動き出す世界【10】イカれた勇者
「アレは何故あれほどまでに愚かなのだ・・・」
皇帝アラキラムは、皇太子アレウスが開け放ったままの扉の向こう側に続く長い廊下を眺めながら呟いた。
腹違いとはいえ、実の妹に手を出すとは・・・
あの時、クロイが見せた水晶球にはアラキラムの愛娘ジェシカが映し出されていた。猿轡を噛まされた痛々しい姿でロープでグルグル巻にされ、冷たい石の床に横たわる姿がアラキラムにある決断をさせた。気絶でもしているのか、映し出されたジェシカはピクリとも動かなかった。
「イスバル、おるか?」
「は、ここに」
呟き程度の声に反応し、前方の空間が揺らぐと、黒装束の男が音もなく現れアラキラムの前に方膝をついて控えていた。
「動きを掴んでいなかったのか?」
静かに、しかし明らかな怒りを含んだ声が黒装束の頭上から突き刺さる。イスバルほどの手練が何も掴んでいなかったなどという事はあり得ないのだが、彼は言い訳ひとつせずただ深々と頭を下げた。
「まぁよい。クロイの事だ。謀略の類いにおいてあれほど頭の回る奴もおらん。例の秘術とやらを使われては惑わかされても仕方あるまい」
全て見抜いているという様に頷いたあと、アラキラムは部屋をくるくると回り、口惜しそうに手に握ったままだった匙を床の上に叩き付けた。
「姫は無事なのだろうな?」
「はっ。先ほど無事を確認しました」
「して、場所は?」
「ヤナ湖の関にある物見塔の地下にございます。救出を済ませ、こちらに向かわせる手筈を整えてございます」
「様子は?」
「薬で眠らされていたようですが、命に別状はありません」
「そうか・・・」
少し考え、何か言おうとしたアラキラムであったが、そのまま「下がれ」と命じ椅子に腰を下ろした。
イスバルはもう一度頭を下げると、現れたと同様に忽然と姿を消した。無事と聞かされ表情を弛めたアラキラムであったが、改めてあの忌まわしき幽霊参謀の手腕を知るにあたり、不気味さとともに畏れを抱いた。
あれは危険な男だ。アレウスがあれほど強気でいられるのも、常にクロイが裏で手を回しているからだ。昨日の様子からして何か仕掛けて来るとは予想していたが、警戒していたにも関わらず防ぎ切れなかった。
もっと人員を割くべきであったか・・・
アラキラムに後悔の念が走る。イスバルは極めて優秀な男だ。この短時間に姫が幽閉された場所を特定し、救出をしてのけた事でもそれは分かる。ただ地下に閉じ込め放置していたとは思えないので、当然のごとく戦闘もあった事だろう。
「まだ間に合うかも知れん・・・」
勇者の眠る聖宮の鍵を受け取る時、アレウスは2つのミスを犯した。勝利を確信し口を滑らせたのだ。
「早く助けに行かないと可愛い姫がセイレーンに喰われるぞ。日が暮れるまであと数刻もない。急げよ、オヤジ殿」そう言ってきびすを返した息子は、入って来た時と同様にガチャガチャと鎧を鳴らしながら取り巻きどもを引き連れ帰って行った。
いかなアレウスといえど、妹を殺すなどの暴挙はしまい。むしろ、そうなっては困ると思っているはずだ。海は遠く、日暮れまでに探し出して救出するには距離がありすぎる。しかし、セイレーンの名を出して明らかに海に誘導するような事を口にしたという事は、姫を幽閉した場所は命を脅かすような危険な所ではないという事だ。
もし仮に命を落とせば、その責はアレウスにあり、皇太子の地位を失う危険性が極めて高い。アラキラムの溺愛ぶりを見れば、ジェシカを傷つけて何のお咎め無しは有り得ない。下手をすれば自分の首が飛ぶくらいの事は馬鹿でも想像できる。
水を連想させる土地でそう遠くはなく、人目につかぬ石造りの建物がある場所といえば帝国領内では限られてくる。わざとらしく遠方へ誘導する理由は、勇者を手に入れたとしてもすぐには出兵できる状態ではなく、なるべく時間を稼ぎたいのだと推測できる。クロイ伯の後ろ盾があったとしても、この急場で集められる手勢は五万がせいぜいだ。アレウスが動かせる個人的兵力はたいした数ではない。過去にもいろいろ問題を起こしており、現在の皇太子は実質的には謹慎中の身なのである。
皇太子の言葉を聞き、イスバルが即座に動いた事は合図を受けて分かっていた。その素早い行動により思いのほか早く事態は終息したが、これはアレウスにとっては大誤算であろう。今ごろ姫が救出された事を知り、内心焦っているに違いない。
伝令を飛ばし出兵の準備をさせるとともに、アラキラムは親衛隊6名のみを連れて軽装のまま馬を走らせた。皇太子が宮殿を去って1時間後には170名に増え、更に二個騎兵中隊と合流しながら、勇者の住まいである聖宮を目指した。
先頭で馬を操りながら、アラキラムは勇者暴走の惨劇を思い出していた。勇者を連れた部隊が夜営のため陣を張った人口700人程の小さき村は、暴走した勇者により一瞬で全滅した。そこには真っ赤に焼けた山肌と干上がった湖が残るのみで、樹木も家々も全てが炭と化し、その爆心地に倒れた勇者ひとりを残し地図の上から永遠に消えた。勇者はその時の事を何一つ覚えておらず、ただ星がうるさくて音を消したかった、ななどと曖昧な言葉を残したのみだ。
今の勇者を召喚してより37年になる。
アラキラムが39歳、アレウスが7歳の時だ。『ロドイの悲劇』と呼ばれる、勇者が歴史上はじめて敗れてから7年後、準備の途中であった召喚計画を前倒しして儀式が執り行われた。
未完成のまま強制発動させた異世界召喚陣は、召喚式を制御する多くの術者とともに製造魔術の一級技術士であったアレウスの母ロザリーの命を奪った。ロザリーは魔法国家ヘブンドールから嫁いで来た王族の娘だ。醜女であったが聡明で、僅か17歳でヘブンドール上級魔法学機関を首席で卒業した程の天才だった。
嫁いですぐ子を成しアレウスを産んだが、その後の世話をする事も一切なく、ただ召喚陣の完成に全ての時間を費やした。才女ロザリーとヘブンドールからの強力なバックアップがなければ、勇者の召喚は更に遅れ、勇者不在の人類はもっと酷い状況に陥っていた事だろう。
ロドイとは負けた勇者の名である。
その者は、召喚されて2年目の15歳の少年だった。だが、能力的に過去の勇者に比べ劣っていた訳ではなく、むしろ傑作などと嘯く学者さえいた程の破壊能力を所持していたと記録されている。
彼の悲劇は、力に溺れ己を過信した事にあった。あまりにも大きな力は時にして人格を崩壊させ、慢心を呼ぶものだ。そこをあの大魔王ゾーダにつけこまれた。魔法攻撃に対しての絶対防壁があるとはいえ、物理攻撃による超回復力を上回るダメージを負い続ければ勇者とて死ぬ。
聖なる鎧コルペシオと回復能力を持つ盾アバロン。この勇者専用装備は、物理攻撃が弱点である勇者を守る為の動く要塞であったのに、何を思ったのかロドイは、戦闘中にアバロンを手放し聖剣を両手で握りしめ魔王に挑み掛かった。
その時の戦闘については不明な点が多いのだが、魔王ゾーダは自身の肉体を対価にして、魔法ではなく超秘術をもって勇者を葬ったと云われている。勇者が負けたという知らせは、当時の人々を絶望に追いやった。すぐに新たな勇者の召喚が求められたが、前回より3年と経たぬ状態では直ぐにという訳にもいかず、戦争が更に勢いを増す中、人類は次の召喚儀式を成功させるまでにとんでもない犠牲を払う事になったのだ。
―――アレも不幸な時代に少年期を送ったのは確かだ。幼き時に母を亡くし、ワシも構ってやれる時間がなかった。だが、それでもワシはお前に対し出来る限りの事はしたつもりでいた。何が間違っていたのか、今でも分からん・・・
ジェシカの姿を見たあの時、アレウスを排除すると決断したはずだったが、その決心が揺らぎつつある自分を感じていた。若い時の自分であったなら、躊躇わずに実行に移した事だろう。しかし歳を重ね、世継ぎの事や国の行末により多くの心を割くようになってからは、己が少しづつ変わっていくのを感じていた。あのようなうつけであっても、誰もおらぬよりはマシだと考える自分が嫌でならなかった。生き残った息子は皮肉にもアレウス一人だったのだ。
そのアレウスは、アダムが無能と知らされてから動いたのか前々から計画していたのかは分からないが、勇者を連れ出し停戦協定を無視して魔族領に乗り込む気でいる。
あの馬鹿を止めるには、親である自分が直接行って聡さねば他の者では押しきられてしまうだろう。精神的に不安定な時期に勇者を目覚めさせ、あの惨劇を再び起こす訳には絶対に行かぬ。先ほどジェシカから連絡があり、兄を殺すことだけは絶対にしないで欲しいとお願いされたばかりだった。
「はやまるなよ馬鹿息子・・・お前には償いをさせねばならんのだ」
従者には聞こえぬほどの小声で呟くと、アラキラムは瞳に力を込めて前を見据えた。あと20分も走れば勇者の眠る聖地が見えてくるはずだ。既に陽は西に傾き、空には赤みが差していた。
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夕焼けを背にした小高い丘の上に、簡素でなんの飾り気もない白い箱型が見えて来た。長方形の大きな石の箱の下方に1ヶ所だけ逆V字に切り取られたような入り口が設けられているが、それもまた何の装飾もない小さな亀裂のように見える。無数に並ぶ聖魔石の残骸が、丘の頂上へと続く道の両側にまるで巨大な墓地に立つ墓標のように目に映っていた。
緩やかに登る平原に立つその箱は、周囲に比較する対象が何もない為に大きさが分からないが、近くまで行くとその異常なまでに巨大で、普通の感覚では考えられない規模の建造物である事が分かる。
遠くから小さな亀裂のように見えた入り口でさえ、高さは40㍍を軽く超え、横幅も10㍍以上はある。馬に乗った男が8人横並びになって通過できる程の大きさだ。箱の全体などは、普通の方法では測る事も出来ない程に巨大だった。一番上の端が低い雲に届いている言えば想像つくだろうか?
それはペタンと横になった長方形の高さでしかなく、長さはその何十倍もある。比率的には長さと幅と高さが、30対5対3であると言われているが、正確に計った者はたぶん誰もいない。長さに至っては、馬で走って何十分もかかるほどなのだ。
その石箱は1枚岩で出来ているようで、継ぎ目ひとつなく、顔が写るほどにツルツルに研かれている。現在入り口として使われている亀裂も元々は無かったそうで、大昔に存在したという伝説の勇者が外に出る為に壊したと言われていた。
この建造物が、人の造れる物ではない事は既に証明されている。使われている石の破片を持ち帰り加工を試みたが、どのように硬いドリルや工作機械の刃を使用しても傷ひとつ付ける事ができず、魔法による加工精製も時間が経つと元の破片に戻ってしまい事象を固定できないのだった。
この神の創造物と言われるアーティファクトの箱の中で、人類側の異世界召喚は行われる。その方法は、魔族側が行うそれとは大きく異なる仕組みとなっていた。
召喚される者との間には事前契約があり、契約者に合わせた細かな設定や、それぞれの最大存在量に応じて調整された勇者専用の固有能力まで準備できる。
全てが緻密に計算された設計図に基づいて製作されるオリジナル召喚陣が用意され、エネルギーとして使う聖魔石を何年も掛かって集めて術式を刻みながら加工するのだ。丘に無数にある聖魔石の残骸は、召喚によってエネルギーを使いきった制御棒の成れ果てだ。
そうして召喚された勇者は、契約期間満了まで老いる事も死ぬ事なく人類を守る。そして召喚に使われるこの建造物は、そのまま勇者の住まいとして代々使われて来たのだった。
入り口の両わきには高さ3㍍程の鋼鉄製のゴーレムが門番として立ち塞がり、王の印若しくは聖教会の関係者以外の侵入を拒んでいる。入り口に到着した皇太子一行は、馬を降りて印を門番の前にかざし通行が許可されると、そのまま歩いて中に進んで行った。入り口と言っても本当にただの亀裂であり、外壁に残る生々しい傷跡は何千年も過去に出来たものでありながら全く風化した様子も見せずにそこに在る。
厚さ15㍍ちかくある壁の亀裂をくぐり抜けた先には広く解放された空間があり、そのずっと先には、大きな石の柱が規則正しく並んでいるのが見えた。その柱の間には歩き易く表面処理された通路が果てしなく続いており、それ以外の場所は外壁の表面と同様にツルツルしていて気を付けなければ滑って転ぶ。
先頭をズカズカと大股で歩いていたアレウスは、亀裂を抜け広い空間に出た途端にツルリと滑ってひっくり返り、仰向けのまま亀のような格好でクルクルと回りながら通路とは関係ない方向に滑って行った。
そのあまりにも不格好な様子に笑いを堪えるのに必死だった従者達に「なぜ助けん!すぐに助け起こしに来るのが当たり前であろう!」と怒鳴り、立ち上がろうとした途端にまたツルリとやって、アレウスは後頭部をダイレクトに硬い床に打ち付けた。
「うおおォ!」と叫び、頭を抱えて揉んどり打つアレウスを見て、一行はさすがに堪えきれず「ブハッ!!」と盛大に吹き出し大笑いした。
「貴様らぁ~、後で殺してやる!」と叫んでツルリ。
「クソ!この忌々しい床めが!!」と叫んでまたツルリ。
結局このツルツルの床の上にまともに立つ事が出来なかったアレウスは、顔を真っ赤にして従者達に両側を支えてもらいながら表面処理がある通路までたどり着いた。
「このような罠が仕掛けてあったとは! 恐ろしい場所だ!」
悪戦苦闘したアレウスは既に全身汗まみれだ。
「アレウス様、急ぎましょう。たぶんこの通路を奥に進めば勇者の寝室へとたどり着くはずです」
「たぶん? 方向はあっているのだろうな? 逆に進んでいたらどうする?」
「先程横を通りすぎた柱に小さく数字が刻んでありました。刻んである面が裏になると思われますので、方向はこちらで合っているかと思われます。」
「正面に数字が刻んであったらどうする? 入口は真ん中より少し右手側だった。逆に進んでいたら引き返すのには倍の時間が掛かるぞ!」
「その時は、このクロイの首を差し出しますゆえ、お好きにされたら良いでしょう」
ぐずぐずしていては王に追いつかれる。皇太子とバカらしいやり取りをしている場合ではないと感じているクロイは、少しイラつきながらそう言った。
「まあ、お前が言うならこのまま進んでやる。しかし、ここはどうなっているんだ? 何もかもが真っ白で、柱と床以外は何も見えん。天上すらどうなっているのか分からんぞ?」
「王の印がなければ入れない場所ゆえ、わたくしも入るのは初めてでございます。中は外から見た感じよりもずっと広く感じますね。実に不思議な空間です」
「こんな場所に勇者は独りで住んでいるのか? 俺なら3日も待たずに逃げ出したくなるところだ」
アンタは3日どころか半日持たないだろう?と心の中で言いながら、クロイは懐中時計を取り出して時を確認した。
「そろそろ姫が助け出された頃でしょう。アレウス様、あの場でセイレーンの名を出さぬ方が良かったのではないでしょうか? あれでは逆に、海ではないと分かり、水辺を連想させてしまいます。山を匂わせておけば捜索も簡単には行きますまいに・・・」
「うるさい。わざとに決まっているだろう! ジェシカが見つからねば、それはそれで困るのだ。オヤジはアイツを溺愛しているからな。簡単に見つかった方が、怒りもおさまり易いというものだ。部屋は暖めておけと命じたが、ちゃんとやったんだろうな?」
「そうでございましたか。アレウス様の深き考えを知りもせず失礼致しました。さすがは次期皇帝様でいらっしゃいます」
わざとらしく深々と頭を下げるクロイ。
彼には、この皇太子にそんなつもりは全くなかった事は分かっていたが、それを悟らせるような事など決してしない。アレウスはおだててやればすぐに機嫌を直す。親からも誉められた事がない彼は、今のようにして少し誉めてやるととても機嫌が良くなるのだ。
先程のツルツル床の件で従者の皆に笑われ、その後も散々に醜態をさらした彼はかなり不機嫌になっていた。だからあえて重ねて非難するような事を口にして今の会話を誘導したのだ。案の定、気分を良くしたアレウスは、足取りも軽くなりブツブツと不平不満を漏らす事なく果ての見えない廊下を歩いている。
―――相変わらずのチョロさだ。
なぜ王はもっと上手く息子を使おうとしない? 衝突などせずに済む方法はいくらでもあろうに、一人前の人物として扱おうとなさるからいけないのだ。こういう馬鹿は適当にあしらって上手に使うに限る。馬鹿は死ぬまで直らんのだからな。
クロイの思考を読み取る事ができたら、アレウスはとても正気では居られなかったに違いない。彼の周りに理解者と言える者は今の環境ではクロイしかおらず、多くの家臣達に常に嫌われ、常に避けられて来た彼には人を信じるという気持ちが簡単には持てなかったのだ。
乳飲み子であった時から一度として母親にすら抱かれた事もなく、母親譲りの醜い容姿は彼にとって大きなコンプレックスだった。平均的な子どもより体が大きく、力も同じ歳の男児と比べ格段に強かったアレウスは、それがかえって彼を孤独にさせる要因になっていた。幼年期に友達と言える者は独りも居なかったのだ。
母親が死んでから数年が経ち、新しい妃が他国から嫁いで来た。その女性は小柄でとても可愛らしいく、アレウスと14歳しか変わらぬ年齢であったので、母親というよりは歳の離れた姉のように接してくれた。
親の愛を知らずに育ったアレウスは、このとき初めて幸せという感覚を知った。七歳で母を失ない傷付いた心を理解し、優しく受け止めてくれたのは彼女だけだったのだ。
だが、その幸せの時間は長くは続かなかった。
第二王子が産まれ、第三王子が産まれ、妹のジェシカが産まれた頃には、子ども達に係りきりでアレウスの事など見向きもされなくなってしまった。
アレウスは裏切られたと思った。
嫁いで来たばかりの時はとても優しく、毎日のように自分をかまってくれたのに・・・
父は凱旋し戻ると又すぐに別の戦場へと出掛けてしまい、ほとんど会話も無くプライベートに会う機会は皆無だった。新しい母との時間は何より大切なかけがえのない時間だったのだ。それが子供が産まれた途端に変わってしまった。
あの笑顔は嘘だったのかという思いが決定的になったのは、アレウスが16歳で弟のリベリオが7歳の時だった。剣の稽古に付き合ってくれと頼まれてリベリオの相手をしてやった。当然アレウスは手を抜いて厳しい打ち込みなどしていない。だが彼の腕力は当時から普通ではなかったのだ。
本気でやってくれなきゃ練習にならないと弟がブツブツ文句を言うので、ほんの少しだけ本気で打ち込んだ。7歳の頃の自分であれば簡単に受けきれる程度の打込みであったが、リベリオにとってはそうではなかった。一撃は木刀を握った腕をポキリと簡単に圧し折り、受け切れなかった木刀の先は頭部に当って血を吹き上げた。
悲鳴を上げて息子に駆け寄り、頭から血を流して気絶しているリベリオを腕に抱き上げた母は言った。
「このバケモノ! 私のリベリオに近付かないで!」と、
よりによってバケモノ呼ばわりだ。
大きくなったアレウスは、子供の頃のような可愛い気が全くなくなり、豚のような容姿がいっそう際立って見えて確かにバケモノじみていた。だが、大好きな女性からその言葉を言われた時、彼の中で何かがプツリと切れた。
怪我が治り、再び稽古を付けてくれと言いに来た弟に、お前の腕ではまだ練習相手にすらならぬから独りで鍛えろと言って、ある洞窟の場所をリベリオに教えてやった。
その洞窟は、入り口から少しの間は本当に弱い魔獣しか出ないところだったが、ひとつ下の階層に降りて行くと途端に強い魔獣が出る初心者が入って無事で済むような場所ではなかった。
良い場所を教えてくれたと喜んだリベリオが帰って来なくなったのは、初日から10日が過ぎ、そろそろ腕試しに下に行きたくなる頃だとアレウスが思った矢先の事だった。
帰らぬリベリオを探しに行った弟のタクトまでが洞窟に入るとは思っていなかったが、計画通り、目障りな弟ふたりは共に帰らぬ者となった。
これで母の愛情が再び自分に向くのではと思ったが、アレウスの想像とは違う結果が待っていた。母は心を病んで寝込んでしまい、床に伏せて僅か二ヶ月であっけなく死んでしまったのだ。
ひとり残された妹のジェシカを、父が溺愛したのは言うまでもない。それはもう病的なまでの可愛がり様で、常に側に置き、目が放せないからと戦場にまで連れていく始末だった。
ジェシカが14歳になるまでそれは続き、子連れの帝王アラキラムなどと呼ばれ、ジェシカに至っては戦場の女神などと兵士達の間でも大人気となった。
凱旋して戻る度、アラキラムの肩にちょこんと座り天使のような笑顔を振りまく妹の姿が、アレウスにすら眩しく見える程に父娘の絆は深く帝国民全てに微笑みと活力を与えた。当時アラキラムの人気は、正に天に登る龍のようだった。
そのジェシカも、今年で27歳を向かえるはずだ。常識的に考えて行き遅れの歳だ。それでもまだ嫁に出さぬ理由はひとつしかない。外には出さず、入り婿に国を継がせる気でいるのだろう。
ひいき目にみなくともジェシカは美人だった。幼な顔でとても27歳には見えない。背が低く華奢な体つきのせいもあるが、20歳と言っても誰も疑わないだろう。そのジェシカを勇者の聖宮に入る為の印を手に入れる為のダシに使った。父アラキラムの怒りが簡単におさまるなどとは考えていない。だが武功を上げ、昔のアラキラムのように凱旋を飾ればその考えも変わるだろうと思っていた。
停戦状態で活気の乏しい兵士達も久しぶりの勝利に歓喜し、それをもたらした英雄である自分を褒め称えるに違いない。いや、もうそれしか自分の存在をアピールする方法はないのだ。今までの失敗を帳消しにして、世継ぎは自分しかいないとアピールする最後のチャンスだと考えていた。
どれ程の時間を歩いただろうか?
重いフルプレートの甲冑を着けたアレウスは既に体力の現界を超えて息が上がり、腕の甲冑や脚の甲冑などを外して従者の者達に持たせていた。現在身に付けているのは胴体の部分だけだ。
ずんぐりとした体に甲冑をつけ、生身の手足をつき出している様は正に亀のような感じで、その上に豚顔がちょこんと乗っている姿はコミカルを通り越して憐れと言う他はなかった。見るに耐えない不気味な生き物が舌をベロリと出し、ゼーゼーと息を吐きながら加齢臭を撒き散らしている。
「臭い臭いと思っていたらテメェかよ!」
突然上方から声がして、見上げた先に少女が浮かんでいた。
「あんまりにも遅ェから見に来てやったら豚が居やがるぜ! まるで豚小屋みてぇに臭ぇ! むちゃくちゃに臭ぇ! やい豚野郎! てめぇ、何しに来やがった? 丸焼きにされたいか!」
焼いても喰えねぇが、焼けば消毒くらいはできるだろうと、続けざまに罵声を浴びせる少女の顔には無邪気さの欠片もなく、真に残忍な冷酷な表情が浮かんでいた。
「人を豚呼ばわりとは、いいどきょう」
「パン!」
喋り出したアレウスの頭がいきなり弾け飛び、体はコロリと後ろに転がった。まるで頭を縮めた亀のような姿だ。
「喋るな豚! 空気が汚れるだろ!」
アレウスの隣にいた従者が、ガクガクと膝を揺らしながら手にした腕の甲冑を落とした。石の廻廊に落ちた甲冑がガチャーンと耳障りな音を大きく響かせる。
「ビシァァン!」
途端に雷が落ち、アレウスだったモノと従者は甲冑の残骸だけを残して、黒こげというより消し炭になってボロンと横たわった。
動けなかった。残された従者とクロイは、呼吸すら出来ぬ程に身を縮め、凍りついたように全く動けなかった。周りの空間を死の恐怖が埋め尽くし、心臓の音だけが不自然なまでに大きく聞こえる。その音ですらウルサイと言われて自分も消されるのではないかという恐怖で気が狂いそうになる。
耐え切れなかったひとりが、悲鳴を上げて逃げ出した所に「キン!」と冷気が走り、駆け出した従者は白い氷の像となって倒れたときに床に打ち付けられ、パリンと弾け粉々になった。
何の魔法詠唱もなく、ルーンを描く動作もない。
ただ怪訝そうな目付きをして、気に食わぬ対象を睨んだだけでそれだけの現象が起きた。
―――こ、これほどとは・・・分かってはいたが、まるでケタが違う。最上級魔法に匹敵するこの威力を、このような限定空間で苦もなく成し遂げるなど常識では考えられない。すぐ隣に居る私には何の影響もないのに・・・これがあのスキルの威力なのか!?
「ふううん。なんだお前ら、そのまま動かないでいれば殺されないと思っているのか? まるでダルマサンガコロンダみたいだな? 知ってるか?ダルマサンガコロンダ」
ブンブンと首を横に振るクロイと従者達。
「日本って国の子供たちの遊びだよ。アメリカにも同じような遊びがあってな、Red light Green light 1 2 3! と言って一周回る間に鬼にタッチすれば勝ち、回って止まった時に動いてる奴はアウトってゲームだ。単純だけど、意外に面白いぜ?」
クロイには、このイカレた勇者が何の目的でそのような事を言い出したのか分からない。
―――ゲーム?ゲームがなんだと言うのだ?
駄目だ。このままでは自分も殺される。来るんじゃなかった。自分でそそのかしておいて何だが、こんなにクレイジーだとは思わなかった。まさか、この国の皇太子を簡単に殺してしまうとは!? 勇者とは何だ? 我々の守護者が遣わした防衛手段ではないのか!
震えるクロイは打開策を必死になって考えたが、突然過ぎて何も浮かばない。
―――アラキラム王は、こんなとんでもない奴をいつも迎えに行っていたのか!? 信じられない!あの御方もバケモノだ!
「なんだよ?無視か? 気分が悪いなぁ。
ひとんちに上がり込んで無視はねぇだろうよ。アタシと遊ぶ気が無いならはじめから来るな。豚は臭いから殺したが、あんたは少し話が出来そうだと思ったのに残念だ」
「と、とんでもない! わたくしは勇者様と遊びたくてここに足を運んだのです。会えた喜びと緊張で動けずにいました。無視など致すはずがございません!」
自分に向って話し掛けられたと知り、慌てて繕うクロイ。
「へぇぇ、そうなのか? そんな感じには見えなかったけどなぁ〜」
少女は浮かんだ状態からスウッと通路に降りると、動かないままのクロイに近づき下から顔を覗きこんだ。
目を合わせてはいけない!
そんな気がしてクロイは咄嗟に目を閉じる。
「ん?どうして目を閉じる? そうか、心の中を覗かれるのが怖いんだな。嘘をついてるから、その嘘が知れてしまうのが恐ろしくてしかたないんだ。あんたアタシの目が“真理眼”だって事を知ってるの? ただ恐くて目を瞑っただけ?」
―――真理眼? 何の事だか分からない。
怖い!怖い!怖い! 気が狂いそうだ。
誰か!誰か助けてくれ! 神よ!どうか私を!
「ヒャッハー! 大の大人が小さな女の子相手に、ビビって声も出ねぇでヤンの! つまんねぇなぁ、オイ! みろよ。後ろの連中なんて恐怖で心臓が止まっちまってるぜ! 兵士の質も随分と堕ちたもんだ。笑っちまうぜ! こいつはマジで笑えるわぁ!」
震えながら必死に恐怖と闘うクロイを見て、勇者はそう言って突然に笑い出した。この笑いが止んだ時が自分の最後であるような気がして、クロイの目に涙が浮かんだ。
戦場で死ぬならまだしも、このような形で人生を終えるのかと思うと悔しくて自然に涙が流れてきた。あまりに酷すぎる。男として生まれ、数々の修羅場を潜り抜けてここまで来たつもりでいたのに、自分の人生がこんなにも軽く、薄っぺらなモノとして終わるのかと思うと情けなくて心が潰れそうだった。
勇者が笑うのをやめた。
周りに静寂が戻り、空気が冷たく張り詰める。
いよいよ最後の時が来たのかと思った時、遠くで声がした。その声が息を荒くしながら徐々に近づいて来るのが分かる。
「待て!待ってくれ! それ以上は殺すな!」
ゼイゼイと息を切らしながら叫ぶその声の主は・・・
「くそ! こんなにも体力が落ちていたとは情けない!」
それは皇帝アラキラムその人だった。
なんと彼は、共のひとりも連れずひとりで走って来たのだ。
「なんだよ、アラキラム? 今からコイツを殺すところだったのに、いいところで邪魔するなんてアタシの楽しみを奪う気か?」
「お前の楽しみなどは、どうでもよい。遊びで殺される者の気持ちになってみろ!」
「そんな気持ちがアタシに分かるはずないだろ! 分かってて言うんだから達が悪い。アタシだって死にたいって思う事もいっぱいあるけど、死ねないんだから仕方ないだろ。死ねる奴の気持ちなんか分かるもんか!」
「勇者なんだから自重しろ! もう、とっくの昔に諦めたと思ったが、まだ自殺願望のクセが抜けぬのか?」
「ふん!そんなのアタシの勝手でしょう! あんたに言われたくないから!」
膨れ面をして、プイと横を向く少女の姿をした悪魔(勇者)。信じられない事だった。王はこの悪魔(勇者)と普通に会話をしている。クロイはヘナヘナとしゃがみ込みながら涙の痕を拭うのも忘れ王の顔を見上げた。
なんと自分は愚かだったのだろうか?
この偉大な王に成り代わり、いつかは王座をなどと野心を懐いた自分はどうかしていたのだ。器が違う。流石は初代英雄王の直系にしてその名を引き継ぐ人物だ。この悪魔(勇者)と素で会話するなど自分には不可能だ。やはり王は歳を召されても王だった。この人の代わりなど務まる訳がない。
「お、王よ。皇太子が、アレウス様が!」
「分かっておる。どうせアレウスの事だ。真っ先に殺されたのだろ?」
「当ったり~! 一番最初に殺してやったよ!
だってこいつ臭いんだもん! 加齢臭プンプンさせてアタシの家に入って来てさ。ムカついたから豚顔を吹き飛ばして消し炭にしてやった。臭いモノは元から絶たなきゃダメって昔から言うからね!」
得意気な顔をしてそう言った悪魔(勇者)に、王はなんとニコリと笑い掛け答えた。
「ハハハ、確かにその通りだ。肉や油っこいモノばかり食べているからな。親のワシでもそう思うのだから他人にはなおさらだろう。確かにこいつは臭い!」
「だよね~!」
信じられない会話だった。耳を疑うとは正にこの事だ。まさか二人して死んだ皇太子の悪口を言うとは、死者を冒涜するにも程がある。
「王よ!それはあまりと言えばあまりの仕打ち。ご子息が亡くなられたのですぞ。お怒りにはならないのですか! わたくしは・・・王を見損ないました。先程は偉大な王と尊敬したのに!」
「何こいつ? 何でこんなに熱くなってんの? 鬱陶しいから殺してもいいかな?」
「―――なァ!?」
「う~ん、どうしようかな? ワシもこいつの事は好きではないのだ。武士道に反するというか、勝利の為にと敵を殺し過ぎる。たとえ魔族だろうと、非戦闘員まで殺すやり方はワシは好きではないのだ」
「―――な、な、なァァ!?」
「んじゃ、殺してもいいって事だよね! どうやってぶっ殺そうかな? 豚が好きみたいだから、バラバラにしてから豚に食わそうか? それとも磨り潰してミンチにするとか? それとも・・・」
「ま、待って下さい! 前言撤回します。
アレウス様は確かに臭いです! 間違いありません。冒涜などでなく、王は事実を言われたまでの事。わたくしは王を尊敬致しております! ですからなにとぞ!なにとぞ私をお助け下さい!」
「なんだこいつ? 急に手のひら反したように意見を変えたよ。こんな奴を部下に置いといて大丈夫なの? 密かに毒とか盛られてアラキラムが殺されちゃうとかになりそうな気がするけど?」
「う~ん、そう言えば最近やたらと胃が痛むのだ。まさかこやつのせいか?」
「―――ひ、ひぃぃ!!
そ、そんな事は有りません! 誓って王の食事に毒など混ぜておりません! 病気を装い、じわじわと等とも考えてもおりませんとも! わたくしは潔白です」
「ええ~、ホントに~?」
「ち、誓って本当でございます!」
「じゃあさ、考えてもみなかったぁ?」
「うっ、そ、それは勿論・・・」
「正直に申した方が良いぞ? 勇者には嘘を見破る真理眼があるのだ。勇者の標準装備だからな。当然ローラにもその能力がある」
「あれれ? アタシがローラだって事気づいてたの? ジェシカの真似をしてたのに?」
「当たり前であろう? すぐ分かったわい。どれだけ長い付き合いだと思っておる」
「あれ?ホントだ。嘘ついてないや」
「そうであろう。ワシはお前の事なら何でも分かるのだ」
アラキラムは自信満々といった感じに胸を張りそう答えた。ジェシカとはアラキラムの娘のジェシカではなく、ローラの妹であり、この体の本来の持ち主であるジェシカの方だ。双子の姉妹は同時に異世界召喚の陣に巻き込まれ、ジェシカの体にローラの精神が封じられてしまった形で召喚された。勇者ふたり分の力を持って現界した異世界人、それが彼女だったのだ。
「それは嘘だね。アラキラムは嘘ついてるよ」
「ハハハ、その通りだ。ワシは嘘をついた。
ワシは勇者ではないからな。お前の気持ちを理解しようと努力はしたが、不死者であり、成長もなく人でありながら人の幸せが望めないお前の気持ちを真に理解してやる事は出来ない。想像は出来ても、同じ立場でない者には本当の気持ちなど永遠に分からぬのだ。スマヌと思うがこればかりはどうしようもない」
「うん。その言葉に嘘はないみたいだね。でもね、アラキラム。人と同じとは行かないかも知れないけど、やっと私にも幸せになれる可能性が少しだけ出来たの」
勇者の口調が変わっていた。
悪魔的なまでに剥き出しだった狂気が和らいでいる。
「幸せ?それはどういう事だ? 心境の変化でもあったのか?」
「心境っていうか、環境の変化かな?」
「環境?」
「アダムが来たでしょ?何年ぶりかは知らないけど」
「120年ぶりだ。だが、それが何の関係がある? 強敵が現れたのが嬉しいとかか? だとしたら残念だが、噂によると今回のアダムは失敗作で何の能力もないそうだぞ?」
「能力がない? アラキラムは馬鹿なの? アダムほどの存在が何の能力も無いなんて事がある訳がないでしょう」
「だか、しかし・・・」
「駄菓子もカカシもないわ。アダムはね、存在するというだけで奇蹟なの。まさか私の時代にこの奇蹟に廻り合えるとは想像もしてなかったけど、凄く嬉しい」
「言っている意味が分からんな。アダム召喚とお前の幸せに何の関係がある?」
「意外にニブイのね。本当に分からないの?」
「分からんな」
「勉強不足ね。アダムの事を何も知らないの?」
「逆に問うが、お前はアダムの何を知っているというのだ? ここには本もなく、歴史書の類も一切ない。アダムの事を知ろうにも方法があるまい? お前のスキルは相対的に無敵だが、知らぬ事まで分かるという便利なモノではないはずだ」
「スキルの事はその通りだけど、ここに何の資料もないなどという事はないわ。特にアダムの事なら凄くたくさんの資料があるのよ?」
「なんだと? そんな物はないはずだ! ワシは、お前に渡してある娯楽映画や古代文明が制作した番組の内容を知っている。アダムに関する物など何処にもないはずだが?」
「あるわよ。あなたも見てるはずだわ。ここの辺りにもいっぱいあるし」
「ここの辺り?」
「ほら、あそこにもあるでしょう? 見えない?」
そう言ってローラが指差した場所を見たが、アラキラムには何かがあるようには見えなかった。
「まだ分からないの? 壁を見なさい」
「壁? 壁に何かあるのか? 柄が施してあるが、何も書かれておらぬ白い石の壁だ」
「柄? あれは柄ではなく文字よ。細かすぎて見えないのかも知れないけど、近づいて見ればそれと分かる。漢字で書かれた漢文なの」
「漢文?漢文とは何だ? 聞いた事もないな」
「私の世界の古代中国文字ね。今では原型を留めてないモノも多いけど、略される前の原形文字よ」
「それが読めるという事か? まさか、この広い空間全ての壁にアダムの情報が? いったい何が書かれているのだ。とんでもない情報量だぞ!」
「う~ん、何て言ったらいいかな? 情報というより情事っていうか・・・」
「情事?」
「これを書いたのが何世代前の勇者になるのかは分からないんだけど、その勇者は女性だったの。その女性が体験した事を題材に書かれた“小説”がそのほとんどを占めているわ。最初の内は日記から始まり、次に恋文に代わって、また日記に戻って、それから先は想い出をたどりなから書いた官能ドキュメント小説みたいなモノね」
「恋文? 官能ドキュメント小説?
日記は分かるが、なぜそんな物を書く必要がある? 勇者が書いたと言ったな? この空間の壁にそれを刻んで事象を固定させたというのか? そんな事が可能だとはとても信じられん!」
「それは私も同意見よ。何もしても全てが元通りになってしまう変化のないこの空間でそれが出来たという事は、私以上の能力者か、それを可能とする能力に特化した者であったか、その両方であったかね? 書いた理由は分からないけど、ただ書きたかったんじゃないかとも思う。かなりの文才の持ち主で、もう濡れ場なんか読んじゃうと体が火照って眠れなくなっちゃうの。もて余して、かなり困ったもんだわ」
少し顔を赤くしてハハハ~と笑う勇者。
こんな表情も出来るのか? という顔をして驚くアラキラム。双方を眺めながら早くこの場から去りたいと願うクロイ。3人それぞれの思いを他所に、会話は進んでいった。
「今の話がアダムとどう関係して来る? 日記なら分かるが」
「分かるがというより、日記しか分からないんだよね? 本当にピンと来ないのならアラキラムは致命的に鈍いわ。それとも、これらが禁忌事項だから認識阻害が意識下で働いてるとか?」
「禁忌事項ならば、その可能性はあるな。我々は生まれた時より神に祝福され、神の教えに従って生きて来た。その教えが禁忌とした事柄については、無意識に深く触れられぬようにと心が動く。高い教養を持つ者ならば尚更にな」
「禁忌事項である事はたぶん間違いないわ。だって、禁断の恋とか、結ばれてはならない二人とか、戒律に逆らって・・・なんて文章がたくさん出てくるもの。かなりアダムにのめり込んでたみたいで、最初はメロメロだったのがドロドロになって、最後はもう悲劇のヒロインみたいに書かれてるからね。結局ヤる事はしっかりヤってんだし、悲劇でも何でもないじゃん!って思うんだけど、物語的には楽しかったわ」
「はっきり言ってくれ。なぜか思考が上手く纏まらんのだ」
「あんたね、女の子の口からそれを言わせるなんて結構鬼畜よ。まあ、いいわ。はっきり言わなきゃ分からないなら仕方ない」
女の子? お前の年齢は50近いだろうが!っと思ったが、アラキラムは「頼む」と言って話を促した。
「これを書いた勇者と当時のアダムはね、密会を重ねてデートの度に激しいエッチをしていたわけ。でね、勇者は何度目かのデートの後に自分の体に有るはずのない月経が再開されている事に気付いたの。それからの勇者は、アダムの子を身籠る事で頭がいっぱいになった。あのひとの子が欲しいって、もう本当に死に物狂いよ。アダムには残された時間はあまりなかったからね。
そして奇蹟は起きた。
勇者はアダムの子を身籠り、その子は異世界人の胎内で成長した。絶対に成長しないはずの体細胞が、勇者の中で大きく育ったの。そしてその赤子は臨月を向かえて普通に産まれた」
「ば、バカな!? 勇者の止まっていた時間が動き出したというのか!」
「いえ、彼女の時間は止まったままだったわ。腹の子だけが例外だったの。そして産まれた子は、勇者の能力で隠していたにも関わらず、聖教会側に見付かって何処かに連れ去られてしまった。このまま終れば悲劇のヒロインかも知れないけど、話は続きがあるの」
「その続きとは! 早く話せ!」
「ふたり目の子よ。奇蹟は1回だけではなかった。そしてアダムと勇者は聖教会の支配から逃れる為に逃避行の旅に出た。結局はタイムリミットが来て、勇者を残し旅先でアダムは死んでしまったんだけどね」
「その後はどうなった? 勇者は子を連れて逃避行の旅を続けたのか?」
「いえ。彼女は聖教会に対し、子を取り上げない事を条件に人類側の戦力としてこの場所に戻った。そして契約を全うすると力を失ない消えていったの」
「アダムと勇者の子はどうなったんだ? 凄い能力者であったのか?」
「名前くらいは聞いた事があるんじゃない? 『大賢者イース』と『万理の奏者ゴーマ』の名を?」
その二人は人類が生み出した至高の叡智そのものであり、未来永劫語り継がれるであろう大賢者の名前だった。そして、彼らによって古代文明の歴史が紐解かれ、解読不可能とされた古代文字の文献を知る事になったのだ。魔力の総量が低い人類が、魔族同様に高度な魔法を使えるようになったのも彼らの功績のひとつであり、その他にも様々な技術を遺している。
「なんと・・・」
それを知ったアラキラムに、ある想いが過った。
アダムを欲し動いた歴史の謎が、彼の頭の中で解けようとしていたのだ。




