蛇神の聖域【14】光と闇の破壊神 (その参)
目頭が熱い?
なんだ? 我は泣いているのか?
この矮小な動物の死がそれほどに悲しいのか?
馬鹿な・・・タケミカヅチとも有ろう者が、たかが乗り物とした家畜の死に感情を支配され、ましてや涙を流すなどあってはならぬ事だ。
我は誓った。最強の存在『暗黒の破壊神』の力を手にいれる為に心を闇に置き、あらゆる感情を捨て去り、それでもなお清浄な光の波動を使いこなす強靭な精神力と胆力を育て、真に強き力を望むと決め誓ったのだ! 妻にもそう言ったではないか。
視線を感じる。孫悟空だ。
我が動かぬのを見て油断しているはずだ。奴は馬鹿馬鹿しいほどのお人好しで、こちらが攻撃の意志を見せぬかぎり絶対に攻撃をして来ない。そういう奴だ。ならば、今こそが最大の好機。この隙に乗じて・・・
「駿風貴が死んでしまった・・・」
タケミカヅチの思考に反し、口から出た言葉は、耳にした自分でさえ拍子抜けするほどに腑抜けた力のない台詞だった。それを聞いた悟空は何を思っただろうか?
らしくないと笑うに違いない。タケミカヅチは赤面し、聞いてしまった者に対し強烈な殺意をたぎらせ拳を強く握りしめた。
「悲しいか? そう思える情がまだ残っていたんだな」
声は笑わず、静かで穏やかな調べが流れた。
喋る事があっても、マガツガミが怨み辛み以外の事を思考して話す事は絶対にない。今の言葉が怨みとはまるで関係のないセリフである以上、目の前に立つそれは禍神ではないのだ。一度は確実に堕ちたのに、その状態から正気を取り戻し、闇の力に打ち勝って制御した事になる。
―――制御しただと?
孫悟空、お前は深淵に触れて正気を失なうことなく神格を取り戻したのか? まさか本当に『スサノオ』に!?
「おやおや、駿風貴が死んでしまいましたか」
声がした方向とは別の場所に把倶羅が立っていた。
把倶羅が使う賢能のひとつ威摩呪視だ。本当の居場所は見えた地点でもなく、声が聞こえた場所でもない全く別の空間に存在している。この不可視不干渉の固有領域に踏み入る事はタケミカヅチであっても難しかった。タケミカヅチの賢能のひとつ『多次元同時存在能力』に似てはいるが、存在が幾つもに別れる訳ではないので本体はこの時空に一つだけだ。
「把倶羅! きさま、今まで何をしていた!?」
「小言は後で賜ります。早急にこの場をなんとかせねばなりませんので」
「策はあるのか? 奴は・・・」
「タケミカヅチ様のおかげで色々と解りましたよ。もちろん策は在りますが、先ずはその戦闘形体をお解き下さい。見て分かる通り奴は禍神ではありません。禍神に対し絶対無敵の賢能は、今は発動しませんよ? それでは的が大きいだけの役立たずです」
役立たずと言われ、痛くプライドを傷つけられたタケミカヅチは「おのれ、後で覚えておれよぉ」と怒りの表情を見せながら禍神戦特化の巨大武者の賢能を解除した。同時に、どこからか放たれた回復呪がタケミカヅチの体力を急速に回復させて行く。
本体ではないが、視覚的に見えている把倶羅がタケミカヅチに近寄り、攻撃支援の術式を複数同時に賭け続けた。どういう仕組みかは分からないが、焼け崩れたはずの鎧までもがまるでフィルムを逆回ししているかのように再生して行くのにはタケミカヅチでさえ驚きを隠せない。天才軍師把具羅の実力はタケミカヅチにさえ掌握できていないのだ。
「私が来たからにはタケミカヅチ様に敗北は無くなりました。策は既に仕掛けてありますので安心してお闘い下さい。遅くなりました理由は、その準備に少々手間取りましたからです。少し間に合わず、愛馬をお亡くしになりました事には後ほど如何様にも罰を受けますので、今はご容赦くださいませ」
「う、うむ。それどころではない事は解っている。しかし、奴は何者なのだ?『スサノオ』なのか?」
「スサノオ? 奴がスサノオである事など絶対にありませんよ。そのようなモノであったなら、この規模の神域など出現と同時に一瞬で消し飛んでいます」
しかしコレは、少し厄介な事になりそうですねと小さく呟いた把具羅は、腰に下げていた漆塗りの筒から取り出したモノをタケミカヅチに投げて渡した。
「長引くかも知れませんので、今の内にお飲み下さい」
「兵糧丸か?」
「櫛名田家秘伝の特別製です。効果は保証しますよ」
そう言って自らも1錠含み咀嚼するのを見て、タケミカヅチもそれに習った。飲み下してすぐ体内に膨大なエネルギーが駆け巡り、ベストコンディションの更に上の状態に体調が調うのが即座に実感できた。
「なかなかの良薬だ!」
タケミカヅチはニヤリと不敵な表情を浮かべた。
実際この丸薬には、千年に一度しか実をつけぬ世界樹の果実を濃縮したエキスや、数々の貴重薬草の根、霊獣の角など櫛名田家でなければとり揃える事が困難な素材がふんだんに使われ、掛け値なしに至高の逸品であった。櫛名田家から天帝に贈られる献上品でもあるが、1錠を作るのに数年かかる為に毎年とは行かず、三年に一度納めるのが精一杯の超貴重品だった。
「もう1錠よこせ。味も悪くない」
「残念ながら今ので最後です。天への献上品ゆえ、櫛名田家の者でも手に入れるのが困難な品です。ご容赦ください」
「という事は、アマテラスは持っているという事だな? 帰ったら全部いただくとしよう。闘わぬ者が持っていても役に立つまい」
そのような会話をしながら、戦闘体制を整えるふたりを悟空は何もせずに眺めていた。特に、突如として現れた把倶羅に注意を向けているのにタケミカヅチも気付き、神気を回復させて膨大な存在力を放つ自分に警戒心すら持たぬ様子に腹を立てた。
確かに把倶羅は飛び抜けて優秀であり、自分ですら理解出来ない術を使ったりはするが、注意すべきはやはり我であろうというプライドが傷つけられた。先程からずっとそのプライドをズタズタにされており、今度ばかりはそうは行かぬぞと闘志をたぎらせていた。
と、悟空は上空の渦巻く雲の中心で口を開け、今にも全てを呑み込もうと待ち構えている暗黒点に視線を移した。
「何を考えてる? それ以上刺激したらどうなるか解らねぇでもあるまいに、いま何んかを仕掛けやがったな?」
―――!? まさか、気付かれたのか?
把倶羅は、悟空の言葉に驚きと警戒の念を強めた。たとえ天帝本人であろうと誰にも感知されぬ自信があった自分の行動が、目の前にいる黒き巨神に見透かされていたことが信じられなかった。なぜなら、彼の賢能はこの世界の神に理解できる代物ではないはずだからだ。もちろん姉の阿美羅を除けばであるが。
「奴は何の事を言っている?」
「さあ、分かりません。まだ意識が混沌として定まらないのでしょう。こちらの準備は万全です。タケミカヅチ様、今度こそ確実に奴を仕留めますよ。先程のようにとどめを刺さず、情けなどお掛けにならぬようにお願いします」
「分かっておるわ。塵も残さず消し去ってくれる!」
タケミカヅチは把倶羅の少しトゲがある言い方に苛立ちながら、万全の態勢で超神剣カヅチを抜き放った。途端、膨大な存在力に戦闘力が上乗せされ、大地がビリビリと震え、大気が性質を変えて行くのが分かる。
対峙しているだけで容易く命を奪いそうな、そんな排他的かつ圧倒的存在力だ。ここ数年で感じた事もない充実した氣と、腹の底から沸き上がる闘気がタケミカヅチを高揚させ、残忍な笑みが蘇るように浮かび上がっていた。
「今の我に敵う者など誰もいない。覚悟しろ孫悟空!」
タケミカヅチは雷鳴のごとき雄叫びを上げた。
それに応えるように天が震え、雷が走り、空が唸る。
「確かにスゲェ戦闘力だな。こと戦闘において、今のお前ぇに勝てる奴はこの世界にはいねぇだろう。だが、残念ながらオラには通用しねぇよ」
「なんだと?」
「力のある者は、存在する世界に対し責任を持たなくちゃなんねぇ。オラもずっと忘れてて他人のこと言える立場じゃねぇが、力のある者の役目をお前ぇは勘違いしている。民を支配する事じゃなく、護り導く事こそが本当の役目だ。天帝様がしていたようにな」
「知ったような口を叩くな! お前に父を語る資格はない」
「確かにそうだ。忘れていたとはいえ、オラはずっとその責任を放棄してきた。天帝様が宜しく頼むと言ってくれた意味を少しも理解していなかった。こんなんになったんは、お前の元から離れたオラにも責任がある。そんな輩を側に置いていたなんて知らずに、ずっと無駄な時間を過ごして来たオラが悪かったんだ。お前ぇの本質を誰よりも深く理解していたはずなのにな・・・」
悟空の持つ不思議な雰囲気に戸惑いながら、タケミカヅチは自分の力が通用しないと言った悟空の言葉に激怒して、更に殺意を高めながら必殺の一撃を見舞う機会を狙っていた。
しかし、会話をしながらも目の前の巨神には全く隙がないのだ。たいして構えている訳でもなく、こちらに対して無警戒にすら感じられるその立ち振舞いからは威圧感の欠片もなく、戦闘力すらあやふやで、蜃気楼のように巨大にも見えながらそこに居ないようにも感じられる。そのようであるので、攻撃するタイミングが全く見つからないのだった。
―――何なのだ? 奴は本当に悟空か?
我の知っている奴とは雰囲気が違う。それに、まるで父を前にした時のようなこの畏れ多い感覚はなんだ? 全てにおいて次元の違う圧倒的スケールの差を感じるのは何故だ?
「オラは目覚めた。全てを思い出したよタケミカヅチ。お前ぇと共に歩むと誓いを立てておきながら離れたオラを許してくれ」
「許してくれ・・・だと?」
「そいつは危うい。近くに置くには危険過ぎる。お前ぇは善であれ悪であれ、全てに好かれ愛されてしまう宿命にある。力だけを求めるな。このまま行けば後戻り出来なくなるぞ」
悟空の視線の先に把倶羅がおり、「危うい」と言われたことで唇を歪めた。そこには彼本来の性格を示す残忍な笑みが浮かんでいたが、すぐに隠してタケミカヅチを庇うように前に出た。そうしないと表情を見られ兼ねないと思ったからであるが、タケミカヅチに気付かれた様子はなかった。
「どうやらサポート役の私の事が嫌いなようです。狙って来るかも知れません。奴が攻撃して来たその隙に一撃を!」
「馬鹿者、お前は後方に下がっていろ! サポート役が先にやられたら誰が補助をするのだ。長引くかも知れんと言ったのはお前だぞ」
もっとも、お前の本体に攻撃が届くとは思っていないがなと付け加え、把倶羅を下がらせ剣を構えるタケミカヅチ。得体の知れぬ敵を前に後ろを振り返る余裕はなく、よって把倶羅の表情を見る事も最後までなかった。
「今の奴がどれ程の力を持っていようと、我の賢能を前に攻撃が当たると思うか? 先程とは違うのだ。我の攻撃がどれだけ有効かは分からんが、持久戦になろうともこちらが必ず勝つ」
「いや、持久戦にはならねぇ。オラが動けば一瞬で終る」
孫悟空が言った。
「なんだと! そのデカい図ぅ体の初動を読めぬ我だと思うか? ナメるのも大概にしろ!」
「そうだな。確かにこんな体じゃ早く動けねぇ。パワー勝負なら話は別だが、スピード勝負なら不適切だ」
そう言って悟空は縮み出した。
黒い巨大な体がグングンと縮み、同時に眩い光が世界を覆い尽くす。
悟空がただ光っているだけでないのは、把倶羅はもちろん、タケミカヅチにも理解できた。動けないのだ。光が放つ神々とした圧力に足がすくみ全く動けない。そして、光がおさまった後、ひとりの見た事もない神が宙に浮かんで立っていた。
―――!?
これがあの孫悟空だと!?
そこには獣の姿で見知った孫悟空の姿はなく、金色の立ち上がった髪を靡かせた浅黒い膚の人型の神が浮かんでいた。
厳しく凛々しい顔。不思議な光を宿す瞳。そして背中には最高神の証である12輪の後光を宿し、その周りには九つの輪光が重なるように光輝いていた。
それは、誰の目からも明らかだった。
ひと目見ただけで分かる、完全なる超越神だった。
タケミカヅチと同じ超神たる者がそこにいたのだ。
下半身に僅かに獣神であった名残を残すが、金色の神気を纏う武の化神。その首には大きな九つの数珠玉をさげ、腕には金の腕輪と籠手を着けるが衣服はなく、上半身は裸だった。しかし、その均整のとれた美しい肉体は、どんな衣服よりも彼の姿を神々しく見せ、見る者を感動という感情で覆い尽くした。
「勝負は一瞬だ。久しぶりに稽古をつけてやるよタケル。全力で掛かって来い!」
幼名で名を呼び、余裕の表情を見せる孫悟空。
タケミカヅチは、最初の修行の旅で何度も見せられた圧倒的高みから見おろすようなその態度と、あの時と同じ台詞に怒りを覚えた。
「ぬかせ!!」
怒りを解放したタケミカヅチは、持てる全ての力を攻撃の一点に集中し、更に同時存在の賢能をフル稼働させて孫悟空に容赦の無い必殺の剣撃を繰り出した。
が、
「し、信じられない・・・」
把倶羅は、気絶し悟空の腕に身体を預けているタケミカヅチの姿に驚愕し声を漏らした。
自分がタケミカヅチに施した術式は正常に作動しているはずであり、防御を術に預け、攻撃のみに全力を載せて挑んだおよそ6000から成る平行宇宙からの同時攻撃の全てが通用しなかったのだ。
そればかりか、勝負は一瞬と言っていた通り、6000人のタケミカヅチがひとりも残す事なく全員が一瞬で意識を刈り取られた。ひとりでも残っていたなら、その体を基点に復帰するよう術を施していたのが無駄になってしまった。
「平行宇宙からの攻撃全てにカウンターを当てたのか? タケミカヅチの攻撃に時間差はなかった。時を止めでもしない限り、どうしても出来るはずがない事だ」
把倶羅は震えた。
何をどうしたのか全く理解不能だった。
同時存在からの攻撃に同時にカウンターを当てたのなら、目の前の男にも同じ賢能があるという事になる。しかし、そうは見えなかった。把倶羅は身近でタケミカヅチの賢能を何度も見て来ている。だから、その波動が生み出す時空の歪みに対し感知する事も出来るようになっていた。
全く同じ事は出来ないが、仕組みは解るし、片手くらいの数なら自分でも対応できると本人は思っていた。しかし、全力をもって繰り出された今の攻撃はどうしようも出来ないはずだ。分かっても、ひとつの体でさばききれる数ではない。ましてや、カウンターなどどのような神技を持ってしても不可能なはずだった・・・
「今の攻撃が見えたか? 見えたってだけでも大したもんだ。たとえこっちの世界の神じゃなくても “世界の理” には逆らえないからな」
「なに!?」
「オラが気付かないとでも思ったか? お前ぇ渡来神だろ?」
「―――まさか!?」
「オラはこの世界じゃ一番の古株だ。違う匂いはすぐに分かる。どっから来たのか知んねぇが、この世界に干渉するのはよしてくれ。帰るなら良し、帰らねぇなら強制的に帰って貰う」
悟空の不思議な光を宿す瞳が、把倶羅を正面から見据えた。誤魔化そうとも考えたが、それが可能である相手とは思えない。超神の姿を見せる孫悟空という存在が、今まで認識していたものとは全く異なる上位存在である事が分かってしまったのだ。
―――これはマズイ・・・流石に予定外過ぎるぜ。
「それがお前の本当の姿なのか? それとも禍つ落ちから帰って来た事がそうさせたのか?」
把倶羅は気絶したままのタケミカヅチに自分の術がまだ有効なのか試しながら会話をし、時間を稼ぎ反撃の機会を待つことを選択した。だが、姉に緊急コールを送ろうにも隙が無さすぎるのだ。鏡乎石に触れさえ出来れば良いのだが、それすら可能であるように思えない。
孫悟空はタケミカヅチに殺意を懐いていなかったが、自分に対しては明らかな殺意を持っていた。まるで害虫を見るような視線に、背中を冷たいものが走った。下手な動きを見せたら、その時点で消滅させられるかも知れないと思い、危機回避の為の緊急術式を練ろうとするが、間に合う気が全くしなかった。
「お前ぇが知る必要はねぇ。 タケミカヅチはオラが預かる。天帝様からも宜しく頼まれてんだ。正気に戻すのに時間が必要だろうけど、お前ぇ達の思惑通りにはさせねぇよ。こうなった半分はオラの責任だからな」
―――お前達だと? こいつ何処まで分かってるんだ?
「嫌な気配を高天ヶ原の方にも感じる。お前ぇの姉だな? どうやって入り込んだのか知らねぇが、ふたりして元の神界に帰れ。ここはお前たちのような者が居ていい世界じゃねぇ」
そう言った孫悟空の目には、見えるはずがない姉の姿が映し出されていた。どのような能力がそれを可能にしているのか見当も付かない。把具羅にとって初めて知る本物の恐怖が目の前にあった。
「ここは天帝様が創った清らかで美しい神界だ。破壊神が居ない神界など、おそらくはここ高天原くらいだろう。素晴らしい光と闇との調和の世界だ。慈愛と慈悲と愁いに満ちたこの神界を護る事が今のオラの使命。子供たちが思い出させてくれたよ」
「使命? なんだそりゃ。突然現れて今更なんだ? こいつがして来た事を知らない訳じゃないだろう? 忘れていた? 都合のいい言葉だな。忘れていたから今まで見逃して来たが、思い出したら創造神よろしく世界の守護者気取りか? ならば、お前が滅ぼしたルオ神の奴等を甦らせたらどうだ? その姿、お偉い超越神様なんだろう?」
「亡くした者を甦らせる事はオラには出来ない。新しい神や秩序を生み出す事もオラには不可能だ。だからこそ護らなくちゃなんねぇ。オラには闘う事しか出来ねぇが、闘って護る事が出来るなら何でもする。本当はしたくはないが、場合によっちゃあお前ぇ達を消す事にも躊躇わない。オラにその選択をさせるな。絶対ぇ敵わねぇ事が分からない訳でもないだろう?」
悟空の言う通りだった。
たとえ姉がここに居て共に闘ってみたところで単純な戦闘力ではタケミカヅチひとりに遠く及ばない。普通に考えて、超神となった孫悟空にどう逆立ちしたところで勝てる筈がないのだ。特殊な術や目眩まし、支援系の技ならば自信はあるが、決定的に不足しているものがある。それは破壊力だ。圧倒的破壊力の前では小手先の技など通用しないって事はタケミカヅチを見てよく分かっている。
―――あの時もそうだった・・・
苦い思い出が把倶羅の脳裡に蘇る。
生まれ育った神界を離れ、この三神界高天ヶ原に来るきっかけになった事件。
事件というより厄災だが、それは天災ではなく神災だった。ひとりの神が招いた取り返しのつかぬ厄災。その当事者は把倶羅が最も尊敬した身内だった。
把具羅の兄は『深淵』についての研究をしていたが、究極とも言うべきある存在の力に偶然にも触れてしまった。制御できたなら、とてつもない無限エネルギーを循環させる『闇の深淵』の力。しかしそれが、一介の神に扱えるような生やさしい物ではない事に気付いた時には既に遅かった。
まだ『ナマナリ』の状態であれだ。
もし、触れてはならぬとされたあの存在であったのなら、世界のほとんどを切り離し逃げの一手を打ったとしても間に合わず、把倶羅たち神族の世界は全てが呑み込まれて無に消えていた事だろう。
―――クソ、しっかりしろ俺!
あの時と比べたら孫悟空など大した相手じゃないだろう?圧倒的だが奴には理性があり話が出来る。ならば打つ手がない訳じゃない。奴は俺が何であるのかまだ理解していないはずだ。
「分かったよ、孫悟空。しかし、帰ろうにも帰る場所はもう無いんだよ。俺たち姉弟が生まれた世界は『ナマナリ』によって喰われちまった。逃げる途中で家族とも逸れバラバラになり、最後はどうなったも分からない。連絡も取れないし、状況も分からないんだ。俺達は厄災孤児なんだよ。もう悪さとかしないから、この世界に居させてくれ。お願いだ」
少しオーバーリアクション気味にシュンと表情を曇らせ、お涙頂戴的に語り出す。孫悟空は把倶羅の様子を注意深く伺ってはいるが、闘気に殺気が含まれていた先程とは違う雰囲気になっていた。タケミカヅチの情報通り、孫悟空は基本的に弱者には甘いのだ。
「ナマナリ? 世界を喰う神?」
「そうだ。奴は世界を喰うだけに存在するバケモノ神だ。『闇の深淵』の力に最も近づいた者の身に起きた、最悪の事故の結果だ。飢餓の極限状態まま思考が固定され、全てを喰らう以外何も考えられなくなった。お前にも分かる言葉で言うなら『スサノオ』に成らずに、別の深淵に落ちた『ナリソコナイ』なんだよ。それに襲われ、この神界に逃げて来たのさ」
把倶羅は、悟空が話に興味を懐いた事に内心ほくそ笑みながら話を続けた。
「ここに来た時、確かにタケミカヅチや周囲の環境に少し認識操作をしたが、それは俺たち姉弟が生きていく為に必要な事だった。悪巧みって程の事はしていないよ。タケミカヅチに『闇の深淵』の力についての知識を与えたはしたが、選択のは奴自身だ。情報そのものに罪はないだろう?」
「・・・・・・・・・」
「気に入らないなら『闇の深淵』の記憶をタケミカヅチから消してやるよ。だがな、奴が力に拘り、最強の力を求めるようになったのは情報を知る以前からの事だぜ? 消したところで、奴の思いが消えるとは限らない」
「・・・消せるのか?」
「消せるさ。その為にはタケミカヅチに触れなきゃならんが」
孫悟空は把倶羅の目から視線を離さず、心の中に偽りがないかを測っているかのように瞳から不思議な光を放ち続けている。
「嘘は言ってない。記憶を消す為にそちらへ行く。いきなり殺さないでくれよ」
全く隙のない孫悟空への警戒心MAXで、把倶羅はゆっくりと進みだした。記憶を消せるのは嘘ではない。どちらかといえば精神的干渉こそが把倶羅たち姉弟の真骨頂だ。そして、思考を完全に読み取らせない事においても彼の能力は飛び抜けていた。何故なら彼は、そうして進化した創造神が造り出した神界に生を受けた神族なのだから。
「―――つ!? きさまぁ!!」
悟空は、把倶羅がタケミカヅチに触れる瞬間の僅かな違和感に反応し、気絶したタケミカヅチの体を支えていた腕と逆の腕で横凪ぎに手刀をはらった。飛び退くように後ろにかわした把倶羅を睨み付け、腰を落とし構えを取る。
「何をしようとした? いま、タケミカヅチを殺そうとしただろ?」
悟空の人差し指と中指に光る針のような物が挟まれていた。把倶羅が含み針を放ち、それを悟空が指で挟みながらそのまま手刀で首を落としに行ったのだ。
「凄いよ孫悟空。俺はお前が心底から恐ろしい。俺の固有領域にまで攻撃を届かせるとは理解を超えた力だ。正に世界最強だよ」
バックステップして悟空の攻撃をかわしたように見えた把倶羅の首がコロリと落ちた。その首を受け止めて小脇に抱えながら更に距離をとると、姿とは異なる空間から把倶羅の声か聞こえて来た。
「お前ぇは・・・まさか思想神か!?」
「そうだよ。俺と姉貴は思想神の創造神が創った高次神界から来た渡来神だ。ここの神々とは出来が違う」
小脇に抱える把倶羅の首からは血はおろか、切り口に骨や肉なども見えず、中身は空っぽのガラン堂だった。中にあった淀んだ煙のような物が体と首の切り口から薄く漏れ出している。
「見るのは初めてか? こいつは依代人形さ。もっとも、材料は把倶羅という櫛名田家のお坊っちゃんだがな。こいつが五歳の時、知識神との交信をする儀式をした際に取り込んだのさ」
「全て嘘だったのか!?」
「いや。全て嘘なら気付かれてしまうだろ? 八割は本当の話だ。俺達は本当に厄災孤児なのさ。『ナマナリ』に追われ、逃げている時に都合よく他の神界からの通信門が開いた。俺の父親が俺と姉貴を門からこちら側に跳ばしたんだ。単なる知識交流の為に開いた門に神本体が乗ってしまったもんだから、受け手は即死さ。精神がその負荷に耐えきれず完全消滅。体の持ち主には気の毒だったが、こちらも必死だったんでな。まあ事故のようなもんだと思ってくれ」
把倶羅は首を元に戻そうとしたが切り口が付着せず、その行為を諦めて脇に抱え直した。
「俺が何であるか、気付くのが少し遅かったな。その針はフェイクだ。本当の目的は既に果たされた。タケミカヅチが気絶するなんて事は普通では考えられないから今まで出来ずにいたんだが、お前が気絶させてくれたお陰でいい仕事が出来たよ。ありがとな。姉貴もさぞかし喜ぶだろうさ」
「タケミカヅチに何をした!?」
悟空はタケミカヅチの体に何か異変がないかを探りながら把倶羅の行動に注意を払う。しかし悟空の感知能力では毒や他の何かしらの細工をされた形跡は見つけられなかった。
それに、ただ動揺させる手かも知れないし、思想神についての知識がほとんど無いに等しい悟空には不用意な行動は出来なかった。
仮に、毒を使うなら解毒薬を必ず持っているはずだ。自分自身や仲間に使われる場合の事を考慮せずに毒薬を開発する者はいない。このように知識を武器とする相手ならば尚更そうだろう。
「そのうち分かるさ。思想樹の芽は発芽したら最後、絶対に切り離せないからな」
「思想樹?」
「そろそろ準備は出来たかい姉貴? 時間稼ぎはもう充分だろ?」
まるで気配がなかった上空に、突然現れた禍々しく嫌な気を感じた悟空は空を見上げた。その先には、渦巻く雲の中心で開放の時を待つヘゲナゲートを背にした、ひとりの美しい女神が浮かんでいた。
十二一重のような美しい着物を纏った長い黒髪の女神。悟空は初めて目にするが、タケミカヅチの妻であり櫛名田姫と呼ばれる阿美羅そのひとだった。
「当然だけど、準備は出来ているわ。もう止める事は不可能だからここを離れなさい。巻き込まれたら当然死ぬわよ」
「もう発動済みかよ! 相変わらずせっかちだな!」
半分呆れた表情でニヤリと笑う把倶羅に、悟空は怒りと動揺を隠せず叫んだ。
「お前ぇたち、何をしたのか分かってるのか! 取り返しのつかねぇ事になるぞ!」
悟空は慌てた。把倶羅が細工した術は気づいたとき既に破壊しておいたはずなのに、いつの間にかその時とは比べ物にならない規模の複雑な術式がゲートの周りに展開している。発動の気配はなかったし、把倶羅に気を取られていたとしてもあまりにも時間が短すぎる。いつ準備し、いつ発動したのか全く理解できなかった。
「フフフ、当然だけど、驚いているようね。
どうせもう会う事もないのだから教えてあげるわ。私たち思想神は皆が時間操作が出来るの。もちろん自身の時間だけだけどね。止まった時間の中で他者への干渉は出来ないけれど、術の方陣を描いたり組立たり出来るの。だから、干渉力を解除したらいきなりそこにいたり、いきなり術が発動しても何の不思議もないワケ。分かったかしら?」
悟空の質問とは噛み合っていない気がするが、あらかじめ用意していたような口振りで極めポーズを作りながら阿美羅はそう答えた。そしてそれに気づいたのか、少し慌てたように言葉を付け足す。
「と、当然だけど、これがどんな結末を招くかも知ってるわ。当然よ!当然に!」
「・・・・・・」
「何よその目は? まさか私が、今のセリフを時間を止めていた間に考えて、ポーズまで練習していただなんて思ってるんじゃないでしょうね! 当然だけど、そんな事がある訳はないわ。私はいつも当然のように完璧なの!」
じゃあ、後は宜しく!!と言って阿美羅は姿を消した。現れた時と同様に忽然と消えた女神は、とんでもない置き土産をして当然のように避難したのだ。
ゲートが開く。ほんの小さなものでも神域ひとつ消滅させる恐るべき高重圧の虚無の扉がゆっくりと開いて行く。
「クソが!」
悟空が放った気の光撃が術の方陣を吹き飛ばすが、開きだした扉が閉じる事はない。一旦開いたらその力と相対するプラスの力を吸収しない限り消える事のないマイナスの力だ。それが虚無の本質なのだ。自らの力が消えるまで他を喰らい続け、対消滅した後には何も残らない最悪の現象。
いつの間にか把倶羅の姿も消えており、悟空はタケミカヅチを腕に抱いたまま膨大な負のエネルギーの前に立ち尽くしていた。




