蛇神の聖域【2】ヨムルの婆さま
「いよいよ御対面よ。覚悟はいい?」
俺が無言で頷くと、ヨムルは指先で空間に印を刻んだ。すると目の前の空間がグァンと音を立てて歪み、パシッと弾けるような音と共に眩いばかりの光に包まれる。何やら見えない壁を通過した感覚があり、気付くと真っ白な何も無い空間の中心に座布団が置かれ、上に老婆がポツンと立っていた。
腰の曲がった小さき老婆は、田舎のお婆ちゃんよろしく地味な茶色の着物の上に赤いチャンチャンコを羽織り、両手を後ろで組んでこちらを見ている。その表情からは、何もうかがい知る事が出来ないほど無表情だ。前髪を切り揃えた座敷わらしのような髪型をし、その下にはアンバランスなほど大きな2つの目が光っている。
ーーこの婆さんがヨムルの? イメージと違うな。
プレッシャーを感じる程でも無いが、不気味な雰囲気があり、下で聴いた暖かみのある声の主とは思えぬほど冷たさを感じる。
「ヨムルよ。なぜこの者をここに連れてきた?」
しわがれた老婆の声が白い空間に響く。
しかし、目の前に立つ老婆の口元は俺を見つめたまま動いていない。
「答よ。なぜ連れて来た?」
再び老婆の問いが投げ掛けられるが、それでも答えを返さないヨムルに異変を感じ、視線を移すと、彼女は全身から汗を吹き上げながらガクガクと震えていた。こんな弱々しく、震えるだけの彼女を見るのは初めてだった。ヨムルの震えと連動し、俺の中にいる使い魔達がザワザワと蠢き騒ぎ出すのが分かる。
「おい! いったいどうしたんだ!?」
ヨムルの肩に手を伸ばそうとした瞬間、俺の右腕が視界から消えた。
――――な!?
痛みは後から襲ってきた。肩口から吹き上がる鮮血がヨムルの肌を赤く濡らす。と同時に、第二波の不可視の刃が俺の左足を根元から切断し、切られた脚は真っ白な地面を転がりながら粉々に四散した。
「ぐあぁぁ―――っ!!」
俺の呻きに正気を取り戻したヨムルが、倒れた俺の上に覆い被さりながら叫んだ!
「大婆様!! いきなり何をするのですか!?」
ヨムルは恐れおののきながらも老婆を見据える。
「退け! そいつは殺す!」
強烈な怒気を含んだ老婆の声が、俺とヨムルに突き刺さる。同時に感じた事のないほどの超ド級プレッシャーが、目に見える程の圧力となって重く乗し掛かって来た。コンクリートの中に閉じ込められたかのように、指先ひとつ動かす事が出来ない。肺が押し潰され、呼吸すら出来ない状態だった。
―――殺す? なぜ殺されなければならない?
俺がいったい何をしたというんだ!?
声は出ない。更に圧力が増し、俺を地面に押し付ける。
「させません!」
叫んだヨムルが、全身で覆い隠すように俺を抱き抱えた。老婆の発したプレッシャーは八叉の大蛇の姿となり、次々と実体化する様子を見せた。
「退けというのが分からぬか! 死ぬぞ!」
「退きません! 命に換えてもタクヤは殺させない!」
ヨムルの体からこぼれ落ちるように降ってきた小さな蛇が、俺の傷口を塞ごうと肩口と臀部に集まる。しかし流血は止まらず、心臓の鼓動に合わせてぶしゅぶしゅと音を立てながら吹き出し続けた。俺の中にある使い魔達も、必死に宿主の体を死滅させまいと治療にかかるが、老婆が与えた傷は塞がる様子を見せないどころか、徐々に広がって行くようだった。
「愚かで哀れな孫よ。そのような者に心を許すとは」
完全に実体化した八叉大蛇の首のひとつが、ヨムルの体に巻きつくと、然したる抵抗も出来ぬ彼女を軽々と持ち上げ俺から引き剥がしてしまった。俺の名を叫びながら持ち去られるヨムルを、今の俺は見守る事しか出来ない。その大蛇の首が高々と上がり、ヨムルを老婆の頭上へと引き寄せた。
「やめて下さい大婆様! お願いです。タクヤを殺さないで!!」
ヨムルなど見ていない。大きく見開かれた爬虫類特有の冷たい瞳が俺を射殺すように睨みつけている。ただならぬ怒り、殺意よりも遥かに大きな怒りがその奥に満ちており、混沌とした深き闇を生み出していた。
ーーー怒り? これは俺に対しての怒りか?
俺には怒りを買うような事をした覚えはない。
なぜそんなに怒っているのか全く理解不能だった。あまりにも鮮やかな腕の切り口を見れば、ヨムルを拘束している大蛇が食いちぎった傷ではない事が分かる。
ーーー空気の刃? いや、空間断絶か?
不思議な事だが、こんな状況にあっても俺の頭は冷静だった。視界に入る範囲の状況を把握し、ヨムルの状態を確認し、婆さんの能力を分析しようと思考している。流れ出した血液の総量から後どれくらいで意識が保てなくなるか、あと何分で生命活動が停止するのか、そして、この状況から脱する手段があるのかを同時に考えていたのだ。
思考は、この絶体絶命の状況にあって驚くほど冴え渡り、生き残る方法を何百通りも視察考案し、実行可能かを計算している。このまま死ぬのを待つなんて選択肢は微塵も考えていなかった。
ーーーこれは・・・思考加速か!?
そうだ。この感覚はアリスとのリンク中に行った思考加速の状態にかなり近い。アリスにサポートして貰った時ほどではないが、加速状態で思考しているのは間違いない!
俺の中に何人もの俺がいて、それらは感情を持たず冷静かつ客観的に物事を分析し、可能性を数値化してメイン思考体である俺に伝えてくれる。アリスという優秀なブレインが欠けている今は数値化にかなり手間取っている様子だが、信頼性は申し分ない。
そして、俺の思考加速が算出した生存確率は、なんと42%だった!
ーーーマジか?半分近い数値じゃねぇか!
数値に元気づけられ、急に闘志が沸き上がる。
ーーーそうさ!俺は未来でゆかりを復活させている。こんな所で死ぬはずないんだ!あと6分で俺の意識は途切れる。それまでが勝負だぞ!
傷口から受ける痛覚を遮断し、持てる戦力を確認した。妖力はほとんど無い。『時止め』が使えるのは1度きりだ。アリスによる予見がないから、頼るはゆかりから貰った右目の能力のみ。ヨムルがくれた服の防御機能は、使い方を教わってない今は使えそうにない。
――――おいおい、これってジリ貧じゃねェの?
生存確率の計算式、間違ってないか?
数値に疑問を持ちはじめながらも、とにかく行動すべく残された片手片足に力を込める。時間がない。ここで意識を失えば、全てが終る。
「お願いです! タクヤを殺さないで!」
ヨムルが必死に叫んでいる。
残る七つの首が殺意の塊となって一斉に襲いかかり、ドウと音を立てながら俺がいた空間に突き刺さった。
悲鳴に似たヨムルの絶叫が空を埋める。
「ーーーむ!?」
俺は『時止め』を使い、間一髪のところで攻撃を躱しながら白い大地をごろごろと転がった。不格好な避け方だが仕方がない。さっそく1回しか使えない奥の手を消費した俺は、次の攻撃を避ける手段がない。視力だけでなんとかなるような易い攻撃ではないのだ。
ーーーよし、第一段階は突破したな。
このあと俺に出来る事。それは会話だった。
思考加速をした際に俺のブレイン達が出した答えは「会話しろ」だったのだ。怒りの原因を聞き出し、問題があるなら解決する。それしか生き残る道はないとブレインたち全員が告げている。
ーーーさて、次だが・・・これからどうする?
攻撃は躱した。あとは会話に持ち込む事だが、どうやってその状況まで持ち込むかが問題だった。相手の出方次第なので、続く会話の内容までは予測できない。予知の使えるアリスのやり方とは根本的に違うのだ。
攻撃のとき生じた一瞬のスキをつき、なんとか高圧の力場から脱する事ができた。呼吸できるようになった俺は、大きく深呼吸をして肺いっぱいに空気をためると、大声を張り上げ力の限り叫んだ。
「安心しろヨムル! 俺はこんな所で死なない!」
「ーーータクヤァ!!」
叫び返すヨムルの目に涙が光る。
攻撃を躱せないと思ったヨムルは、俺の生存を知って驚くと同時に歓喜にうち震えた。
ーーー凄い、凄いわタクヤ!
大婆様の神圧を受けてなお動けるなんて本当に凄い。あなたなら・・・あなたなら、本当にこの絶体絶命の状況から生還してしまうのかも知れない!大婆様を前に少しも諦めていない。なのに私は・・・
「ここにきて、まだ孫の名を叫ぶか!」
老婆の声が怒りに震える。真っ白な空間に無数の黒い稲妻が走り、天と地を結びながら雷鳴を轟かせた。雷が落ちた場所は、黒い電撃が幾重にも重なりあった蛇のようにうねりながら地面を横走っていた。そのどれもが一撃必殺の威力を持つ事は誰の目からも明らかだ。超上級魔法か、神力による超現象に違いない。
「婆さん、俺はあんたと話がしたい!」
相手は神だ。いろいろ考えたが、結局ストレートに話を持ちかける事にした。どうせ小細工など通用しないだろうし、己をさらけ出して信用して貰う他に道はないという答にたどり着いたのだ。
「話がしたいだと? 小賢しいヤツめ。二度とその手は食わぬわ!」
ーーー二度とだって?
やはりそうだ。俺を誰かと勘違いしている。
「人違いだ! 俺は5日前に召喚されたばかりの異世界人だ! アンタとは初対面なんだよ!」
「そうです! タクヤは闇のアダムとしてこの世界に召喚されたばかり。大婆様は大きな勘違いをなされているのです!」
俺の言葉にヨムルが続く。声に先程までの怯えるだけだった様子はなく、強い意識と覇気が感じられた。
「同じじゃ・・・あの日と同じじゃ・・・
あの日の出来事をワシは片時も忘れた事などない。
再びお前と会う機会が訪れるまで、夫と一族の無念を晴らすまでは絶対に死なぬと心に決め、この暗い大地の底で今日まで生き延びて来た。
人違いだと? 馬鹿を言うな!!
きさまのそのふざけた存在力をこのワシが見まちがう訳があるまい。上手く隠したつもりだろうが、ワシの目は誤魔化されんぞ!」
老婆は黒く禍々しい神気を纏いながら語り出した。
俺をその誰かと勘違いしたまま、圧倒的だった存在力が更に増し、状況は絶望的な方向へと悪化の一途をたどるようにしか見えない。事実であろうと盲信であろうと、老婆は俺を殺さずにはいられない様なのだ。
「あの日、末娘の稍重をたぶらかしたお前は、娘に手引きさせ、九壬焔王クマソに近づいた。無力で無害な無能者を装い、おなごのような容姿で舞を踊り油断させた。毒を混ぜた神酒を飲ませ、自由を奪って夫の首を切り落とした。毒を食らいながらも逃げるワシの七肢を剥ぎ取り、辱しめた上に呪いを掛けてこの奈落に落としたのじゃ!忘れんぞ。あの時の屈辱と激しい怒りを絶対に忘れん!」
一気にそこまで語り終ると、俺を再び睨む。
「ぐあぁっ!!」
老婆の目がギラリと光り、俺の左腕と右足をギリギリと捻じ上げた。ぶつりと千切り取られた俺の手足は、空中に浮かんだまま弾けて粉微塵になって消えた。吹き上がる鮮血の量がハンパない。完全に致命傷だった。痛覚遮断も今回の攻撃には通用しない。この激痛に意識を持っていかれなかったのは、本当に奇跡だった。
しかし、俺の体は既に死に体。
手足を無くして芋虫のように転がった俺は、仰向きの状態で上を見たまま口から血を吐き、動きを完全に停止した。
「タクヤァ!!」
ヨムルの声が遠くに聞こえる。
視界が霞み、周りが暗くなって来た。
ーーー俺は・・・このまま死んでしまうのか?
「どうじゃ?四肢をもがれ地べたを這い回る事しか出来ぬ気分は?もっともその程度の傷で死にはせんじゃろうがな」
ーーー死にはしない?馬鹿を言うな。俺はその誰かさんとは違うんだ。何も出来ない。さすがにもう動けないよ・・・
ゆかりの顔が脳裏に浮かぶ。
アリス、そしてメリーサの顔も。これは走馬灯ってやつなのだろか?死を目前にした俺の頭の中には彼女達の笑顔や悲しむ顔が次々と浮かんでは消えて行く。
ーーーくそっ・・・どこでルートを間違えた?
「演技はもういい。あの時のワシとは違う。きさまの胸くそ悪い無抵抗ズラにも飽々じゃ」
老婆の声だけが脳内に響く。ヨムルの声はもう聞き取る事が出来ない。命の火が消える瞬間を迎えていた。だが憎悪を込めた老婆の声は尚も俺に語り続ける。
「いい加減その中途半端な依代を棄て、正体を現したらどうじゃ?ーーー須佐の武尊神よ」
ーーー須佐の武尊神?
「いや、こう呼んだ方がよいか? 破壊神スサノオよ」
ーーースサノオ? この名前は聞いた事のある・・・
しかし、それ以上は何も考える事は出来なかった。プツンという音を聞いたような気もするが、今となってはもう何も思い出せない。老婆の声も聞こえなくなり、俺は痛みから開放されると同時に、遥かなる静寂に包まれた深き闇へと堕ちていった。
俺は死んだのだ・・・




