ!もっと遠くまで逃げるわよ!」
ダイアウルフが食事に夢中になっている間に、なるべく距離を稼ごうと走り続ける3人。
1~2分ほどで馬車から5~600mは離れたであろうか。
テオバルドはチラリと二人を振り返ると、恐らく御者の方に襲い掛かったのであろう2頭がこちらに向かって来るのが見えた。
「オオカミが来た!二人とも急いで!!」
「キャー!」
思わず悲鳴を上げるナタリアであったが、そのまま全力で走り続ける。
どうやら動かない馬車よりも、動いている獲物に興味がそそられるのだろうか。オオカミは止まっている馬車を素通りして、テオバルド達の方を追いかけてきた。
オオカミとの距離は約500m。いつもより早く走れていたとしても、もう追い付かれるのは時間の問題であった。
「あ~あ、馬車じゃなくて、こっちに来ちゃったか。神様も意地悪よね」
「お姉さん、最後まで諦めちゃダメって言ったじゃないか!」
3人は必死に走るが、ダイアウルフはどんどん迫ってくる。
「テオ…さすがにもう疲れて…あっ!」
足がもつれて転ぶナタリア。
「ナタリア!」
「キャー!テオ、助けて~!」
1頭のダイアウルフが転んでしまったナタリアに襲い掛かる。テオバルドは怖さを忘れたかのようにナタリアの方に駆け出していた。