蛇神の聖域【8】婚姻の儀式
ゆかりとヨムルの仕度が終わるのを待って、本物の神様に祝福を受けながらの神前婚儀が行われた。
神言による契りの祝詞というものを初めて聞いたが、意味も解らず心にジンと染み入るものがあった。いたく感激し、柄にもなく涙を浮かべてしまった。ゆかりなど大泣きしてるし、ヨムルも幸せそうに微笑み、潤んだ瞳で俺を見つめている。婆さんが呼び出した稚児の姿をした分身たちが進行を助け、しめやかに、そして恙無く婚儀は進むのだった。
「婿殿よ、孫の事を宜しく頼むぞ。これでワシも安心して逝けるわい」式が終わってすぐ、婆さんが言った。
「何を縁起でもない事を言ってるんだ。永遠の別れみたいな言い方してさ。これから転生して生まれ変わるんだろ?」
「神格はそうじゃ。じゃが、ワシという個性はこの世から消える。婿殿と話せるのも今日が最後になろう。じゃから言っておく。―――――ありがとう。ヨムルを、そしてヌシの子として転生する事を受け入れてくれて本当にありがとう。これで我が神生は無駄にはならず、再び輪廻の輪に戻る事ができる。全ておヌシとゆかりのおかげじゃ。感謝しとるよ」
そう言って俺とゆかりの手をとり、優しく力を込めて来た。
「婆さん・・・」
「あと、これはワシからの贈り物じゃ」
差し出した掌に丸い玉が光っていた。先程の『賢者の心臓』と比べるとかなり小さいが、右目の監察眼が感知したところによると、内包する妖力が桁外れにデカい。
「これは?」
「蛇眼じゃ。婿殿は右目にしか力が宿っておらぬ様子じゃから、左にはワシの蛇眼を宿すと良い。両眼が使えねば発動せぬ魔瞳術や妖瞳術はことのほか多い。右の瞳力と合わせ『神魔相剋』を目指せ」
「神魔相剋?」
「神であろうが悪魔であろうが、その力を中和し相殺する力場を生み出す究極の結界瞳術じゃよ。最上位クラスの神ともなれば、皆がその眼を持っておる。故に肉弾戦があり、武闘術を極めた者が有利になるのじゃ。簡単に身に付くようなものではなく苦労も時間も掛かろうが、婿殿ならばきっとモノに出来よう」
そう言って微笑む婆さんの左目の奥が、心なしか白んで見えた。
「有り難く貰っておくよ。でもこれを貰っちまうと、婆さんの左目は視力を失ない見えなくなっちゃうんじゃないのか?」
「なに、見えずともそれほど不便はない。それにもうワシには必要のない瞳力じゃからな。婿殿の役にたてるならそれほど嬉しい事はない」
少し戸惑いながらも感謝し玉を受け取ると、婆さんは嬉しそうにウンウンと頷いた。ヨムルに勧められるまま玉を左目にあてがうと、何の抵抗もなくスッと吸収されるように消えた。これで蛇眼の瞳力が左目に宿ったのだろうか?視界に変化はないが、眼底に熱い塊みたいなものを感じた。
「使い方はヨムルから習うと良い。かなりの便利グッズじゃ。神が使う『呪系』の術からも身を守ってくれるじゃろう」
重ねて礼を言うと、さっそく何か使える能力は無いかと試してみた。しかし、何も出て来ない。まあ当然と言えば当然だ。右目の時もアリスの指導があってはじめて使えるようになったのだ。コツを掴むには、かなりの訓練が必要になるだろう。
「さて・・・これからの事じゃが、さっそく子作りという訳にもいかん。分かっておると思うが、ヨムルには御祓の儀を行って貰う。転生については、巫女の神霊気を持つゆかりがおるから問題なく成ろう。じゃが、御祓は簡単には行かぬぞ?」
「はい。心得ています」
ヨムルは即座に答えた。ここに来た目的のひとつが神格を得る事であった以上、何の知識もない筈がない。
「お前は婿殿との交いの最中"昇霊神受の儀"を行うつもりでおったのじゃろうが、それは今回の転生受胎では使えぬぞ?」
「それは分かっています。自らの力で試練を乗り越え、必ずや転生体を受け入れる事が出来る器と成ってみせましょう。安心して下さい」
「うむ。既に覚悟は出来ているようじゃな」
「はい!」
ヨムルの真っ直ぐな返事を聞き「よかろう」と頷いた婆さんは、「では行って来る」と言葉を残しヨムルを連れて視界から消えた。これから御祓の儀に入るのだ。その内容は知らないが、覚悟が必要というからには何らかのリスクがあるのだろう。
そう思いながらゆかりの方を見ると、式の最中からずっと無言のまま終わった後も一言も発せず、妙におとなしくしている。もっとはしゃぐかと思ったのに意外だった。
「ゆかり?」
「は、はい。あなた!」
名を呼ばれて弾かれたように慌てて返事をしたゆかりは、言ってからボッと耳まで赤くなった。
「あなた?」
「お、おかしいかな? じゃあ、卓也さん!」
そう言い放った自分の言葉に照れてモジモジしていた。
「呼び方なんて何でもいいよ」
「そ、そんな訳には行かないよ! 私はお兄ちゃんの奥さんになったんだし、いつまでも"お兄ちゃん"とか呼んでたらおかしく思われちゃうよ!」
「別になんて呼ばれようが俺は構わないけどなぁ」
「私が構うの! いろいろ考えてたんだから!」
もしかして、ずっと考え事をしてたのは呼び方を考えていたのか?
「お前は元から家族だし、この世界に召喚された今でも大切な存在である事にかわりない。まあ、成り行きで式を挙げたような形にはなったけど、アリスから聞いた話では未来で一緒に暮らしてるらしいからな。早いか遅いかの違いで、いずれはこうなるとは思っていたよ」
少し呆れながら、ゆかりらしい行動に笑みを浮かべた。
「何それ? どういう事?」
「ん? どういう事とはどういう意味だ?」
「じゃあ、今までずっと私の一人相撲だったって事? お兄ちゃんに、私と結婚するつもりがあったなんて初耳だよ! てっきりアリスちゃんの事が一番好きで、お兄ちゃんはアリスちゃんと結婚したいんじゃないかと思ってた。それなのにお婆ちゃんがヨムルとの結婚話を持ち出した時も反対しなかったし、いったい何を考えているの? お兄ちゃんの事が分からなくなってしまったよ!」
「急にナニ言い出すんだ?」
突然の変化に戸惑う俺に「お兄ちゃんが本当に好きなのは誰なの!? 言い寄って来る女性なら誰でもいいの!」と声を荒げる。
「そんな訳あるか! 俺は・・・」
「お兄ちゃんがそんなプレーボーイだなんて知らなかったよ! ショックだよ! こんな調子でハーレムとか作るつもりなの!?」
「待て、待て。何でそうなるんだ? お前おかしいぞ」
「何がおかしいの? だって事実そうじゃん! 結果としてヨムルとも結婚しちゃってさ! 確かにヨムルは綺麗だし、頭もいいよ。アリスちゃんは聖天の巫女で、凄い力の持ち主だし、お兄ちゃんだって惹かれて当然だよね? メリーサだって自称アイドルって言うだけあって可愛いし、私なんかとは比べ物にならない美人で、それに・・・」
「ゆかり! さすがに怒るぞ!」
俺はマジで怒った。ゆかりが言っている事は全てが間違いでないにしろ、どうして非難されなければならないのか理解できない。ヨムルの事も了承したのはゆかりであり、俺には意見すら求めて来なかった。主導権は終始ヨムルの婆さんが握り、決断したのはゆかり本人だ。
「ヨムルと"子作り契約"を交わしたのは誰だ!」
そう?口から飛び出しかけたのを、グッと唇を噛んで呑み込んだ。一番苦にしているのはゆかり本人だし、それを口にしたらお互いが傷付くのは目に見えている。ゆかりは、明らかに情緒不安定な状態になっている。なおも自虐的な言葉を吐き続け、二人の雰囲気は益々険悪な状態になりつつあった。
くそ! こんな時、何を言ったらいいんだ?
どう行動したらいい? 40過ぎて、そんな事すら分からないなんて、情けなさすぎるぞ!
「何じゃ? さっそく夫婦喧嘩か?」
先程ヨムルと共に姿を消した婆さんが、ヒョイと二人の間に現れた。あまりに突然だったので、ゆかりも驚き一瞬言葉が途切れる。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬというが、蛇も食わんぞ?」
超ベテランの登場に俺はホッと胸を撫で下ろした。情けない話だが、凄い勢いで捲し立てるゆかりに正直お手上げ状態だったのだ。男が女に口で勝るなんて珍事が起きるわけがない。あのまま続けば、パチンと頬を叩くドラマでお馴染みのシーンに突入していた。
「お婆ちゃん!」
婆さんを見た途端、涙目で抱きついたゆかりは、なんと子供のように声を上げて泣き出した。情緒不安定であったとしても行動が突飛すぎる。
「お婆ちゃん。私、変なんだ!
あんなこと言うつもりも無かったのに、勝手にどんどん言葉が出てきて、駄目だと分かってるのに止まらないんだよ! 嫌な女になって行くのが自分でも分かるんだけど、でも、どうしようもなく不安になって・・・」
そのあと本格的に泣き出したゆかりの頭をよしよしと撫でながら、婆さんはしばらく無言で泣くに任せている。ゆかりの背中越しに俺に向けられた視線は、慈愛に満ち、安心しろと言っているように感じられた。
「ゆかりよ。お前の気持ちはこの婆にも良く分かる。突然手にした幸せに、どう振る舞って良いのか分からず、心が不安定になっておるのじゃ。この婆とて、輿入れしたばかりの時は同じ気持ちになった。別に、変でも何でもないんじゃよ?」
少し落ち着き、泣き止んだのを見計らい、婆さんは静かに優しく言葉を掛けた。
「お婆ちゃんでも?」
「そうじゃ。ワシにも小さき頃よりずっと憧れて花嫁として撰ばれる事を夢見て育った、そんな相手がおった。 願い叶い、晴れて夫婦となった夜、なんの不安も無く幸せの絶頂であるはずの心は、なぜか理由の分からぬ不安に大きく揺さぶられた。その揺らぎは不信を呼び、不信はワシの心を鈍く濁らせた。それにより、夫と先の妻諸先輩方を含め、周りの者達を大いに困らせたのじゃ。その揺らぎの正体に気付くのにしばらく掛かってしまったが、分かってからは不安は別の形となってワシの心を満たしたよ」
「心の揺らぎ?」
「そうじゃ。訳の分からぬ心の揺らぎ、それを今、ゆかりは感じておるのではないか? じゃから不安でならぬのじゃ。不安じゃからそれを相手にぶつけ安らぎを得ようとする。それは普通であって、何も変ではない」
「お婆ちゃん教えて! それは何なの?」
「求愛の情じゃ。愛されたいと強く強く想うがゆえ、相手の気持ちが気になって仕方ないのじゃ。悲観的になり、必要もない不信を煽り、自身を追いこむ。それを"嫉妬"と呼び罪とする神もおるが、ワシはそうではないと思う。それは成長する過程において必要なものであり、その感情が育むものはやがてとても尊いものになる。逆にその感情すら持てぬ者が真に尊き情に到達する事は出来ぬとすら思うておる」
「真に尊きもの?」
「無限であり、見返りを求めぬ無償の愛。『アガぺー』じゃ」
「アガぺー?」
「宣教神などは神の愛、神が人に向ける自己犠牲の愛などと言うものもおるがな。そんな神にしか持てぬものではなく、人は特に、女性ならばその域に達する者は多いとワシは思うておる。慈母愛と呼ばれる感情はアガぺーに最も近い。ゆかりにも母はおったであろう? 母から愛を感じたか?」
「うん。異世界に召喚され、もう会えないと分かってからはお母さんの事を考えない日はなかったよ。一緒に暮らしてた時はよく口喧嘩もしたし「私の事は少し放っておいてよ!」って怒鳴ってしまった事もあった。でも離れて暮らさなければならなくなって、本当のお母さんの気持ちがよく分かったよ。言葉では言い表せない程に私の事を愛してくれていたと・・・」
「ならば何の問題もない。母は愛し方を、父は生き方を子に教えるというが、ゆかりは母から"愛し方"をちゃんと教わったようじゃからな。己が母から貰ったその愛を、今度は目の前にいる愛する者に返す気持ちになってみるのじゃ。そうすれば自ずと答えは出てくる。全ては巡り廻って自身に帰って来るのじゃから」
蛇も食わぬと言っておきながら、婆さんはしっかりとゆかりを受け止め、励まし導こうとしてくれている。残された時間の中で何を遺してやれるのか? 出来る限りの事はしてやろうと心を下してくれているのが俺にも分かる。
ゆかりとて、感じるものがあったのだろう。婆さんを抱きしめていた腕に知らぬうちに力が入り、先程とは違う暖かな涙を流していた。
ゆかりと婆さんが、どのような関係であったのかを俺は知らない。しかし、目の前の二人を見ていれば想像はつく。婆さんはゆかりの事を親友と呼んでいたが、示される愛情はそれだけではないはずだ。ゆかりはたぶん中学生の時に死に別れた祖母の姿を、この八叉の婆さんに重ねているのではないだろうか? ゆかりはお婆ちゃん子だった記憶がある。
「ありがとう、もう大丈夫みたい。お婆ちゃんのおかげで落ち着いたよ」
「うむ、それは良かった。 おヌシ達の絆は深い。深いがゆえに甘えも生じやすい。だが信じるのじゃ。自分の心を信じ、最愛の人を信じ、振り返らず前に進むがよい。おヌシ達なら最高の家族になれるとワシは確信しておるよ」
ゆかりの肩をポンポンと叩き励ます老婆の姿に、俺ですら目頭が熱くなるのを感じた。家族という言葉に、もう24年も前に亡くした両親の姿を重ね、胸のうちに広がる暖かな感情が深く静かに俺を支配して行く。同時に、与えられた使命の重さにあらためて身が引き締しまる思いになる。
プレッシャーはある。
だが、不安よりも希望の方が大きく、なんとかなるのではないかという思いが、俺の背中を力強く押すのを感じた。